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05

マンションの狭いワンルームに設けられているためか教壇とか神棚とかその他神具の類いはほとんどなく、事務机に応接用ソファといったものしかないため事務所のようにしか見えないその教団本部には受付の三〇代前半くらいだろうか印象の薄い淡泊な顔立ちの女性とそれより二廻りほど年嵩の男の二人だけで、住所と簡略地図を頼りに探し歩くが当のマンションが見つからなくて三〇分近く遅れてしまったのだが「ここ案外分かりにくいんですよ」と苛立つ様子もなく笑顔で年嵩の男は言い、「さあどうぞ」と応接用ソファを勧められて腰掛けると化粧っ気のない受付の女性がお茶を出し、気配を消すように自席に着いて受付業務に戻るのを年嵩の男は目端で確認すると恵美と紀子を正面で捕らえて「さて」と話を切り出すが、二人の用件など聞こうともせずに教団設立の来歴を説明的にではなく物語風に語りだしてその権力志向の表れか自分がその設立当初から、いやそれ以前から関わっていることを強調しつつ教義へと展開し、「貴女方のような若い方にもね、結構支持されてまして」と牽制しつつメシア降臨が間近いことを滔々と説き、誰もがマリアとなる可能性を秘めていて「あなたにも、そしてあなたにも」と恵美と紀子を指し示して男は微笑み掛け、そのためには「あらゆる相手と試みねばならないんです」と言い、「親兄弟とてもその例外ではありません」と不遜なことを言いだすのに眉を顰めると「ご不審はご尤もです」と手で制し、メシアの前では何ひとつ罪はなく罪はただメシア降臨の期を逃すことのみにあるとなかば自分の言葉に酔いしれたように男は言う。恵美と紀子は「はあ」と曖昧に頷いて一頻り男が喋り尽すのを待ってから紀子が語を挟んで来意を告げ知恵美の存在を知らしめると、「ほう」と一応の関心を男は示すが反応はいまいちで、「抑もメシアというのは」とまたぞろ話しはじめる気配を見せたのに閉口した紀子に「恵美」と促されて「うん」と専用のポシェットをテーブルの上に置き、手品師のような仕草で指し示すと勿体ぶるようにゆっくりと口を開けて桐箱を取りだし蓋を開け、心地好げに眠っている知恵美を起こさぬようそっと引き出して両手に掲げ持って示すと、男は不審げな顔でそれでも身を乗りだして手品の種を見抜こうとする不粋な客のように眺め廻し、それが息をし動いているのを確認して確かに生き物らしいと認識はするものの事態が飲み込めないし二人の説明とこの生き物とがうまく符合しないのがもどかしく、種を明かしてくれというように恵美と紀子を交互に見やるが、種などないこれが総てだとグイと知恵美を突き出すのに圧されて身を退いた男はソファの中に沈み込むように凭れ掛かり、気の抜けたように放心していたのもしかしほんの数秒で、勢いよくまた身を乗りだした男の表情は強張って指先が震えているのが分かり、「本物かもしれない」と呟き「いや、しかし」と二人を前にしてひとり考えに耽り、その「いや、しかし」を三回ほど呟いて不意に顔を上げると「駒井君」と受付の女性を手招いて「日下さん呼んでくれないか、至急」と耳打つと二人に向き直って「よろしければお時間しばらく頂けません?」と訊くので異存はないと二人頷けば、幾分顔を綻ばせて男は安堵の溜め息を吐くがまだ安心はできないというように「メシアって言うとまずキリスト教を思い浮かべると思いますが、あれとは少々違いまして私の言うメシアは」と饒舌に喋りだす。二廻りほどの年齢差が齎すギャップをしかし埋めることは困難で、恵美と紀子が男の退屈な話に相槌を打つのにも辟易し掛けた頃、玄関のドアが開いて男と同年輩と見える小男が現れ、「何です? 八木さん」と声高に言いながら小股に歩いてき、受付の女性が立ち上がって深々とお辞儀するのを軽く受け流して恵美と紀子を無視してソファ後ろを通って奥の事務机の椅子に浅く掛け、机に両肘をついて組み合わせた手を立てて顎を乗せ、八木のほうに眼を向けて促すと「はいそれなんですが」と一瞬綻び掛ける笑みを押し隠し事務屋の沈着を装って報告に努めんと掻い摘んで顛末を語る八木の眼はチラチラと知恵美に注がれ、その視線に誘われて知恵美に眼を向けた日下は知恵美から眼を離さず、コクコクと小刻みに頷いて報告を訊いているのをシマリスのようだと恵美は思い、そこから思念は一足飛びに五郎吉とお米に向かい、籠の中を忙しなく上り下りしていた光景を懐かしく思い出すが日向に半日放置して死なせてしまったその最期を忘れることはできず、泣き喚く恵美を宥め賺し説き伏せてマンション裏の躑躅の植え込みの縁石傍だと犬猫に荒されるからと奥まったところまで躑躅を踏み分け入っていってスコップで穴を掘って埋めさせたのは紀子で、さらにはアイスの棒に『五郎吉とお米の墓』と油性マジックで書いた墓標を立てさせたのも紀子だが、それやこれやが一時にどっと押し寄せてその鮮明な記憶に恵美は眼を潤ませるが、眼前の知恵美にそれがいつの間にか置換してその穴の中に干涸らびたミミズのようになった知恵美を入れ上から土を被せている光景が脳裡を掠め、必死に否定し修正しようと試みていると「そうですね?」と急に視線を恵美に向けた八木の声が聞こえ、一瞬状況を見失うがすぐ立ち直って「はっはい」と答えはしたものの幾分声が上擦り、緊張を和らげようと紀子のほうに首を巡らし、その眼はしかし恵美を透過して真っ直ぐに日下を見詰めていて日下のほうに向き直ればその恵美の背後から凛としているが僅かに脳天気さの残る声が「メシアかどうかは分かりませんがお話だけでも窺えればと」と来意を告げ、いつの間にか啣え煙草の日下は薄く煙を吐きながら「そうですか」と頷き、灰皿に灰を落としながら「そうですね」と独り言ちる。そこで一瞬会話が途切れ、その間隙を狙ってか「止してよメシアなんて。テンノウのほうがボクはいい」と不意に知恵美が言いだしたのには八木も日下も度肝を抜かれて凝固し、「聞きましたか八木さん」と日下が訊くと「はい確かに」と八木は答えて何事か諒解したように二人頷き合い、まだ吸いさしの煙草を日下は揉み消すと気忙しげに立ち上がり、軽いフットワークで知恵美に近づきしゃがみ込んでじっくりと観察し、それを横から覗き込んでいる八木が「メシアってのはただの符牒でして」と言い訳めいたことを誰にともなく言い、便宜上そう呼称しているだけで限定された意味ではないと断って「日本人にメシアって言ってもピンと来ませんからね。天皇だって何だってだから一向構いません」と殊更な寛容性を示して言うが、その八木に対してか知恵美に対してか日下は小刻みに何度も頷くと両膝においた手を支えにして立ち上がり、小股に歩いてまた椅子に掛け、嬉しいとも悲しいともつかない表情で一座を眺め廻すと内心の驚喜を押し隠しつつ二本目の煙草を取りだして火を点ける。

日下と八木の驚きに恵美は逆に驚かされるが不用意にその実体を明かさぬための小芝居のように思えなくもなく、その卑小さ威厳のなさも総てが計算尽くとすればいよいよ本物に違いないとの思いは徐々に確信へと変じ、廻り諄い説明など抜きにいきなり核心を突くように「他にも私みたいな人いますか?」と訊くと「今のところそのような例は確認されてはいません」と事務的に八木は答え、こっちは総てを諒解してるってのにまだシラを切るか用心深いにも程があると内心恵美は歯噛みするが秘密組織と言えばこれくらいの用心深さは必要なのかもしれず、盗聴器のひとつやふたつあったとしても不思議はないし最後まであからさまに口にはしないかも知れないと恵美は思うが、それでも訊かずにはいられず「メシアなんですか? やっぱり」と訊くと「まあ十中八九間違いないと言っていいでしょうが、詳しく調べてみないことには何ともねえ、八木さん」と日下は言葉を濁して八木に振り、「そうですね」と受けた八木の指示で『入会の手引き』と題された薄手の小冊子が二人の前に置かれ、何気なく恵美が手に取ろうとするのを日下が制して「八木さんそれはいいよ」と引き下げさせて一般信者とは別扱いだと八木に言い聞かせ、以後のスケジュールに関して二、三遣りとりすると「じゃ私はこれで」とそそくさと部屋を出ていき、「ということだそうです」と八木は幾分戯けたように言う。まるで社長の愛人にでもなったような一足飛びの出世に恵美も紀子も戸惑い恐縮してしまうが、引き返しようもない深部にまで来てしまっているのではとの不安もなくはなく、それでも教祖の威厳とかカリスマなど微塵も感じさせない日下からは確かに危険思想の欠片も見出せないしその気さくな小商人風な腰の低さに徐々に緊張が解れていくのを感じもし、信用するには至らないものの下手に利用される気遣いはないだろうと紀子は高を括るが、そこが宗教の落とし穴だし自分が不用意に持ち掛けたという責任を感じもしているため警戒し続け、その宗教というのがカモフラージュのための隠れ蓑だとの恵美の確信に近い推論というよりは妄想を紀子は信じてはいないので、知恵美の世話は恵美と紀子の責任において行い教団側はこれに一切関与しないということを絶対条件として提示することを決めて一応の善後策を講じるが、それでも「安心はできない」と危惧を示し、「知恵美はどうなの?」と恵美が訊けば「屁でもない」と豪語してカカと短く笑うのを「気楽でいいね天皇は」と紀子がぼやく。

定例のセミナーが次の日曜日に開かれる旨説明する駒井のあとを受けて、「ま、セミナーって言ってもそんな大したものじゃなくて」信者間の親睦を深める意味の「ちょっとした集まりって言いますか」と砕けた調子で八木は言うと、恵美と紀子の様子を窺いつつ「それでですね」とゆっくりと言い、そこで信者の方々へのお披露目も兼ねて「盛大にとは行きませんが」知恵美を連れて出席して欲しいと乞われるが、「日曜日って明後日じゃないですか」と脳天気さの抜けない声で紀子は言ってあまりに急なことに返答を渋っていると「待ち焦がれていたものの到来を秘しておくことができますか」と詰め寄って信者らに対するそれは裏切りに等しいと言い、そうまで言われては断る理由もなく引き受けてしまうが早計ではなかったかとあとになって悔やんでも遅く、明日に迫ったそのセミナーの予想される展開を知恵美も交えて三人で話し合って対応策を協議し、フリーセックスが教義の中核というからには無理から襲い掛かることもないとは限らないと不安は最後まで消えず、屈強な男も多数いるだろうあるいは男だけということも否定できないそのセミナーの籠の鳥に等しい状況でしかし女二人に何ができるかと思うとレイプは免れ得ない必至の展開のようにさえ思え、「考えすぎ」と一蹴する恵美の無思慮を紀子は窘めるものの楽観していた自分も恵美と大差はないと無性に腹立たしく、これでは道化を通り越してただの間抜けだと罵りたくなるが恵美の言うように悲観的に考えてばかりいても事態の好転しないことは確かで、明日を無事乗り切ることが先決と自制して「泊まってけば」との誘いを断って紀子が帰ってしまっても知恵美の慈愛の光が隅々行き渡っているせいか室内が閑散となることはなく、知恵美と二人差し向かいになってその淡い光を一身に浴びる恵美は酔ったように虚ろな視線を彷徨わせ、あれほど乗り気だったのにいざ乗り込む段になって尻込みする紀子の弱腰を訝り、その危惧を分からぬどころか同様恵美も抱えてはいるもののこの閉塞した状況を打破するにはこれしか手はないし何より知恵美のこの慈愛の光がその灼かな霊験があるのだから怖れることなど何ひとつなく、「ね」と言えば「もちろん」と答える知恵美を沁み沁みと見つめながら「泊まってけば好かったのに」と恵美は独り言ちる。

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