見るからにそれは小さく頼りなげだしほんの一握りで楽々と捻り潰すことができるその小ささでは証拠の隠滅も容易だろうし、後始末にしても割れたガラス器を包むように新聞紙で何重にもくるんで可燃ゴミと一緒に出してしまえば誰にも分かりはしないだろうというような不遜な考えが一瞬恵美の脳裡を過るが、逆に言えば隠し育てることも難くはないということをそれは意味し、つまりいずれの選択も可能なのだということに気づいて総ては自分の決断如何に掛かっていると思うとおいそれとは決断できず、早まった行為にしかし及ぶことがないのは紀子の注意があったからで、常に見守ってくれる紀子がいると思えばこそ心強くはあるものの先の見通しが暗いことに変わりはなく、それから逃れるように窓の外に眼を向けていた恵美が視線を落としてそれに眼を向けると、眠っているのか起きているのかまるで分からないそれは微動もせずに新たに用意したガーゼの上に横たわり、午後の日光と室内の蛍光灯の混合光に淡桃色の肌を艶やかに光らせて、いや、そうではなくそれ自身自ら淡い光を、卵を内側から光らせていたあの淡い光を発していて、恵美の気など知る由もなくそれは自ら生きていると恵美は思い、それに引き替え恵美や紀子はただいいように振り廻されているだけのようで馬鹿らしくも思えてくるが、それだけに一層恵美や紀子よりそれがよほど大きな存在のようにも思え、その発光する小さな胎児を天使のようだと思い、いや、本当に天使なのかもしれないと恵美は思い、メシアというのも強ち虚妄とは言い切れないとさらにも思い、それを産み落とした恵美は必然聖母マリアとなり、それに何某かの確証を与えてくれそうなのは紀子の言うメシアとなる卵を得るためにはありとあらゆるセックスを厭うてはならないとするあの一種独特な思想体系を持つ『神聖卵教会』をおいてないと独り言ちるが、不意に恵美の脳裡に卵温存の闇組織=『神聖卵教会』という構図が浮かび、「そうなんだ」と核心的に呟くと「何が?」と紀子が訊いてくるが「分かったよ」との答えにならない返答に「だから何が?」と再度訊くと、「神聖卵教会」と要領を得ない答えで一向状況が掴めない紀子は「ちゃんと説明して」と声を荒げる。
なかば昂奮気味に説明する恵美をじっと凝視していた紀子が不意に大仰な身振りで「ああマリア様」と手を合わせて拝むと、「止してよ柄でもない」と恵美は一笑に付すが内心満更でもなく、すっくと紀子の前に仁王立って握り拳を振り上げて「立派に育ててみせるう」と宣言すると「いいぞマリア様」と紀子も囃し立て、今ひとつしかしピンとこないのも確かで、それでもその決意表明でとりあえずは一区切りついたからお茶でも入れようと「コーヒーがいい? 紅茶がいい?」と訊くと「どっちでも」と言うので「紅茶にしよう」と恵美はキッチンに立つ。湯を沸かす間に昨夜買ったケーキの箱を冷蔵庫から出して皿とフォークを用意し、箱を開けてひとつずつ指さしながら「パリ・ブレストにシャルロット・オ・ポワールにミロワール・フランボワーズにフロマージュ・クリュにマルジョレーヌにガトー・バスクにコロンビエ、どれがいい?」と言い、「あ、忘れてた」と個包装されたマドレーヌやらマカロンやらガレット・ブルトンヌやらのゴッソリ盛られた菓子皿を持ってきてテーブル中央に置くといくつか袋がバラバラと零れ落ち、呆れ顔で見ていた紀子が零れた袋を拾い戻しながら「これ全部一人で食べんの?」と訊くと照れ臭そうに恵美が笑うのを「全部?」とさらに訊くと、「一、二個はダメにしちゃうこともあるけど。うん、大概全部行く」と床に落ちたマドレーヌをひとつと拾い上げて袋から出しながら言う。呆れ顔の固着した紀子の声だけはしかし脳天気な「よく肥んないね」との問いに対する「そういう体質なんだ昔っから」との恵美の答えに心底羨ましそうに「いいなあ」と言って「これ」と紀子はガトー・バスクを皿に取り、シャルロット・オ・ポワールを皿に取った恵美は箱の蓋を閉めて元通り冷蔵庫に仕舞うが、シャルロットを食べ終えても物足りないらしく、冷蔵庫からまた箱を出してきてマルジョレーヌ、パリ・ブレストと続けざまに三個を平らげ、そのうえ皿に盛られたフール・セック、ドゥミ・セックの半分近くをも食べ、「そんな食べたらご飯食べらんなくなるよ」との紀子の心配に「だいじょぶだいじょぶ、ご飯は別だから」と明るく事も無げに恵美は答えるのだった。とはいえこのように常と変わりなく間食できるのも紀子が傍にいるからだと改めて恵美は思い、面と向かって沁み沁み「ありがとう」と言われて妙に紀子はこそばゆく、「ハハ」と愛想笑いののち「フランボワーズだっけ? これ。頂くね」と皿に取り、上掛けのグラサージュだけフォークで掬い取って味見でもするように嘗め、次いでムースだけ掬い取って嘗め、さらにはジェノワーズだけ掬い取って口に運ぶというその食べ方が可笑しいと「もっとこうがばっと行かなきゃがばっとさ」と恵美が指摘すると、「こう?」と言ってざっくりと掬い取って口に入れたため口廻りにベッタリと桃色のムースが付着するし入りきらないムースが皿に零れ落ちる。
残ったケーキを冷蔵庫に仕舞って二杯目の紅茶を飲みながら雑談の折り、「そうだ名前つけよ、名前なまえ」と紀子が提案し、「でも、男だか女だかも分かんないのに」と恵美が危惧するのは生殖器が全く確認できないため外見だけから性別を判定することはほとんど不可能だったからだが、名前がないのはおかしいと紀子が言うのも尤もだと恵美は思い、況して自分の子に名前をつけないのは変だし第一何と呼び掛けるのか親としての自覚はあるのかと言い募るのにはしかし閉口し、そこまで言って激昂のあまり詰問調になっているのを紀子は自覚して慌てて自制し、「とにかくね」と一呼吸置いてから名前を持つことで確たる存在として存在しはじめるのだし「私にとってもそうだし恵美にとってもそう」と紀子は言うと、名前は是非とも必要だとひとり頷いて腕組んで考え込み、確かに名前は必要だと恵美も腕組み考えて、「小っちゃい恵美でチエミってのはどう? チエミのチは知るのシね」という案を出したのは紀子だが、何だかひどく安易でメシアにはそぐわないようにも思うものの他にいい候補もなく、届けを出すわけでもないのだからとりあえず良しとしようと『知恵美』に決定する。名前をつけたらしかしグンと愛情が増したようにも思え、「知恵美」と呼び掛けてみると何か自分が母になったような気がしないでもなく、こうして呼び掛け続ければいずれ真の「母」になれるのではと「知恵美、ママだよ」とさらにも「知恵美」と笑顔で呼び掛けると膨れた腹に凭れるようにしている干涸らびたミミズのような腕が恵美の呼び掛けに反応するように僅かに動き、「あっ動いた。ねえ動いたよ」と恵美は紀子を手招きつつさらにも「知恵美」と呼び掛け続けると内から発する淡い光が応答するように微かに瞬き、「光で答えた」と恵美は紀子をまた呼んで、「まさか」と訝りつつも躙り寄ってきた紀子にも見せようと再び「知恵美知恵美」と呼び掛けるがピクリともピカリともせず、「反応しないじゃん」との非難に屈することなく「答えたもん」と恵美は言い張るが、「気のせいだよ」と紀子はまるで相手にしない。それでも恵美は諦めず、知恵美の発光現象が身体機能の一部であるからは外界に向けての記号の意味を果たしているはずだしその感情とも何らかの連動があるはずで、たとえば赤が昂奮状態を緑が沈静を青が不安をというように発光の具合の微妙な変化が感情の変化と関係していても不思議はなく、その線で切り込んでいけば何某か活路が見出せるかもしれないと恵美はしばらく眺め続けて観察するが、最初の呼び掛けへの反応を除いて知恵美は泣きもせず動きもせず瞬きもせず、ただ死んだようにじっと横たわっているだけでそれほどハッキリとした変化も認められず、その後も変化を追い続けるがこの説を裏づけるに足る証拠は遂に見つからない。
一人ではやはり不安を感じると恵美は「お蕎麦でも取ろう」と紀子を引き留め、その恵美の不安が分かるだけに紀子はそれを断れず、予想される河井課長の陰険な河馬の眼つきを思うと気鬱になるが恵美からは眼が離せないと腹を決め、「上にぎりを二人前、はい、お願いします」と註文している「郵便局のほうからですよね、はい、坂下りた左っ側、そうです、三〇二です」の声を聞き、ふと知恵美の食事についてまるで考慮していなかったことに気づき、受話器を置いた恵美に「おっぱい出る?」と訊くが、唐突な問いに「えっ?」と恵美は訊き返し、「おっぱいだよ知恵美に飲ませるおっぱい」と重ねて訊くと、「ああ」と意図を把握した恵美の続く答えは「出ないと思う」で、「張ってるとかそういう感じもない?」と身を乗りだしてさらに紀子は訊き、「ないな」と紀子の乗りだした分だけ後退した恵美が答える。不意に紀子は立ち上がると恵美の背後に廻り込み、恵美の両腋の下から腕を差し入れて「揉んだら出るかも」と恵美の胸を鷲掴んで揉み拉きに掛かり、「擽ったいよ」と笑ってその手を払い除けようとする恵美を窘めてさらに揉み、「服の上からじゃダメか」とTシャツの裾を絡げてブラのホックを外して直に揉み、それから十二、三分ほど揉み続けるが、乳が出るどころか上気した恵美の息遣いが荒くなって紀子に撓垂れ掛かるように体重を預けてくるのを「何感じてんの」と揉む手を離して恵美を押しやると恵美は物足りなげに紀子をチラと見て、艶めいた溜め息をひとつ吐くと同時にチャイムが鳴り、「やっぱダメか」と言いつつ紀子は立ち上がって応対に出る。
寿司を食べてから粉ミルクその他育児の必須アイテムの買い出しに行くという恵美に紀子はつき合うが哺乳壜の乳首が大きすぎて知恵美に合いそうになく、仕方なく小鳥用のスポイトを購入するのにペットショップに立ち寄ったため予定より一時間近く遅れて自宅マンションに帰宅したのは四時三〇分頃で、十五分休憩ののち「さ、やろ」との紀子の指示で手分けして授乳の準備に掛かる。ガスコンロ前に立った恵美が作業の一切を受け持ち、シンクとキッチンテーブルの間につまり恵美の左斜め後方に紀子がついてミルク缶横に記入の作り方を読みあげつつ指示を出し且つフォローに廻り、二度のシミュレーションのあと本番に入るが、水道水はよくないだろうと購入した幾種類もの天然水をひとつずつ試してみることにし、「じゃ、これから」とそのうちの一本を適当に選んで差しだすのを恵美は受け取り片手鍋にあけ、火に掛けて人肌ほどに温めた天然微温湯で粉を溶き、スプーンで掬ってまず恵美がその味を確かめ、次いで紀子が味を見て「うん、OK」と片手鍋を持って知恵美の許に行き、スポイトで吸い上げて知恵美の口元に持っていってまず一滴垂らすが、ミルクはそのまま頬を伝って流れ落ちていく。二度三度と試みるが固く閉じられた口は一向開かず、「飲まないよ」と不安げに言う紀子と交代した恵美が試みるが何度やっても結果は同じで知恵美は頑なに口を閉ざしてミルクを飲もうとせず、首の角度の加減でミルクが鼻に入りそうになって焦ると余計しくじると一時断念して対策を練り、ミルクの温度と濃度を変えて幾度か試してみて六倍濃度の濃縮ミルクにしてようやく知恵美の口が開き数滴だがミルクを飲んだときは二人抱き合って歓声をあげるが、意識面においても実践面においても子育てというよりどこかママゴトめいているのを恵美も紀子も口にはしないものの等しく感じている。それでもとにかく一山越えたとの安堵からどっと疲れが押し寄せてくるのを押し止める気もすでにない恵美は後片づけも忘れてグッタリと横になった紀子はすでに寝息を立てていて、「夕飯どうする?」「そうねえ」という遣りとりがあったのを恵美は微かに記憶しているが、どうすることに決まったのか紀子は記憶していない。