友方=Hの垂れ流し ホーム

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「何の根拠もないんだけど」と一応断ったうえではあるが、愛しげに卵を撫で摩りつつ恵美の言う三つ巴の受精という発想に紀子は呆れ、その非科学性に困惑して返す言葉もなく、欲しくもないマカロン・ショコラについ手が出るが、それほどまで追い詰められているのかと一方で嘆きつつ口裏を合わせるべきか否定すべきか迷い、さらにも言葉を喪失してさらにもマカロン・ショコラを紀子は食べ続けるが、気がつけばそのマカロン・ショコラもすでになく、紀子がしかし食べ尽したのではなくて紀子にも増す勢いで恵美がその大半を食べたのだが、手のやり場口のやり場眼のやり場の悉くが失われて茫然となり、必然卵と真っ向から対峙せねばならなくなってしまった紀子に「お昼、食べてくでしょ?」と訊く恵美の言葉の裏に懇願を認めた紀子は即座に「うん」と答え、「何がいい?」との問いに胃に負担の掛からないものがいいと「お蕎麦」と答え、それなら『八方苑』のとろろ蕎麦が美味しいという恵美に倣って二人揃ってとろろ蕎麦を食べるがそれ以上引き留める手立てを恵美は見出せず、とにかく温めるより他ないとガーゼで丁寧に包んで袱紗に入れて温めることにして何かあったらすぐ電話するよう言い置いて紀子は自宅マンションへ帰るが、紀子がいなくなると急に心細くなるし気温が二度も三度も下がったように感じて妙に肌寒く、誤ってエアコンのスイッチを押したのかと見るがエアコンは作動しておらず、静けさがその原因に違いないと恵美はテレビの主電源を入れるが一向に肌寒さは解消せず、私がこんなに寒いのだから卵はもっと寒かろうと抱え込むように胸の上で卵を抱くが妙に落ち着かず、不意に立ち上がって窓際に向かって歩き、ガラス越しに下の通りを一瞬覗き見てクルリ廻転して反対側のキッチンとの境の敷居際まで歩き、そこでまた廻転して窓際に向かって歩き、また廻転してと部屋の中を往復して絶えず動き廻り、日の暮れ近くまでそれは続いたが、その間肌身離さず恵美は卵を保温し続け、そのようにして胸の上で卵を抱きかかえて温めていると愛着も湧いてくるから不思議で、早く孵らないかとそればかりが気になっている自分にふと恵美は気づき、それが妙に可笑しくてほくそ笑んだりしているのだった。ただそれが母性愛とは程遠く、大事な玩具を手放したくないというような子供染みた愛着に過ぎないと恵美は思い、自分がひどく冷徹な人間のような気になるが卵は卵にしか過ぎないし、冷蔵庫扉の卵棚にズラリ並ぶ卵のイメージから脱することがどうしてもできず、卵に我が子という認識を持てない以上「母」としての実感を持つことが困難なのもだから当然ではないかとの結論に達し、そう結論することで無理にも納得させようとする。

ふと何日くらいで孵化するのだろうと恵美は思い、出産まで普通十月十日ということからこの卵が孵るまでに十月十日を要するとしたらと思うと気が遠くなり、今の不規則な仕事を続けながらでは相当きつく、産休はあることはあるが卵を温めるのに適用できるのか分からないし「卵産んだので産休下さい」とは言えないし況して未婚だし父親も特定できないし何が産まれてくるかも分からないしと理由を挙げればきりがなく、公言などだからできず、やはり密かに温めて孵らせるより他ないと恵美は思い、十月十日はしかしいくらなんでも長過ぎで、抱卵期間は長くとも三〇日くらいじゃないかとも楽観するが前例を知らないのでハッキリしたことは分からず、いや表沙汰にならないだけで実は結構あるのかもしれないと恵美は不意に思い、誰しも卵など産んだら秘匿するに違いないし露見すれば「聞いた? ねえ聞いた? 高槻さんの娘さん卵産んだんだってきっと前世が蛇だったのよだから卵なんか産むのよ娘さんも卵で産まれたのかもしれないわよ高槻さんの奥さんの手凄く冷たいのよ冷え性冷え性って言ってるけどアレ嘘ね蛇なのよだから冷たいのよそうよそうに違いないわああ気持ち悪い蛇女よ蛇女」となるに決まっているし鼠算式に忽ち世間に知れ渡ってマスコミの取材攻勢に遭うに違いなく、そのような奇矯な報道をしかし聞いたことも観たこともないのは巧妙に秘匿されているからで、つまり闇の受け入れ態勢が確立していてそれを診てくれる産科医も必ずどこかにいて産まれた子供がある程度成長するまでケアしてくれて表向きはしかし普通の出産に偽装されていて母子ともに何事もなく家庭に社会に復帰可能なよう配慮されているため謂われない差別を受けることもなく分からないのも無理はないと限りなく妄想が肥大していき、極限まで行くとしかしリアリティーが失われて「あり得ない」の一語で一瞬にして崩壊してふりだしに戻る。そしてまた妄想を築き、築いては壊し築いては壊しを幾度か恵美はくり返すが、こんなことを果てなくくり返したところで虚しいし疲れるだけで何の益もなく、いつ孵化するかとの問いに対する確答が得られなければ不安の解消することもなく、一日も早く孵るようただ祈りそして祈り続けるしかないと思い、そこで思念が途切れてその一瞬の思念の途切れが空腹を呼び覚まし、腹がグググと鳴って「ご飯作んなきゃ」と嫌な妄想から離脱する。

眼前にあることによって常に不安に曝されているような気がして気鬱になるものの、部屋に放置しておくことはやはりできないと割れないようガーゼで何重にも包んで保護してバッグの一番上に乗せて恵美は定刻に出勤し、仕事モードにシフトしてしまえば先日のように卵のことも忘れるかと思ったがそうでもなく、常に頭の隅のほうに内から淡い光を透過させる卵の像がチラついて離れず、といって仕事の能率が著しく低下するわけでもなく、むしろいつもよりハイペースで片づいていくのに恵美のほうが驚いているほどで、これが灼かな卵の霊験とすれば卵も満更ではなく卵温存の闇組織という妄想も強ちあり得ないことではないのかもしれないと恵美はひとりほくそ笑んでは次々と仕事を片づけていき、その合間を見て定期的に連絡するよう心掛けるものの分刻みのスケジュールに追われてその余裕もなく、それはしかし単なる言い訳に過ぎず、定期連絡など三〇秒もあればできるではないかと紀子は自分を責め、不安を抱えて往生する恵美の姿が脳裡に貼りついて離れないにも拘らず何ら手を下さないのは怠慢だと仕事が済むとすぐに電話して「今から行っていいですか?」と媚びるような物言いを極力廃した事務的な口調で訊くと構わないとのことなので、いつもなら駅ビル二階の『鉋屑』で待ち合わせてよろしくやったあと二人して深夜のアトリエに行くのを今日はひとりで、しかも卵を携えてセックスを前にした昂揚とは幾分異なる昂揚感を抱えて恵美はアトリエに向かう。電車の振動も今は眠気を催す心地好いものでしかなく、「コレあたしが産んだの、先生の子だよ」というセリフが睡眠へと傾斜しつつある弛緩した恵美の脳裡を一瞬掠め、瞬間覚醒へと引き戻された恵美はそんなこと言いに行くんじゃないと打ち消すが、しばらくするとまた「きっと先生そっくりの子が孵るよ」という別のセリフがどこやらで囁かれるのを恵美は聴き、意識を他へ向けようとすればするほど意識はそこに還流してさらにも禍々しいものへと変じていきそうで空恐ろしく、今日はこのまま帰ろうと幾度も思うのだが気がつけば電車を降りていて、引き返そうと思いつつも恵美は改札を抜けて駅を出ていて、生徒に戻ってしまったように体は意識とは別にアトリエを目指して歩いているのだった。

街道沿いを下り方面に二分半、右手に折れて緩勾配の坂を上がりきったところにある似たような雑居ビルに挟まれた小汚い淡グレーの六階建てビルの二階三階四階がアトリエで、四階部分はしかし恵美がやめたあとに拡張されたもので、恵美が通っていた当時一階にあった喫茶店は今雑貨屋になっていて徳雄先生の話によると経営者は同じとのことだが昼間は来ないのでシャッターはいつも閉じられていて店の様子も造作も恵美は知らず、今初めてその店内を横目でチラリと覗き見つつ店前を過ぎてビルに入って一旦エレベーター前に立ったものの気後れしてボタンが押せず、引き返してその雑貨屋に入り、最奥の積み上げられた雑貨になかば埋もれるように鎮座しているのは確かに『茶番劇』のマスターその人だと恵美は懐かしく感じるが店主のほうは知らぬげで、「いらっしゃい」とも何とも言わずにただ所定の位置について気配を消そうとでもするように小さくなっている。木調製品が多いからか店内は木の香に包まれて心地好く、浮き足立って昂揚していた気分もいくらか和らぐように思え、店主に気取られないよう静かに恵美は深呼吸し、それからグルリ店内を見廻して小さいのから大きいのまで各種揃った桐の箱が置かれているのを見つけた恵美がその前に立ってしばらく眺めていると、急に愛想のいい営業スマイルで「ああそれはいい品だよ」と店主は言い、声に振り返れば間近に店主の顔があるのに驚いて一瞬恵美は声を呑むが、確かに値段は破格だが卵を納めるのにちょうどいいし真に卵が霊験灼かなら徒疎かにはできないし超人でも孵るのなら尚更と手頃の大きさの小箱をひとつ恵美は取り、店主に示して「コレ下さい」と手渡すと、店主はさっきの営業スマイルとは趣を異にする心底嬉しそうな笑みを浮かべて「ありがとうございます」と頭を下げて奥に向かい、丁寧に包装する。

この卵から孵る子が灼かな霊験を具えているならそれはメシアだし、それが真のメシアなら私は必然聖母マリアで、処女懐胎ではないものの処女の神聖性の下落した現代において三つ巴の受精はそれに匹敵するものではないかと恵美は思い、その代価としては安すぎるくらいだと妙に晴れがましい気分で店を出ると、何の躊躇いもなくエレベーターに乗り込んで二階で降りた恵美は右手突き当たりの女子トイレに直行して蓋をしたまま便座に腰掛けるとバッグを膝の上に乗せて口を開け、その一番上にある袱紗を取りだして今購入したばかりの桐箱に移し替えるが、まるで測ったようにピッタリの寸法で、何か卵の格が一段と高まったような気がするから不思議で、これはやはり真のメシアに違いないそうだそうに違いないとひとり何度も呟き、つまりは聖母マリアへと変貌を遂げた恵美は桐箱をバッグに納めて立ち掛かるが、急に尿意を催したため再度便座に腰掛けて「マリアだってオシッコくらいする」と排尿を済ませてからトイレを出る。

生徒たちのいるアトリエに恵美が赴くのはこれが初めてで、しんとしたなかに鉛筆の擦過音のみ響くのに幾分緊張するものの使用しているイーゼルも椅子も石膏台も壁も床も汚れも染みも何から何まで当時のままなので学生時代が思い出されて妙に懐かしく、出ている石膏はガッタメラータとモリエールとヘルメスでその厳い顔つきが全然似てなどいないのだが父と直結しているガッタメラータは気乗りしないし凹凸が少なく滑らかな表面で形にしにくいヘルメスは苦手だと恵美は迷わずモリエールに向かい、最前列の低い位置に席をとるがモリエールの長い髪やら衣服の襞やらの形がうまく描けたためしはなく、そっぽを向くように右方を眺めているモリエールの視線を辿ればその鋭い眼光で正面のヘルメスを睨みつけているガッタメラータがいるが、その眼を避けるように左方斜め下にヘルメスは顔を俯けている。モリエールに向き直った恵美は白画用紙に三菱の四Bの鉛筆でとにかく当たりをつけていき、その恵美の左に紀子が座って同じくモリエールを描いているがとくに会話もなく、孤独な作業だとつくづく思いつつ鉛筆を取っ替え引っ替えしながら恵美はなかば機械的に手を動かし続け、画用紙の上を走る鉛筆の擦過音がするのみのアトリエ内は静まり返っているが弛んだ神経を程良く引き締めるようでむしろ心地好く、一息入れる間もなく忽ち三時間が経過し、道具を片して帰り仕度をはじめる頃になって緊迫した空気に張りがなくなっても恵美はまだ鉛筆を離さず、紀子に言わせれば「ダラダラやってても同じこと」で傍で見ていてもどかしく、「違う違うそうじゃないって」とつい手を出したくなるが為にならないとぐっと怺え、その未練たらしさは分かっているがこればかりはしかしどうしようもないし紀子に二周も三周も遅れをとっているプレッシャーが日に日に脅威になっているせいもあり、視線によるその叱咤を強く意識して鞭打つものの薄っぺらなモリエールにしかならないのに恵美は苛立ち、描いても描いても全然ダメで、いや描けば描くほど不自然な黒と不自然な白い空白とが眼につくだけで収拾つかなくなり、低い椅子に座り詰めで尾てい骨が痛み始めて限界を感じ、仕方なく「終わり」と口の中で呟いて鉛筆を仕舞って帰り仕度を済ませたときには徳雄先生と紀子と三人しかいない。二人を前にして幾分気が退けるがパネルを石膏下に立て掛けて実物と比較すると実物の石膏モリエールがせせら笑っているように思えるほどただ白と黒の斑ら模様にしかそれは見えず、その最悪の出だしに虚しく項垂れているのを見兼ねて「お茶しよお茶お茶」と紀子は言って恵美のパネルを片しイーゼルを片して「行こ行こ」と声を張り上げ急き立てる。

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