恵美のそこに何物か挿入できる特権を所持しているのは現時点で功次と徳雄先生との二人だけなので、いずれそのどちらかの悪戯に違いないと恵美は思うものの二人とも知らないと言ったその言葉を恵美は信憑しているし、このような質の悪い悪戯をするような人とも思えず、それでは誰の仕業なのかと問うても答えは得られないのでやはり二人のうちいずれかの仕業というより他ないと恵美は思うのだった。捨ててしまうのは簡単だが、もしこの卵が本当に恵美自身が産み落としたものなら、その可能性は万に一つもないと恵美は思うもののなぜか否定できず、捨てることはだからできず、とはいえこの卵が現に生きているのかどうかも今ひとつ恵美には分からないので厄介な問題を背負い込んでしまったというのが正直な感想で、覚醒直後の混濁した思考力ではそれ以上に展開できず、まだ睡眠を引き摺ったような緩慢な動作で洗面に立った恵美は卵への思念を振り切るように洗顔してさらなる覚醒を促し、幾分浮腫みの退いた己の顔をそこに認めて「よし」と小さく呟いてキッチンへ戻るとトーストを一枚焼いて一昨日の残りの萎びたサラダとともに食べ、食べ終えた食器を水を張った洗い桶にぶち込んで何ひとつ異変などなかったかのように身仕度を整えた恵美は定刻に自宅マンション三〇二号室を出る。完全に異物感の消失した体は軽やかで、スイスイと滑るように早足で歩けるのがたまらなく心地いいしそのまま走りだしてしまいそうなのを抑えても足並みの快調なことには変わりなく、二分も早く駅に到着したためひとつ前の電車に乗ることができるが、途中快速に乗り換えるための待ち時間で帳消しになるし混みようも大して変わらず、快速に乗り換えて十分ほどが経過してようやく本来の自分を取り戻したと自覚するに至った恵美は、電車の揺れになかば抗いなかば身を任せながら真面な思考力でもって今朝の出来事を反芻しはじめ、その根本原因へとさらに遡及していく。
まず真っ先に念頭されるのが功次⇔恵美⇔徳雄先生という三角形で、技巧派の徳雄先生との粘つくような濃密なセックスに肉体派の功次との激しく狂おしいセックスが交錯した結果、といって3Pしたことは一度もないがそのような夢想をしないこともなく、恵美の上に覆い被さってあからさまに音させながら激しく腰を前後させている功次が瞬間にして徳雄先生に替わりまた瞬間にして功次になりということを延々くり返し、そのうちどっちとしているのか分からなくなった恵美がその顔を窺うと功次のようでもあるし徳雄先生のようでもあり、よく見定めようと両手を添えて見据えると二人が融合しているというような夢を幾度見たかしれず、現実においては退所後事務所ビルの三階女子トイレで功次としたあと行きつけのラブホテルでアトリエを退けた徳雄先生とというように同じ日に二人としたことはあり、恵美の卵子に徳雄先生と功次とのふたつの精子が巧いこと受精してその遺伝子が複雑に絡み合ってでき上がったのがあの卵なのかもしれないと不意に恵美は思い、避妊は万全のはずなのであり得ないとは思いつつも三人の遺伝子を合わせ受け継いでいるという自身の着想に満足し、私の遺伝子は複数の遺伝子を同時に受け入れることのできる類い稀な遺伝子なのに違いないと思い、そう思うことで総てが腑に落ち、というより腑に落とそうとし、少なくとも第三者を介在させずに済むことが恵美には何よりの妙案に思えるし、科学的根拠などだから意にも介さなかった。
電車が降車駅に着くころにはその思考は完全に前向きに転じていて軒昂と出社し、数日間の低迷が嘘のような神業と言っていい仕事振りで今までの遅れを一挙に取り戻した恵美は、全快祝いの飲み会の誘いを「病み上がりだから」と体よく断って定刻に退社し、疲労しきって帰宅してベッドの上の卵と再会するが、三つ巴の受精というアクロバティックな着想によっていくらか近しい感情を持てるようになったとはいえ、発光する卵というものにまだ慣れていないためにいま一歩近寄りがたく、食事し風呂に入る間もずっとそのまま放置していたが、いざ寝る段になってベッドのほぼ中央の窪みに卵があっては寝られないと恐る恐る手に取ると発光の割に発熱はなくむしろ冷たいほどで、いや、よく見れば死にかけの蛍のように発光さえ弱々しく、一日剥きだしで放置していたからだとようやく恵美はその愚に気づき、温めねばとタオルで包んで部屋中引っ掻き廻して見つけた去年の残りの使い捨てカイロを揉み解して下に敷いてテーブルに置く。
平日の疲労の累積もあって土、日の朝は大概昼近くまで起きられないのだが、午前七時に早々目醒めてしまったのはやはり卵が気になるからで、滑るようにベッドを抜け出た恵美はすぐ脇のテーブル前にしゃがみ込んでその安否を確認せんとタオルを剥いでいくと、カイロはすでに冷たいが卵は人肌に温まっていて発光の具合といい昨日に変わらぬその色合いといい一見異常はないようだが実際のところは何ひとつ分らず、それでも顕著な変化の見られないことに幾分安堵した恵美はカイロをゴミ箱に放り込み、タオルでは厚すぎるし呼吸もしにくかろうと薄手のガーゼに替えて再度丁寧に包み直してテーブルの上にそっと乗せ、昨夜から続く考えに沈む。卵であるからは生きている限りいずれ孵るということは必定で、恵美の子と認定したとはいえ何が孵るかまでは想定できないし未熟児や奇形児の可能性も否定できず、卵で生まれたことがその何よりの証拠だと一度は捻じ伏せたと思った不安がまたも兆しはじめるのを恵美は察知し、畢竟この卵を抱えている限り何らかの形で不安は絶えず存在し続けるに違いないと思い、ならばいっそのことと飛躍しそうになるのを恵美は押しとどめて冷静に対処せねばと戒めるものの、卵を産んだという話など聞いたこともないし気が触れたとしか思われないだろうから誰に相談することもできず、親になどだから絶対に言えるものかととりあえず孵るまでは極秘だと恵美は決意するが、ひとりきりではやはり心細く信頼できる協力者を確保せねばと知人友人の中から選抜して浮かび上がってきたのはやはり紀子で、恵美は紀子の携帯に掛けるが電源を切っているらしく繋がらないのでしばらく待って掛け直すがやはり繋がらず、四、五回掛けて午前一〇時半頃ようやく繋がるが、「あ、恵美い?」という妙に間の抜けた声は起き抜けらしく「ゴメン寝てた?」と謝れば「いいのいいの、それよりもういいの? だいじょぶなの?」と幾分心配げだが起き抜けでも脳天気な紀子の声音を耳にするとしかし忽ち失速して「だいじょぶだいじょぶ直ったから」と答え、それ自体に嘘は含まれていないもののそのあとが続かず話頭を変えて機会を窺うが、小一時間駄弁って結局何も言えずに「じゃあねバイバイ」となってしまい、「違うの紀子そうじゃないの話があるの」と掌中の携帯に向かって呼び掛けつつリダイアルを押すがやはり無駄話で終わり、それが二度三度と続いて「あのさー」「何?」「何でもない何でもない」が頻繁にくり返されておかしいと察し、ひどく心配になって「どうしたの? まだ具合悪いの?」と幾度も幾度も訊いてようやく「あのね」と恵美は切り出したのだった。
その取り乱しように紀子はあの大失恋以来の危機を感じ、「今から行く。待ってて」と返事も聞かずに携帯を切ってからきっかり三〇分でチャイムが二度忙しなく鳴り、紀子のその対応の早さに恵美はいつもながら感服するが、その行動力を当てにしている自分を不甲斐なくも思い、卒業制作で慌ただしい時期にひどい振られ方をして絶望して自殺をまで考えていたのを慰め叱ってくれたのも紀子だったし就職活動で悉く不採用通知を喰らったときに逸速く 内定を獲得した紀子の精神的バックアップがなければペシャンコになっていたに違いなく、あれもこれもと思い出す過去の危難のほとんどに紀子は恵美の庇護者助力者として関与しているということに改めて気づき、感極まって半ベソで出迎えるその口振りと泣き顔から察するに冗談でないことはすぐに分かったが俄には信じられず、それでも前のこともあったため事態の切迫を感じて素っ飛んできたのだが実際眼にすると冗談としか思えず、それでも紀子はそれとなく恵美の様子を観察しながらポツリポツリ話す恵美の断片的な話を再構成して全体像を概観しつつこの事態に適切に対処するにはいかにすべきかを思考し続けた。
恵美が掌に乗せたガーゼの中から出てきたそれを見て意味がないとは思いながら「たまご」としか言葉が出てこず、差し出された卵を紀子は手に取ろうと両手を恐る恐る動かし掛けるが直前で思いとどまり、気色悪いとかそういうことではしかしなく、手が滑って落として割りでもしたら取り返しつかないとどこか安定したところに置いたほうがいいと紀子の言うのも尤もで、「じゃあ」とテーブル上の紀子のティーカップと恵美のティーカップのちょうど中間のテーブルの真ん中辺りに置かれたマカロン・ショコラの菓子皿脇に寄り添わせるように、且つ転がらないようガーゼを土手状に配して恵美は卵をフワリと置くが、そのように置かれた卵が何か神社のご神体とかお寺のご本尊めいて見えるのは卵に対する恵美の配慮がそうさせるのだと紀子は思い、霊験灼かのようでもあるが卵であることに変わりはないのでそのちぐはぐなところがひどく可笑しく、笑える状況ではしかしないから恵美と紀子は互いに困惑げに顔を見合わせ、二人同時にマカロン・ショコラに手が伸びる。その底部と底部を二枚合わせて組にしたマカロンの間にはたっぷりのセミスイートのガナッシュがあるため上品に二口で食べようとしても横からガナッシュが食み出してくるので一口で恵美が頬張ると紀子も一口で口に入れ、そのようにしてマカロン・ショコラを頬張りつつしばらく卵を観察していた紀子が内側から発する僅かな光に気づいて目線だけを恵美に向けて「これ光ってる?」と訊くと「そうなの光ってんの」と事も無げに恵美は言い、右手人差し指を卵の頭頂部に添え、そうすることで卵の発光が弥増すとでもいうように卵の稜線に沿って側面へ向かって優しく撫で下ろす。