鴉だろうか、すぐ近くを鳴き声が掠めてゆくが上へ伸びる幹や枝が覆い隠すのか見上げても姿はなく、いや疎らなそれらで隠し果せてはいないから濁った色の雲が染みのように散らばる薄曇りの空にその姿も捉えられそうなものなのにそんなもの最初からないとでもいうように鳴き交わす声だけが空を移動していて、その下を声に見られながら、見られているに決まっている、どこへ行こうと何をしようと全部、それでも一歩を前へ、探るように前へ、滑りやすい傾斜をものともせずに、奥というか先というか薄いヴェールに隔てられたその向こうへ、四方を囲われた狭く息苦しい全き闇のなかを、青黒く淀みながら少しく波打っているそこは硬く冷たく、いや冷たいかどうかは分からないが足裏を打つ衝撃で硬さは分かり、つまりその程度の感覚はあるということで、寸断された連絡網が再構築されつつあるのだろう、それでもまだいくらかは波立ち揺らいでいるからバランスを崩しそうになって、しっくり馴染んでいないせいもあるだろう、無理をして転倒しないよう歩幅は狭く、凍った雪の上を歩く要領で足裏全体で踏み締めながら、右手を壁に添え左手は不意の攻撃に備えて防御の構えを取るわけでもなく垂れ下がらせて、そうして引き寄せ凭れ掛かり押しやって、奥というか前というか、先というか中というか、彼方というか手前というか、足音を忍ばせて向かおうとしている、膝に負荷を掛けると不安定に揺らぐからだろう覚束ない足取りでもう幾日も、あるいはそれ以上、それなのに一向に辿り着けないらしく、この分では生涯を掛けても至り着けないのではないか、というかその前に膝が保たないからほとんど不可能と言ってよく、つまり一歩一歩の積み重ねによっては成し得ないということで、そうとすれば何がその不可能を可能にするのか、何によってそれは成就するのか、もちろん一跨ぎによってであり、それ以外の何によっても成し得るものではないと左足を前に右足を後ろに構えて踏ん張り、前傾しながら右足から左足へと速やかに重心を移動させ、その勢いでこちらからあちらへ、蹴り上げる力が全身を弾きだすとともに少しく湿りを帯びた風に抱き留められるがそれはほんの一瞬にすぎず、次の瞬間にはすでに辿り着いていて、そこには扉というか敷居というかあちらとこちらとを分かつ、分かちながら繫ぐ、繫ぎながらも隔てる、薄く透明な膜のようなものが襞を寄せ脈を打ちながら、微かな、鈍い反響を断続的に響かせながら、絶えず形を変えながら、同じ姿で、鍵の掛かっていないそれは扉にも似て自由に出入りできるのだろう、出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせたというのではないがいくつもの影が、大きいのや小さいのや中くらいのや、太いのや細いのや中くらいのや、真っ直ぐのや曲がったのや中くらいのや、濃いのや薄いのや中くらいのや、硬いのや柔らかいのや中くらいのや、およそありとあらゆる形のものが、だから何の気なしにそれらのあとにつづいてゆくが、弾きだされるというのでもなく押し返されるというのでもないのに境を越えてその向こう側へ赴くことが、気息を整え一跨ぎにこちらからあちらへとなるはずがそうはならないのを、つい今しがたできたことがもうできなくなっているのを、迂回できるのなら迂回もしようがそうしたものもないらしく、一筋の通路があるだけだから行くか戻るかそのいずれかしか選択肢はないのであり、いや戻るという選択肢もあってないようなもので、振り返ることならいくらでもできるのに戻るとなると途端に分からなくなって、要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸の人であったということになるのか、いやそんなはずはと頭を振りながらひとつの影が通過するそのあとにつづいて通り抜けようとするがそんなことでは胡麻化されないらしく、順番というかルールというか何某か規則があってそれに従っているのでもあろうか、とはいえ当の規則が分からないからどうすることもできず、あるいは呼ばれていないからか、つまり大人しく待っていろということか、硬い座面に尻を据えて節々の痛みに耐えながら、尤もここには椅子もないが、あるいは頼めば持ってきてくれるかもしれないが別料金を請求されるとすればたとえそれがサービスに見合う金額だとしても懐具合に見合うとはかぎらないからおいそれとは頼めないし、とにかく何某かの痛みに耐え抜いてこそ、さらにはその苦しみを悦びに変えてこそ、例えば顔中に釘を刺して喜悦に咽ぶというような類いの被虐性に目覚めてこそ、晴れて通過する権利が得られるということか、待ちきれず席を立ってあちこちうろつき廻っていたら順番を飛ばされるということも、あるいは一旦列を外れたら戻ることは許されず、最後尾につかなければならないということも、いずれにせよ通れなければ先へは進めないのだが是が非でも通りたい通らなければならないというわけではないし待つこと待たされることは常態と言っていいくらいだからこの上さらに加算されるとしても大した違いではない、とそれが誤算であることも一応踏まえつつ壁に凭れながら背で支えながらさらに幾日も、普通の麻より遥に薄く出来ているので、風が来て綺麗なレースを弄ぶ様が涼しそうに見えたというのではないが襞を寄せながら脈打つそれを窺うと微かに届く鈍い音がその向こうから、それが開くと音は大きくなり、それが閉じると音は小さくなり、変化する音の拡がりに即していくらか搔き乱されて、その搔き乱されたものが凝り固まって影となるとでもいうように、ひとつ吐きだされあるいはひとつ呑み込まれ、またひとつ吐きだされまたひとつ呑み込まれ、それを指折り数えるがいくつまで数えていたのだか、果てもなくくり返されるそれはただ退屈なだけのゲームと言ってよく、有り余る時間をそうして埋めてゆくがそれでも尚有り余っていてとても埋め尽すことはできないらしく、だからといって放り投げることもできないのは恐らくどこかに穴が開いていて漏れているに違いないからで、スペシャリストではないからその所在は分からない、分かるわけがないと途方に暮れるのを待っていたとでもいうようにさらなる検査を、大仰な機器による精密な、それだけ出費も嵩むことになる、その選択を迫られて、曖昧に濁してやり過ごすことはできそうにないがいくらか猶予はあるらしく、今はまだそのときではないとさしあたり回避するにせよ浅慮にすぎないからすぐにも底が露呈するのは目に見えていて、それでも今はまだ、と開いたり閉じたりしながら、目の前を通りすぎる影を影たちを、行ったり来たりするその動きを具に、といって露骨な凝視は憚られるから盗み見るようにして眺めながら、あるいはそれは通過などではなく生成と消滅ではないか、そうとすれば妄りに足を踏み入れてはいけない領域であり、越えてはいけない壁であり、触れてはいけない膜であり襞であり、もちろん踏み躙ることもできるのだが、易々と蹂躙できるのだが、それはもう一突きで破ることができる薄さなのだが、それでも尚踏み留まって隙を窺いながらどこかに綻びがあるに違いないと根拠もなしに、とにかくつづけるほかないからつづけるのであり、終わるまで、尤も終わりがあるとしてだが、数えること数えつづけること、数え尽すことはできないとしても埋め尽すことはできないとしてもそれなりに紛れはするだろうし、それがどこかは知らないがどこかには至り着くだろうとやはり根拠もなしに。
というか壁なんかどこにもないのであり、すっかり晴れ渡って見晴らしもいいから隅々まで見通せるに違いなく、丈高い草叢のなかに埋もれているのでなければだが、もちろん埋もれてはいないが辛うじて頭ひとつ飛び出ているくらいで、なぜといって後ろから数えるより前から数えるほうが早いからで、それでも腰に手を当てることは一度もなかったから四囲を見渡すことはできるしほんの少し首を竦めるだけで隠れることもでき、だから敵の目を盗んでミッションを成し遂げることも容易なはずで、どんなミッションかは知らないが、というか見え隠れに移動する背を追い掛けることがさしあたりの目的で、それよりほかに目的などあるのだろうか、あっただろうか、抑も当のミッションの内容はその背が知っているだろうが、その腰も知っているだろうしその脚だって知っているに違いないが教えられることはないから知りようもないし、たとえミッションが完了したとしてもどんなミッションだったのかは分からないし、今回のミッションは終了しました解散というような明確な区切りもないからどこまでもつづいてゆく道のようにどこまでもそれはつづいてゆくのであり、今も尚つづいていて、それでも壁はあるのであり、そこに、すぐ目の前に高々と聳えているのであり、上のほうは乾いているからだろう灰色で、ところによっては白っぽく、下のほうは湿っているからだろう一様に黒っぽく、粘りのある膜を張ったようなぬめりを帯びていて、見上げるとどこまでも伸びているがその先端は空に突き刺さっているらしく、恐らく鉤状になっていて深く食い込んでいるのに違いなく、そうとすればそんなところを這い上がりよじ登ることなどできようはずもなく、況してその表面は手足を引っ掛けることもできそうにないくらい平らに削られているし、継ぎ目に指一本入らないし、石垣の隙間からは弁慶蟹がよく鋏を出したなどということはだからなく、石垣の間へ逃げ込む蟹の穴を棒で突ッついたなどということもないのだが、どこか山の奥のほうで切りだされ運ばれてきたのだろう、もちろんスペシャリストによって、そうしてひとつひとつ丁寧に積み重ねられて一切を堰き止めながらそこにあり、堅牢な、越えられない壁として、尤も堰き止め切れるものではないから溢れだすこともあるだろう、もちろん滅多に溢れることはないが稀に溢れることもあるのであって、一生の内に一度あるかないかというくらいの頻度だろうか、波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水(みずうみ)のように一杯になるというような、その程度で済めばまだしもだが、全部を覆い尽し呑み尽して悉くダメにしてしまうというかダメにしてしまったというか、あまりにも脆く弱くそしてあまりにも儚く全部が、一瞬のうちにもう、刻々と近づきつつあるそれと真面に対峙しようなどということはだから狂気の沙汰で、そうかといって逃げ切れるものでもないから否応なく対峙してしまっているのであり、憮然として佇むというか漂うというか、揉まれ流され沈められてどちらが上なのか下なのかも分からないもう、そうして誰にも気づかれることなくひっそりと離脱する、そんな予感が兆し、幕引きとしては穏当なものと言っていいが出来事としては唐突にすぎて納得できるものではなく、そうである以上どこまでも抗うほかないというか抗ってしまうというか、暗いほうへ闇のほうへ引きずり込もうとうねりのなかから伸びてくる幾本もの腕が絡みつくのを振り払いながら、彼を水の底に引っ張り込まなければやまないその強い力が二の腕まで伝ったというのではないが、強(こわ)い毛の生えた節くれ立った太い指の先の黒ずんだ爪が引っ搔くのだろう、幾筋もの線が刻まれてしばらく消えずに残っているその腕を差し上げては搔き寄せながら面の上と下とを行き来しながら、近づいているのか遠離っているのか、届きそうなくらい間近にあるのに、それなのに届かないのは常に一定の隔たりがあるからで、その隔たりを少しでも縮めようとするのだがどうしても縮まらず、一搔きすると一搔き分だけそれはこちらのほうへ、二搔きすると二搔き分だけやはりこちらのほうへ、三搔きすれば三搔き分、四搔きすれば四搔き分、それなのに一向に。