Effluents from Tomokata=H

戻る  

01  02  03  04  05  06 

07  08  09  10  11  12 


11

結局完成といえるほどのものはひとつもできず、書かれなかった物語は中途半端な奇形のテキスト群となってハードディスクのあちこちに今も放置されたままだ。それら散らばったテキストを丹念に拾いあげてひとつに纏め上げるだけの気もすでにない。抑も誰に向けて自分は書いているのだろうとふと思う。誰に向けて書いているつもりもないが、届く前に悉く失速して地に落ちているのにも拘らず書くことをやめないのはやはり誰かの存在を想定しているからだろう。突き詰めるとそれは自分のような気もするし、そうじゃないような気もする。そんなことはしかしもうどうでもよくて、いや、よくはないがさして気に掛けてもいないということだ。

誰に向けて忍が書いていたのかということも気になるが、それよりも実際に書かれてあることが美佳には問題で、なぜそれは書かれなければならなかったのかということが気になるのだった。自分の位置から忍を照射することはそれほど困難とも思えないが、忍の立っていたその同じ位置に立つことはほとんど不可能だろう。それでも忍が何を見、何を感じ、何を発していたのか、何を秘していたのか、それらが一望できる場所へと少しでも近づくために自分はこれを書いているのかもしれない。忍の為し遂げられなかったことを自分が完遂しようなどと考えているのではない。そんなこと自分にはできないと美佳は思う。ただ残されたファイルを繙くことでこれまで以上に忍を知ることができればというのが美佳の願いで、それが動因といえば動因だった。

その動機が理解できないが、直感的に危険を察知したのらしい。

最初はだからひどく拒んだ。というのも何かそれが悍(おぞま)しいもののような気がしたからで、病院という場所にもいくらか気後れを感じていて、消毒液とか薬品とかの雑多な臭いには吐き気に近いものを覚える。塩素消毒したばかりのプールに沈められた記憶が現前するというだけじゃなく、死を唆す声に満ちているからダメなのだ。厳重に防壁を巡らしていても気づけば内側に入り込んでいるということを幾度となく経験してもいて、そういう妙な緊張を強いられる場所には長くいられないし、その悍しさも倍加するのだった。向こうもそれは知悉しているはずなのになぜ忍を誘うのかそれが分からず、押し黙って答えられないでいると「そっか、じゃ、まあしょうがない」といつもなら引き下がるところを「でもほら、顔出すだけでも」と執拗に食い下がるからさらにも忍は警戒する。

警戒する忍を訝るように「ちょっと見に行くだけだから」と父は言うが、その言葉をそのまま鵜呑みにはできない。どう考えても罠臭く、見にではなくて診せられにいくのだと忍は思い、行ってはならないと固く決意する。それが罠だということを裏づけるように「美佳とのことは全部知ってる」とその瞬き二回は告げているし「おまえ自身の手でケジメ、つけてもらうからな」と床に落ちている毛玉を拾おうと屈めたときに覗けた背中は告げていて、そんな不利な条件誰が呑めるかと首を振ったのだ。所与の件のみを考えてもYESとは答えにくいのに、そのうえ罠が仕掛けられているとすれば尚更YESとは言えない。

自分を引き合いに出すまでもなくこの世に生まれるということは決して喜ばしいことではないからそれを祝福する気など全然ない。そんなことをしても怨まれるのがオチだ。父や母を疑っているのでは全然ないが、いや少しは疑っているかもしれないが、やはりこれは罠に違いないと忍は思い、自室に逃げようとする。予感めいたものが働いていたようで、出掛けず家(うち)にいたらあるいはもう少し先に延びていたかもしれない。少し延びたからといって結果は同じだろうからどうということはないのだが。

嫌がる忍の手を取って引き止め、無理やり連れだそうと引っ張っていくその強引さに観念したというわけでは決してないが、無理に振り解くこともできず、ほとんど拉致されるようにして忍は車に詰め込まれる。それで手間取って時間に遅れそうなのか、ひどく乱暴な運転で、ただでさえ酔いやすい質だからそんな運転をされたら一溜まりもなく、排気ガスを直接胃へ送り込まれでもしたように気持ち悪くなって、昼食を摂らなかったせいもあるかもしれないがひどく酔い、シートの背凭れに沈み込むように蹲って耐える。着くと速攻でトイレに駆け込み、朝食べたトーストを忍は吐く。洗面で口を漱ぐあいだ「見るな帰れっ」と鏡向こうの忍に頻りに警告され、それを受けてというわけではないがそのまま見ないで帰ることも考えたし、そのほうがいいということも分かるが、やはり見ないではいられないだろうと忍は思う。無視したから激したのか「やめろ」と一喝されて一瞬仰け反るが、表情を隠すようにシャツの袖口で口元を拭いながら「そうもいかない」と呟いてトイレを出る。

むしろ化け物染みた容貌をしているほうが余っぽど安心できると思いながら、皆の期待を込めた眼差しが向けられているガラス向こうに並ぶソレを忍は見たのだった。何か動物園にでもいるような気がし、新生児というそれは遙か遠い世界の珍獣に違いないと思いもし、物珍しげにその珍獣を眺める人らを忍は観察しながら騙し騙し距離を縮めていく。頭ひとつ飛び出ているから群がる人らの背後からでも見えないということはないが、ガラス越しだし顔を横向けているせいでよくは見えない。というより産まれたばかりでどれも同じようにしか見えないし、寝かせられた籠だかにつけられた名札がその違いを表わす唯一の指標で、似ているかどうかなどだから全然分からない。それでも血は受け継がれたのだから自身の存在は不要だとそのとき忍は思ったのだった。それまで漠然と懐いていたものが一挙に身近なものとなって忍の身体を囲繞(いにょう)し、傍流としてドロップアウトできると思うと身が軽くなったようにさえ感じる。

まだ首も坐らない一匹の珍獣がクイとその大きな頭を擡げ、真っ直ぐな眼で忍を見つめて「このチャンスを逃したら次はない」とそう訴えるのだった。全くその通りだ。その子の言葉は過たず忍に届き、ゆっくりと忍は頷き返す。そのときはじめて忍は問いに答えることができたように思い、為すべきことはもう何もないと確信したのだった。帰りの車でもひどく酔っていくらか憔悴してはいるが、そこへ連れていかれたときの絶望的な暗さはない。この子が孝裕の血を受け継いでいるのか、忍のそれを受け継いでいるのかなどということはもうどうでもいいと美佳は思い、いや、むしろ忍の血をこそ受け継いでいてほしいと油に塗れた指を布巾で拭いながら思う。

もうこれ以上余計な声は一言も聞きたくないと忍は思い、それを行う前に完全な静寂を齎す遮蔽膜の形成を考える。前々からプランはあったが、ただ蓋をするだけで有効かどうか確信が持てなかったし、他にもっと簡便な方法があるかもしれないと逃げていたのだ。最後だからというわけじゃないが、試してみる価値はあると耳の裏側に人差し指を宛(あてが)い、手前に倒して穴を塞いでみる。血流の音だろうか、地鳴りのような響きがゴーゴー言っていて、ドクドク脈搏っているのも聞こえる。アイラーの咆哮にも匹敵するそれは轟音で、いや、それ以上に凄まじい迫力で耳内に響き渡ったから忍は圧倒され、思わず指を離してしまう。

皮膚一枚の覆いで、たったそれだけのことで巧いこと遮蔽できているのが不思議だが、二〇年近く悩まされてきた声からこれで解放されるかと思うと嬉しく、自然と笑みさえ洩れてくる。機械なんかより遙かに優れた肉体の可能性に忍は驚くとともに、今までそれに気づきもしなかった自身の無能に憤りをさえ覚える。そうと分かれば猶予はならない、すぐ実行に移さなければと母の裁縫箱から針と糸を調達する。ただ耳を塞ぐだけなのだから決して難しいことじゃないはずで、ピアスを開けるのと大して変わらないと忍は思い、恐怖心を抑えようとそれが如何に容易なことかと何度も自身に言って聞かせる。

01  02  03  04  05  06 

07  08  09  10  11  12 

戻る  


トップ | インフォ | プロフィール | 小説 | イラスト | レシピ | 雑記 | 掲示板 | 送信 | 履歴

コピーライト