山本可奈子。まずそう名づけることからはじめなければならない。
そうすることで自ずと顔立ちも鮮明に浮かんでくるし、忍との関係についてもよりリアルに表現することが可能だろう。確か同じクラスの女生徒だったと思う。転校生でもいい。そう、彼女は転校してきたのだった。梅雨入り直後だったか明ける直前だったか分からないが、どんよりした雨の日に憂鬱げに項垂れた担任とともにやって来たのだ。担任の押しつける憂鬱を払い除けようと微笑む姿が印象的で、何か擽ったいのを我慢してでもいるように肩を揺らすその身振りを忍は長く記憶することになる。
おっとりした性格で目立っているほうではなかったようだが、それは三井恭子とキャラが被っているせいで、薄くのっぺりした顔立ちにしても全体に均整が取れていて歯並びもよく、ルックスとしてはそれほど悪くないと思うし、隠れファンは案外多いと忍は見ている。忍の記憶するかぎり以下の三つの方法が同時に為されたようなのだ。最初に断っておくがそれらは決して矛盾しない。端的に三つ仕掛けられていた網の三つともに掛かったということにすぎず、忍の無警戒というよりそれは山本可奈子の巧妙な計算の勝利といえる。おっとりと見えたのも案外計算なのかもしれない。
告白その一。昼休みだか放課後だか忘れたが、急に呼びだされたから何かトラブルかとちょっと不安になったのを忍は記憶している。こういう些細なトコにもイジメの経験は跡を引いていて、咎められるべき不備はないと思いながらもそれとは断絶したところから攻撃は来るものなのだと警戒したし、女子をダシに使うのなんて初歩の初歩だから真に受けたりもしなかったはずだ。それでも行くだけは行ったのだった。
遠目からすぐそれと分かっていくらか忍は安堵し、それでもゆっくりと距離を縮めていったからなかなか近づかず、もどかしげに山本可奈子は身動ぎしているが、決してその定位置から動こうとはしない。二メートルくらいまで近づいたところで軽く息を吸い込んだから来ると忍は身構えるが、顔の前で手を合わせて拝むような仕草をして「ゴメンね、なんか急に呼びだしたりして」と言い訳するところからして怪しく、嫌な前振りだとまだ警戒は解けない。忍のその警戒を察してか落ち着きなげに「あのね、あのね」と言いながら鞄の中をゴソゴソやっているのが取ってつけたような演技に見え、いよいよ怪しいと一歩後退(あとずさ)って距離を置くが、一%(パー)くらいはホントかもと期待を残しておく。
それがしかし隙を与えたのらしく、不意に間合いを詰めてきて手を差し伸べるから忍は驚き、上体を仰け反らせて右足を後ろに引いて逃げる構えになる。忍が身を退いた分だけ踏みだした山本可奈子は「あのねコレ」と上眼に見つめながら手を突きだしてくる。仰け反りながらもその手に何か握られているのに忍は気づき、探るように眇め見ると何か四角い紙様のものを忍の胸先に突きだして取れと促すようにチラつかせている。端的に未体験ゾーンに突入したことでその対応に困り、茫然と立ち尽していると一方の手で忍の手を取ってその四角い紙様のものを掴ませ、読んでくれと言う。いや、言ったかどうかは覚えていないが眼はそう訴えていた。そのときは単純に信じてしまったが、今にして思えば直接彼女が書いたのかどうかも怪しい。罠の可能性が非常に高く、不幸の手紙か何かだったらどうすると開けるまでに相当忍は悩んだのだった。
告白その二。粗方生徒の下校したあとのひっそりとした靴脱ぎにひとり忍は向かい、下駄箱から靴を出そうとして指先に触れるものがあるからひどく驚くが、何かと覗き見れば四角い紙様のもので、何とそれを特定はできないながらもその発見の現場を別の誰かに発見されることを怖れて慌てる。とはいえ放置してもおけないから素早く取りだしてポケットに忍ばせる。ふと視線を感じて見られたと焦り、万引きを強要されたときの罪悪感が瞬間全身を凍りつかせるが、振り返ったそこには誰もいない。いや、鏡に映った忍が怯えた眼で見ていた。脅かすなとそいつに向かって忍は言うと、脅かすなとそいつもまた忍に返す。ゆっくりと周囲に眼を配って本当に誰もいないのを確認してから靴に履き替えると、ポケットを上から強く押さえながら逃げるように忍はその場を去る。発信器がつけられていたら押さえていたって無駄だが、そうせずにはいられない。
告白その三。どのような経路で伝達されたのか全然分からないが、指定された場所に指定された時間に過たず忍はいた。ちょっと遅れて山本可奈子がやって来るが、忍のいるのに気づくと慌てたように小走りになり、リズミカルに頭が上下するのに合わせて肩に掛かるか掛からないくらいのセミロングの髪も踊るが、時どきガクンと落ち込んで転けそうになり、それが態となのか小芝居なのか見極めがたく、忍を困惑させる。
忍の前まで来ると息が切れるほどでもないだろうにハアハアと荒い呼吸で遅れた詫びと言い訳を山本可奈子は捲し立て、その間ずっとさして乱れてもいないのに髪を掌で撫でつけたり指で梳いたりしている。そんなことより用件を言ってくれと忍は焦るが、急き立てることはできないから黙して待つ。知らないうちにしかし言葉が途切れていて、もう終わりなのかと慌てるがそうじゃないらしい。ここからが本題なのらしく、その衝撃に備えて忍は身構える。
ひどく思い詰めた様子で空気も重く、肩は凝るし胃はキリキリと痛むし眼は変にチカチカして見辛いしと最悪で、あとの展開を思うともう逃げだしたいくらいだが、用件も聞かずに帰るわけにもいかないとどうにか踏みとどまっている。何か言おうとしているがなかなか言いだせないという素振りを山本可奈子は見せ、対峙したまましばらく沈黙が続いて額を汗が一筋つうと流れ落ちるが、それさえ拭うことができずにその擽ったさに忍は耐える。額の痒みが引きはじめたころ、不意にビクンと山本可奈子が上体を震わせて「あの、私、倉田くんのこと、前から、えとずっと」とストレートに告(こく)るが、肝心の部分が全然聞き取れなくてその意を解することがなかなかできず、訊き返すことなどできないから焦るが、このシチュエーションからその内容は概ね把握できる。自身に好意を寄せているということだが、そうだと知ると直視もできなくなり、緊張のあまり何も言えないが承諾の意はどうにか伝わったらしく、何か礼を言って来たときと同じように走っていった。全然聞いていなかった。
事実は事実として素直に歓ぶべきなのだろうが、一連の出来事を不思議というよりは不可解と忍は思い、一概に罠と斥けることはなかったが、どう応じたらいいのか分からなくてひどく困惑していた。自席に着いたらそれっきり身動きできず、トイレに立つこともできない自分のどこが気に入ったというのか、話し掛けられぬよう常に池波正太郎を読んでいる自分のどこに惹かれたというのかそれが謎で、騙されているとの思いは拭えなかった。告白とその承諾と来れば次は必然デートということになるが、その実態は模糊として忍には捉えがたく、それを再現することはだからとても難しい。
デートその一。予定など立てても総て裏切られるに決まっているが、そうかといって無計画というわけにもいかない。何某か足掛かりは必要で、まずいくつかプランを立ててそれを元にシミュレーションをくり返したのち実行に移すという段取りを忍は考える。ただあまり緻密にすぎるプランは却って嫌がられるだろうから大枠だけを決める。粗すぎてもダメだし密すぎてもダメでその加減が難しいが、奇を衒(てら)うよりはオーソドックスに攻めるほうがこの場合無難だろうと練り上げたのだった。
忍の案はしかし「ええヤダあ」の一言で却下され、第二案を提示する暇もなく山本可奈子の希望で確か『タイタニック』だったと思うが観たのだが、やたら人が多いしザワザワしているしではじまる前からかなり忍は参っていた。こんなところに来るべきじゃなかったのだと後悔するが変更はできないし、拷問のような数時間を耐えなければならないと思うともうそれだけで気鬱になってスクリーンになど集中できず、彼女はえらく感動したようだが忍にはだからよく理解できず、退屈で途中から寝てしまって「もサイテー」とか言われてそれっきり。
デートその二。としまえんだか後楽園ゆうえんちだか東京ディズニーランドだか定かじゃないが、とにかくその手の場所に赴いたことは間違いない。人混みが全然ダメなうえに絶叫系の乗物で完全にやられて支えなしには立てないほどに忍は平衡感覚を失う。さらに炎天下に何時間も並んでいたりしたからだろう、首から後頭部に掛けて不快な痺れがあって、そのうえ頭の中で風船が膨らんでいくような鈍い圧迫感も加わり、気を抜くと意識が遠退きそうで、いや、何分か気を失っていたような気もする。肩を借りてベンチに坐るとそのまましばらく動けなかったのだ。非難するつもりじゃないのだろうが「つまんない」と呟いたのが忍にひどく衝撃で、彼女にしてみればただ状況のつまらなさを指摘しただけなのかもしれないが、忍には自身のつまらなさを嘲られたも同じで、弱っていただけにそれは余計忍を苦しめ、忽ち声の奔流に呑まれてしまう。そのあとの記憶はもう完全に飛んでしまって何ひとつ覚えていない。
デートその三。自身の苦手な場所でいくら頑張ったところでダメだと分かり、そこなら不安に駆られることもないだろうとマンガ喫茶に落ち着く。興味深げに「あたしはじめて、こういうトコ」と棚を物色する山本可奈子にいくらか安堵して「北斗の拳」全巻を忍は読破したのだった。疲労し切ったしかし満足げな顔を上げると、険しい顔つきで頬杖をついている山本可奈子と視線がぶつかり、焦って視線を逸らすとそれを追うように覗き込んで「何で?」と不快げに首を傾げる。そのときは全然意味が分からなかったが三年殺しというようにあとから効いてきて、結局それが決定打になったのだった。