三連敗という惨憺たる結果に見事な負けっ振りなどと開き直ることもできず、自室に籠もって鬱々と幾日かが過ぎたようだった。とはいえ巧くいかないことは最初っから分かっていたし、シミュレーションにもそれは明らかだったはずだ。僅かでも期待した自分に言いようのない苛立ちと後悔と寂寞とを感じ、それらに交々忍は苛まれて元もと稀薄な自信を完全に喪失してしまうのだった。そのあとにまだ最後通告が控えていて、追い打ちを掛けるようにそれは忍を蹴転がして一方的に終止符を打つ。
本当にそれが別れる理由なのかも定かじゃないが「倉田くんのアレ、曲がってるでしょ、右のほうに、なんかそれがね、わたし真っ直ぐな人がいいなって」と何が可笑しいのかクスクス笑いながら山本可奈子は言う。心根が真っ直ぐというのなら分かるが、アレが真っ直ぐというのはどういうことなのか、忍には全然想像もつかない。とはいえいつ見られたのかが気になるところで、映画館でか、退屈で寝てしまったその隙に覗き見られてしまったのか、そんなことってあるだろうか。それともベンチで気を失っているときか、いや、それこそあり得そうにない。見られてしまったことにしかし変わりはなく、震えとともにほとんど恐怖といっていい感覚に忍は襲われ、茫然と立ち尽す。
もちろん異議申し立てなどできるはずもなく、況して「僕のどこが曲がってる、僕は真っ直ぐだ」とか言って膝までパンツを下ろしてその手に握らせて確認させるなど忍にはできないから項垂れているより他ないのだった。この場合それが尤も安易な逃げ道で、卑屈に相手の出方を待てば、何も反論しないのかと訝るような眼差しで山本可奈子は忍を見つめるが、くふっというような忍び笑いを洩らすと「そっかあ」とひとり納得したような不可解なことを言うのだった。それから失望したというような一瞥をくれて「じゃ、そういうことだから」と告げるとクルリと反転して行ってしまう。その翌日から戒厳令が敷かれて登校できなくなったのだった。端っから忘れられた存在だから誰もそれに気づくことはなかった。
再度読み返しながらどこに事実があったのか自身分からなくなっているのに忍は気づくが、むしろそれを攪乱するためにこそこれは書かれたのだと改めて認識する。その目論見はそれなりに達成されているがまだまだ詰めが甘く、もっともっと改変しなければと忍は思う。
いったい忍とは誰なのか? 本当に存在しているのだろうか、とそう忍は自問してみる。誰かの捏造と声に指摘されことがひどく堪え、ずっと引っ掛かっていたのだ。ここでもう一度確認する必要があるのではないかと忍は思い、知っていることを列記していく。
倉田忍。一九七九年六月十五日生まれ。二〇歳。B型。身長、一七八センチ。体重、五十六キロ。視力、右、1.2、左、0.9。趣味、読書(時代小説、司馬遼太郎よりは池波正太郎を好む)。特技、早歩き。性格、窮めて内向的で妄想癖あり。学力、中の下。友人、なし。尊敬する人、姉。好きな飲み物、ファンタグレープもしくはハト麦茶。将来の目標、スナフキンもしくは破裏拳ポリマー。拾ったお金の最高額、五千円(もちろん届けていない)。学歴、高校中退。犯罪歴、万引き多数(総て強いられたもの)。
列記してはみたもののどこか信憑できないと忍は思う。膨大なファイルがその傍証といえるが、それとて誰か別人の手になるものといえなくもないではないか。確たる証拠などどこにもないのだから総てはフィクションということを前提とする他ない。あるいは自身を抹消すること。総てを消し去ったその向こうに見出すものがあるとすれば、それこそあるべき自身の姿なのだと忍は思う。その不可能を可能にする方法として採用されたのが、釘づけされた文字を書き換えることだった。忍が誰かの捏造だというのならいっそ忍自身でそれを捏造してしまえばいいと思いつき、そんなことが可能だろうかと試しに書き換えてみたらこれが案外好評で、以後その線で攻めることになったのだった。総ての声を釘づけ、さらにそれを書き換えるという二重の作業になるからかなり面倒だが、殺らなければこっちが殺られるのだ。
問うことは罪だ。答えを求めることより以上に傲慢なことはないと思う。
答えを求めないただの饒舌はだからずっと罪が軽い。沈黙よりはそのような饒舌をこそ護身として身につけるべきではと忍は思わないでもないが、そう巧いこといくわけがない。実際それは叶わなかった。声を殺すよりだからないということを改めて認識することになり、自身への問いも以後タブーになる。
殺意に満ちた声の反乱するなかで美佳の声のみそれがなく、真面に会話の可能なのはだから美佳ただひとりだ。いや、会話などなくても何ら不都合を生じず、むしろ会話のほうが夾雑物になるのは美佳だけなのだ。それを知った。逃げ場はそこしかないし、それ以外は総て敵地と言っていい。自身の領域といえるものはどこにも存在しない。自身のうちにさえそれはなく、美佳との合一が、ただそれだけが忍を忍たらしめている。
山本可奈子とは私の別名ではないかとふと美佳は思う。話にリアリティーがなさすぎて脚色しているのが丸分かりなのだ。そういうと忍は怒るかもしれないが、高校生の素朴な恋愛妄想の類いを出ていないそれはフィクションというにはあまりに稚拙な内容だ。抑も『タイタニック』を観にいったのは山本可奈子とではなく私とで、嫌がる忍を無理に連れだしたのは美佳に他ならない。ピッタリ美佳に寄り添って不安げに忍はその手を握り締めて離さず、その忍の不安の根源が分からないから伝染したようにいくらか美佳も不安になり、その手もひどく汗ばんでいて、映画を観るだけなのにと苦笑したのを覚えている。
五週目だか六週目で観客は疎らだったが、開かれた扉の前に忍は立ち尽して中に入ろうとしないから「指定席がいい?」と念のため訊くと、真っ直ぐ見つめ返して繋いだ手をさらにも強く握り締めたのだ。訊いてよかったと追加料金を払って指定席を取り、一旦席につくがパンフレットを買おうと再度立とうとすると、ひとり置き去りにするのかと今にも泣きそうな眼つきで忍は縋りついてきて、「すぐ戻るから」と言い含めても手を離さない。
指定席だから取られることもないと仕方なくまた連れだって席を立ち、パンフレットとファンタか何かの炭酸飲料を買って戻る。パンフレットを開き、ファンタ片手にそこに印刷された活字を飲むことで一旦忍は落ち着きを取り戻すが、上映がはじまって場内が暗くなるとまた落ち着きをなくし、視線はスクリーンに注がれていてもそれ以外の総ての感覚器官は周囲の闇に警戒している。その膝に手を置くとすぐに忍はその手をとって握り締め、次いで股の間に挟んで両の腿できつく締めつける。
その熱く火照った股の間に最後まで手を入れていたのは他ならぬ美佳なのだ。それが自分のではない名前によって全然別様に書き換えられているのだった。忍に寄り添い撓垂れ掛かる山本可奈子の姿が画面全体に映しだされたような気さえし、いもしない山本可奈子への怒りが不意に擡げて反射的にコマンドQを美佳は押していた。空虚なグレーのデスクトップ画面に山本可奈子の顔がまた映り込んでいるように錯覚し、そのままシステムも終了させてしまう。虚脱したような状態で美佳は夕食の仕度に掛かるが、昼に冷蔵庫に移しておいた豚挽肉はまだ解凍できていなかった。仕方なく電子レンジで解凍すると、塊が大きかったせいか端っこが白く煮えてしまう。
春巻とそれを勝手に思い決めていた。
何が食べたいとか絶対に訊かないのに、そのとき忍が食べたいと思うものを必ず美佳は用意しているのだった。単なる偶然と斥けながらも運命的なものを感じないではいられない。春巻を美佳は今作っている。少しでも早くつきたいと焦るが、焦れば焦るほど道を間違えるし、住宅街なのに車の往来が激しくなるのだった。狭い一方通行なのだが抜け道にでもなっているらしく、あとからあとから車が通る。その都度忍は路肩に退避してやり過ごすから一向前に進めず、いつもはもっと楽に進めるのに今日にかぎってなぜこうも横槍が入るのか。眼の前に開(はだか)る電柱を越すことができず、そこに踞ってもう三〇分近くなるだろうか。何かその進行を意図的に阻んでいるようにさえ思える。その間車の流れが全然途切れないのが不思議で、同じ車が二度も三度も通るような気もし、閉じ込められでもしたような錯覚に忍は捕われる。さっきまで巧いこと機能していた美佳のナビが途絶えてしまっているのにも気づき、この陥穽から抜けだせるか不安になってくる。
湿っぽい空気の肌に貼りつく感じが雨を予感させ、見上げると空は濁った灰色をしていた。全天を覆うように張り巡らされている電線に次いで意識が向けられ、それら電線には通話の声が無数に犇めいていると思うと卒倒しそうになる。それだけじゃない。ケータイの電波だって至るところを飛び交っているし、アイラーの防壁があるとはいえ間違って忍のところに届かないともかぎらない。この不利な状況から脱する術はほとんどないと忍は絶望的になり、縋りつくように電柱に身を寄せる。その忍の身振りを拒むように上のほうで電線が蠢き、蠕動(ぜんどう)するようなその蠢きに今にも声が洩れてくるような気がしてすぐ視線を下ろす。そのすぐ眼の前にヘビか何かのようにそれがブラリと垂れ下がってきて、切り口からドボドボ声が流れ落ちて道路一面に拡がっていく。魚が跳ねるみたいに路上を声が跳ね飛んで、忍のほうにもそれらはピチピチ跳ねながら迫ってくる。車がそれを踏みつけると柔らかいゼリー状のものが潰れるようにグチャと水っぽい音を立てて四散し、それが忍の足元にまで飛んできて血飛沫のように靴にへばりつく。
フライか何かを揚げる油の匂いがし、そのパチパチ爆ぜる音が聞こえるようにも思い、妙に空腹を刺戟されて美佳の待つ食卓を、香ばしく狐色に揚がった春巻を忍は幻視し、それへの欲望を拠りどころに電柱を支えにして立ち上がると、隙間もなく通過する車の一瞬の隙を突いて道路に踏みだし電柱の前に廻る。一足ごとに足裏に伝わる感触に鳥肌を立てながら、グチャと声を踏み潰して進む。