部屋に入るとそこに残る濃厚な匂いに不意を突かれて瞬間美佳は立ち竦む。まだいるような気がしたからで、肩に置かれた手の温(ぬく)みを孝裕のそれと知りつつ振り返ったそこにいるのは忍なのだった。無沙汰を咎めるような、それでいて来訪を歓んでもいるような二様の眼差しで忍は美佳を見つめている。それに答えようとしてか「ほらコレ」と運びだすべきものを孝裕にだか忍にだか示すと、呻くような声で「ああ」だか「うう」だかいう返事が返る。茫と立つ孝裕の後ろから「使ってもらえるのが何より」と分身のように父の顔が覗き、そう言いながら自身の書斎にでもするつもりなのだろうか、端的に嵩張る荷物を処分できることを喜んでいるらしい。物臭な父が率先して車に運ぶのを手伝っていることからみてもそれは明らかだ。機械に弱くほとんど興味も示さない孝裕ではなく美佳が使うことになるのは当然としても、プリンタからスキャナから大判のタブレットまで一式揃っていて、ノートパソコンとかそういうもっとコンパクトなものと予想していたらしく、非難するというよりは困惑したように「どこに置くの?」と孝裕の指摘するとおり自宅マンションに置く場所はなかった。
自分でもなぜこんな大仰なものをもらい受ける気になったのか分からない。データだけが目的ならバックアップのディスクがあるだろうからそれをもらうなり自らハードディスクからコピーするなりすればいいのだから。その手垢に塗れたキーボードが愛おしいとか、その右手に握られていたマウスが愛くるしいとか、そういうこととも違うような気がする。確かにキーボードに指の腹を宛うなりマウスを掌で覆うなりする行為それ自体に忍に直に触れているような錯覚を覚えることはあるし、それに浸らないでもないが、それが総てでは決してない。忍の残影というにそれはすぎず、フェティッシュとして刻印されたそれら淡い残影ではなく、忍そのものと言ってもいいほど濃厚な気配というのか、存在そのものというのか、そういうものとして感じたいというのがどこかあって、このハードを介してそれは為されるというか、これを介してしか為され得ないというような気がするのだった。
この中に、このハードディスクの中に忍がいる。本気でそう思っているわけではない。このシステム全体に触れることではじめて見えてくるというようなそれは漠としたイメージでしかないし、忍との再会と必ずしもそれがイコールで結ばれるとは思えないが、そう言い替えることはできるように思うのだ。かといって死者との再会というのでもなく、限りなく忍に近いものというか、その可能性との邂逅とでもいえばいいのだろうか。
後ろめたい思いを美佳は捻じ伏せて自らセッティングし、プリンタとスキャナとタブレットは後廻しにしてまず本体のみで起ち上げてみる。爽やかな起動音が鳴って緊張とともに待つ美佳のうちにそれは不協和的に響き、忍の部屋で見た忍の残像のようなものをふと美佳は思い出す。霊との認識は美佳にはなく、ただ像が見えたと理解している。何か自分に宛てたトラップめいた仕掛けなり何なりがあるかもと期待したのも、そのときの印象が強く残っていたからだ。それと同じものが一瞬画面に浮かんだようにも思って期待は高まる。それはしかし裏切られ、何ごともなく普通に起動する。色温度が五千Kくらいのかなり黄色味掛かった画面にくすんだ死の臭いをでも嗅ぐような気がし、そのような連想自体を美佳は嫌悪し斥ける。眼が馴れるまでしばらく掛かる。
どこに何が仕舞ってあるのか分からないからどこから手をつけたらいいのかも分からない。土屋プロデューサーに目隠しされて知らないところに連れてかれたような気分とでもいえばいいのか、自分の居場所がまるで掴めないのだった。テーマごとにとか、種類別にとか、そういった分類もあまり為されてはいないようなので、とりあえず端から順々に開いていく他ない。
それでもそれを見つけたときには手元に置いていたマグカップを危うく倒しそうになったほど昂奮してしまい、すぐ後ろで寝転がって「踊るさんま御殿」を見ていた孝裕に「ほえ?」と訝られて焦るが、お代わり入れようかとその手にしたマグカップを強引に奪い取って一時避難する。余ほど動揺していたのだろう、うっかり豆の量を間違えて「薄っ」とさらにも訝られ、意味のない笑みを返して胡麻化しながらテレビに視線を戻すまで待つ。笑い声とSEに釣られて孝裕が視線を戻しても、そのまま見入ってこっちを忘れるまでさらに待ち、完全にこっちを意識しなくなってからゆっくりと美佳は画面に向き直る。
名称未設定のフォルダの続くなか不意にそれは現れたのだが、そのフォルダにつけられた〈声溜め093〉との名称にまず面喰らって美佳の手にしたマウスの動きは止まってしまう。そう名づけるからには人には見せられない汚物めいた何か臭いものが収められているに違いなく、仮にそうではないとしても隠そうとの意図の明らかな身振りにそのフォルダを開くことを美佳はためらう。忍にとってそれは逆に見てくれとの身振りかもしれないとも思え、何かを望めば望むほどそれを内に隠す傾向にあったのを知悉しているだけに尚更そう思え、いや、そうなのだそうに違いないと美佳は信じ、強烈な異臭を放つかもしれないそのフォルダをためらいながらもダブルクリックする。
画面左上に小さく開かれたウインドウにはリスト表示されたファイルがいくつか並んでいるが、その数は多くはない。ウインドウを広げて確認したところ〈001〉〈002〉と付されているテキストファイルは全部で十四あるが、途中〈008〉と〈011〉と〈014〉から〈017〉が抜けていて最後が〈020〉。上から下までゆっくりと矢印を這わせていくが番号だけでは選びようがなく、ここでもまた端から見ていくよりなかった。
先頭のファイルにそっとマウスを導いていき、〈001〉のうえに矢印が重なってマウスを握る右手人差し指に美佳は力を込める。不意に画面が翳って背後に人が立っているのに気づき、振り返るとズルズル音立ててコーヒーを啜る孝裕が画面を覗き込んでいるようないないような、ちょうど照明で逆光になっているのとマグカップで顔の下半分が隠れているのとでよく分からない。忍とのことは知るはずもないが何か感づいたのだろうかと美佳は訝る。こうもあからさまな行動に出たらいくら孝裕が鈍いといっても気づかないはずはないかと危惧しもする。その表情を読みとろうと体の位置をズラしながら眼を眇めて「え、何?」と訊けば、その意図を察してか視線を逸らし、一言「先風呂入る」と呟いて部屋を出ていく。その後ろ姿を視界から消えるまで見送り、戻る気配のないことを美佳は確かめると点けっ放しのテレビを消して再度モニタに向かう。改めて先頭のファイルに美佳は矢印を重ね、ダブルクリックする。
最初に開いたファイルには以下の文章が打たれていて、ほとんどメモのような短いものだが、何か忍の声を聞いたように嬉しく、いや、実際美佳の耳には忍の声が聞えていた。その悲痛な叫びのような呻きのような呟きのような咳き込んだような透明な声を美佳は聞いた。ドットで表示された無個性のフォントなのにも拘らず、引き攣れ掠れた走り書きのような印象を美佳は懐き、忍本人に面したような感覚にさえ陥り、そのように感覚してしまう自身を訝りながら幾度も美佳はテキストを読み返してそこに響く忍の声を直に聞く。
敵の声ばかりが飛び交っている。自身の声はそれに掻き消されてどこにも届かない。
いや、届かなくてもいい、むしろそのほうが好都合なくらいで、下手に届いたりするから困るのだ。というより自身の声は常に誤って届けられてしまうために決まって齟齬を来たすのだとそう忍は思い、避けられぬアクシデントにその都度脅かされてきたこの十数年を振り返る。抑も自分に声などあったのかと疑いたくなるほど忍は声を発しない。唖というのではないが他者の呼び掛けなり問いに対して適切に応じることは忍には窮めて困難なことだった。普通に答えればいいのだと美佳は言うかもしれない。その普通が忍にはできないらしいのだ。
端的にその裏にある意図を見抜いて答えればいいのだろうが、それには問いの言説同様に表層的言辞で被覆しなければならない。その問いの言説が二層のみと短絡できるならいい。忍の元に届く声はしかし重層的に折り重ねられているのが常で、例えば「おはよう」ひとつ取ってみてもその僅かに撥ねた寝癖はオレへの攻撃意図の表明かとか、お前の息の根を止めるこれは楔だ食らえとか、この右の目糞はいざというときの非常食なのだよとか、昨日の雨で毒が廻ったほらこの指先から少し洩れているとか、今日の指令は痴漢電車濡れたセーラー服だとか、万引き三千円以上が本日のノルマですとか、あらゆる意味の込められた「おはよう」なのだ。つまりある問いに対する答えは無限に見出すことができ、その無限にある答えをたったひとつの答えで代理表象させるなどということはだから到底不可能で、その総てに瞬時に応えることは忍にはどうしてもできず、自身の無能さに苛立ちながら黙す他ないのだった。
それをやってのける超人的な判断力を忍は持ち合わせていない。忍にだけそれが欠落しているのだった。いや、そうではなくて誰もが持ち合わせているのだから常人的な能力にすぎず、それさえ真面に備わっていないということなのだ。
そのせいだろうと短絡することはできないかもしれないが、中学に通っていた三年間ほとんど常に標的にされていた。キモくてキショくてウザいというのが忍の知り得た理由らしい理由だが、なぜキモくてなぜキショくてなぜウザいのかその明確な根拠は遂に明かされることはなく、回避する手立てもだから見出せず、降り掛かる声に耐える日々を過ごしたのだった。不可解な謎として今もそれは奥のほうで燻っているらしく、時どき耳にまで届くことがある。声に紛れこんでいるのだ。油断はだからできず、常に戦闘態勢を維持していないとすぐやられてしまう。イジメそれ自体はしかしそれほど苦でもなかったのだ。実際的にもさして陰湿なものじゃなかったのらしく、それが暗い影を落としていることは事実としても、不登校にはならなかったし引き籠もるということもなかった。それは美佳も把握している。
小説/literary fictions