Effluents from Tomokata=H

戻る  

01  02  03  04  05  06 

07  08  09  10  11  12 


05

急に友人が増えてあちこちから誘いが掛かるようになり、そのこと自体は充実した日々を過ごしたといえるが、たまに美佳ひとりだったりすると「あれ、忍くんは?」と最初に必ず訊かれるし「え、あとから来るんでしょ? 来ないの? ね、来ないの?」と確実に来ないことが分かるとテンション下がって盛り上がらないのだった。何度か呼びに帰されもしたし、予定を変更してみんなでうち家に寄ったりもした。忍目当てに家に来る子もいたくらいだから、というよりほとんどそれと言ってよく、家には誰かしら来ていて、それを母は疎ましく思っていたらしく、何度か衝突したりもした。高校卒業とともに家を出たのもそのためだろう。

忍を囲う集いの際にファンクラブの会員から「弟だからって美佳のもんじゃないんだからねっ」と言われて美佳は「そうだけど」と濁すが、内心その指摘にヒヤリとしたことは確かで、チヤホヤされる弟を自慢に思う反面、忍は私の弟だと嫉妬していたのもだから事実だろう。それまで掛かっていた禁忌の箍をそれが破ったというのが最も分かりやすい説明だろうが、確かなことは美佳にも分からない。気づいたときにはすでに一線を越えていて、もう確とは見定められないほどその境界は遙か後方に位置していたように思う。境界なり一線なりは事後的に見出されるものなのらしく、しかもぼんやりとしか見えないから事前に回避するなどということはできないのだ。

ディフェンスさえ万全ならどうにかなるはずとずっと思っていた。

美佳からのメールに、美佳からしか来ないメールに救われたように閉鎖的な思考を忍は断ち切ると、パソコンをシステムダウンさせる。開いているアプリケーションを順次終了させて本体の電源が切れたのちモニタ等周辺機器の電源が切れ、光が画面中央に収束するとパチパチと静電気の弾けるような音がし、そこに一瞬何かが見えた。人の顔のようだが自身の顔の反射じゃないことは立ち位置から考えても明らかで、中腰になった忍の首から下の反転したTシャツの文字しかそこには映っていない。画面の中に残像のようにあるのか、画面の手前に薄いフィルムのように拡がっているのかは分からないが、見も知らぬ誰かの顔がそこにあったのは確かだった。もう何秒か遅かったら危なかったと安堵したように忍は胸に手を当て、ゆっくりと大きく息を吸い、吐く。

いくらか落ち着きを取り戻すと部屋が暗いのに気づき、明かりを点けようと手探りで忍は電灯の紐を探す。幾度か空振りして甲に触ったそれを掴んで引くと、総てがクッキリした輪郭を伴って浮かびあがり、曖昧さは消え失せる。念のためとモニタを振り返り見るがもう何も映らない。美佳のメールが確かに自分を救ったのだと忍は思い、素朴に愛とそれを信じることはできないが、分かちがたい緊密な繋がりを意識せずにはいられない。

快楽への期待も徐々にせり上がってきていくらか外出する意欲を得て、よれたTシャツの上に濃紺のワークシャツを忍は羽織ると、合鍵をジーンズの前ポケットに突っ込んで自室のドアをそっと開けて様子を窺う。妙に静かだと思ったら母は夕飯の買い物に出掛けたらしい。不用意に声掛けて不安にさせることを怖れてだろう、余っぽどのことじゃないかぎり黙って出掛けることが多い。大抵はしかし部屋の前を通るスリッパの音で気づくし、向こうも合図するように態(わざ)とパッタンパッタン音を立てていくのだが、このときは画面のほうに入り込んでいて全然意識に上らなかった。こんなことはしかし忍にかつてなく、どうそれを解するかで以後の行動にも響いてくると慎重になる。このまま出掛けたものかどうか一頻り忍は考える。

忍の他誰もいない自宅マンションの一室は忍にとって唯一寛げる空間として貴重だった。リヴィングのソファに腰掛けてひとり静かに鬼平が読めるし、気兼ねなく自由に移動できるし、テレビを観て大声で笑うこともできる。その視野のうちに誰もいないということが何より嬉しく、誰にも何も話し掛けられないということが何より嬉しい。美佳との時間はしかしそれより以上に充実を齎してくれるから、こんなところでひとり寛いでなどいられないと、そう忍は結論して再度仕度に取り掛かる。

まずMDを忍は用意する。この世界に蔓延するいやらしい声を遮断するためのそれは必須アイテムで、それなしに外出はできない。掛けるディスクはほぼ決まっていて、セシル・テイラーの『ユニット・ストラクチャー』か、アルバート・アイラーの『スピリチュアル・ユニティー』か、コルトレーンの『メディテーションズ』で、この三枚だけが強力な防壁を展開でき、それ以外では巧いこと防壁にならないのだった。美佳からのメールに昂揚した今の気分からするとアイラーの咆哮が最適と『スピリチュアル・ユニティー』をセットする。とはいえ完璧に遮断できるわけじゃないから結局は意識レベルで篩に掛けるより他なく、その補助的な装置としてMDはあるにすぎない。完全なろう聾(ろう)になればいやらしい声からも解放されるだろうかと問うてもみるが、声のみではなく音全般を喪失することになるからそれでは代償として大きすぎるし、総てがクリアになるとの保証もない。音の総てを失って声だけがあとに残るという最悪の事態になったら防衛手段もなくなるから、聴覚は温存しておいたほうがいいと忍は思う。難聴になるのをだから忍は怖れていて、極力音量は控えめにしているが、雑踏の中ではそうもいかない。いろんな声が無作為に飛び交っているから余っぽど注意しないと不用意に拾ってしまう危険がある。

財布とともにMD本体をトートバッグに収めるとまず深呼吸して落ち着かせ、さらに美佳のメールの文面を思い出すことで気持ちを高める。声ではなく文字として脳裡に描出するが、その文面は〈晩ごはん一緒に食べよう〉というそれだけだった。総じて美佳のメールは短く、〈逢いたい〉とか〈来て〉とか〈待ってる〉とか余計な情報が一切省かれている。自分を気遣ってのことなのは分かるが、その短さ素っ気なさに忍は妙に切迫を感じるのだった。今すぐ駆けつけないとえらいことになってしまうような気がするのだった。それくらいの切迫感がないと忍を外出させることが困難なのを美佳は知っていて、意識して扇情的な言葉を使うよう心掛けているが、あんまり露骨な表現は美佳の美意識を損ねるからその選択は意外に難しい。その欲望を刺戟しつつ節度を弁えること。簡潔だがリアルさを失わないこと。それが成功しているかどうか美佳には分からないが、明らかな失敗例もないからそれなり巧くは行っているのだろう。

総てを装着して完全装備で忍は玄関に立つ。完全装備とはいっても向こうが本気で仕掛けてくれば太刀打ちなどできないから気休めにしかすぎない。いつかやられるだろうとは思っているが、今日じゃないはずと思うことにしている。そうでも思わないととても外に出ることはできないのだ。框に腰を下ろして恐る恐る靴に足を嵌め込み紐で固定し、静かに立ちあがって二歩前に出ると、キュキュッとコルクが軋むみたいな音が足元でして焦る。警告めいたその音に一瞬忍は中止を考えるが美佳への欲望は止みがたく、ドアにへばりついて覗き穴から外の気配を窺う。監視の眼はどこにもないようだ。

出入りの瞬間が最も緊張する。そこを目撃されたらお終いで、その日はもう外出できないからだ。一〇分くらい様子を見てから忍は静かに玄関扉を細目に開けるが、メリメリと何かが剥がれるような音がして思ったよりそれが響いたから一旦閉める。警告なのか妨害なのか判断に迷うところだが、呼吸を整えながらさらに五分ほど待って再度慎重に扉を開き、擦り抜けるように外に出ると素早く閉めて施錠する。前後左右に絶えず視線を走らせながら通路を突っ切り、エレベーターは不意打ちを食らうから階段を降りる。とはいえ階段も決して油断はできず、率はずっと少ないが不意打ちはあるし、稀なだけにその衝撃はより忍に負担を強いる。腋に汗が滲んで気持ち悪く、手の甲を腋に挟んで汗をTシャツに吸着させる。

「敵」はなかなか忍を外出させてはくれないらしく、その攻略に苦労したあとがいくつかテキストにも散見される。美佳との約束をすっぽかしたことはしかし一度もないから、その困難を思うと迎えにくらい行ってあげればよかったといくらか美佳は後悔する。一瞬だが忍の顔が画面を遮るようにチラつき、怯えながらも前に進むことだけを考える忍のそれは悲愴な顔だと美佳は思う。頑張れと無意識に応援している美佳のその声が確かに聞こえたように忍は思い、裏のないその声に勇気づけられる。

敵の攻撃というのか妨害というのか、何らかそこには規則性があるはずで、それさえ解明してしまえば外出はずっと楽になるはずと忍は思い、あれこれ画策もしてみるがそれらは悉く失敗に終わった。原理的に不可能のような気もするが、それを認めてしまったら負けだと辛うじて踏みとどまっている。美佳がその防壁になっていて、美佳への欲望が忍を前へと進ませる。

01  02  03  04  05  06 

07  08  09  10  11  12 

戻る  


トップ | インフォ | プロフィール | 小説 | イラスト | レシピ | 雑記 | 掲示板 | 送信 | 履歴

コピーライト