友方=Hの垂れ流し ホーム

目次 12へ 13 穴の奥のほう 14へ

戻る  

01 02 03 04 05 06 07

05

紀子の実際的に怖れているのはしかし沖ではなくて暗い穴につき物のクモやらムカデやらゲジゲジやらの節足動物で、沖への怖れが全然ないというのではないがそれら節足動物の害に較べるとなきに等しく、それを見兼ねてか知らぬが「オレが先行く」と軽い身熟しでスルスルと梯子を下りていく由雄をだから紀子は制し兼ね、あとに続いて一段一段ゆっくり下りて底に立つが真っ暗で何も見えず、見えねば何もできぬと已むなく懐中電灯を点け、怖れていた虫の大群に出食わすことにはしかしならなかったからとりあえず紀子は安堵し、ふたりのあとからゆっくりと降下して横に並び立った半透明の恵美の霊に「虫とかいた?」と怖ごわ訊くが「さあ気がつかなかった、よく見えなかったし」と全然当てにならず、何見てたのかと一瞬紀子は腹を立てるがそれを責めても仕方がないので自分の眼で確かめるより他ないとまず照らした足元を見ればセメントか何かで固められているようで、素人の仕事だからかかなりデコボコしていて冷たくこそばゆいが砂やら土やら泥に較べればずっとマシで、次いで壁から天井へと順に照らしていくと全面セメントで固められていてどこかワイン倉のような気がしないでもなく、そう思うといくらか恐怖が薄れるのを紀子は感じ、そのようにして暗い穴蔵の中を隈なく懐中電灯で照らして虫の一匹も発見せずに済んだから何とかその方面の恐怖は拭うことができ、本来の捜査の線に向き直ると壁の一面のちょうど梯子の真向いにそれひとつきりある横穴に意識を向け、すでにその横穴に入り込んでいる由雄に遅れまいと紀子はポリ袋から靴を出そうとするが焦りから結び目が解けず、無理に引っ張ると却って固く締めつけてしまってどうにもならず、半透明の恵美の霊に促されて穴を覗くと由雄の懐中電灯の光はもうかなり遠くにあり、大声出して呼ぶわけにもいかぬから已むなく裸足で突入するがセメントのデコボコでストッキングはすぐ伝線するしそのデコボコが足裏に妙な具合に当たるのが不快だし、靴なしではやはり無理と懐中電灯を小脇に抱えてポリ袋を歯で食い千切ってどうにか靴を出すと急いで足に嵌め、丸めたポリ袋を前ポケット右に突っ込みながら小走りに追い掛けるが走るとセメントのデコボコがチリチリと痛いし妙に恐怖は増すし追われているような錯覚まで生じてくるから徐々にスピードも増していき、中腰にならないとしかし行けぬほどの狭さなので幾度か紀子は天井に頭をぶつけるがちょっと擦ったくらいにしか感じなかったから構わず走り続け、由雄まで追いつくと気息を整えるようとするが荒い息遣いはなかなか治まらず、その息の荒さに由雄はまるで気づく様子もなく「どこまで続いてんのかな? この穴」と言い、それにしてもこの狭さは「オレにゃこたえる」と頻りに腰の痛みを訴えるのを聞いてその声にか話柄にか分からぬが紀子は妙な安堵を覚える。僅かに広い空間に出てようやく息がつけると腰に手を当て「くうっく」と呻きを洩らしながら伸びをする由雄の持つ懐中電灯の光に自身持つ懐中電灯の光を紀子は重ね、それからデコボコの暗い穴蔵のほうにゆっくりと光を振り向けていき、彼方の梯子に当てて距離を目算すればざっと五〜六〇メートルはあるかと思え、穴の狭さがその距離を異様に長く錯覚させるようでもあり、実際にはだから三〜四〇メートルくらいなのかもしれず、息苦しいのも酸素不足というよりは閉塞した空間の圧迫によるものらしく、実際空気それ自体は冷たく適度に湿気を含んでいるし埃っぽくも全然ないため肺に心地好く、その暗さと狭さとが齎す不快さえなければ避暑にはもってこいの快適な空間なのにと紀子は思い、いずれにしても目的の不明確なこの穴のその不明確さが薄気味の悪さを醸していて、そうとすればそれさえ見極められれば総ては晴れると短絡した紀子は改めてこの小室に光を当てると二畳かそれよりいくらか狭い一・七〜八畳くらいの矩形の空間で、真っ直ぐに立った紀子の頭頂から拳ひとつほどの空隙があることから天井までの高さは一七〇センチくらいの勘定で、明かりも何もないが小さな木机一脚と三脚の背凭れのない円椅子が隅に置かれていることから判断してここが「奴らの地下秘密基地ってわけか」と隈なく照らして感心したように由雄は眺め入る。計画の立案共議から爆弾の製作等その総てはここで為されたに違いなく、着実にメシア=天皇に接近しているしその物的証拠も直挙がるとひとり昂奮して徐々に声が高くなるのを穴蔵に反響すると注意すれば大仰に口を押さえて詫び、詫びながらしかし不意に顔近づけてくるから「何です?」と訝しげに訊けば次いで顔面に光を当てて「どしたのソレ紀子ちゃん?」と由雄は指差し、眩しさに顔背けながらも指示された額に手を当て見るとさっき擦ったところから出血しているらしく「ちょっとぶつけただけで」大したことないと答えるもののちょっとぶつけた程度のそれは出血じゃなく、襲われたのかと逸る由雄に「違います違います」と否定すればしかし余計そうと思いなしてか気負い立ち、穴に下りるとき工具箱から無造作に鷲掴んで尻ポケットに差し込んでいた金属棒を逆手に握り締めて「ひでえことしゃあがる」と通路に出ていこうとするのを紀子は腕を掴んで引き止めながら「天井低いから」走っててぶつけたのだと必死に説いて納得させ、それにしても「ここじゃ手当てもできねえ」から一先ず引き上げるかと訊かれてここまできて帰ることはできぬと続行を指示すれば「だいじょぶか?」と気遣いながらも同意の旨由雄は頷き示し、せめて上に連絡だけでもと自身の携帯を探るのを「余計な心配掛けてもアレだから」とそれをも紀子は拒否して捜索の続行を主張し、直向きというよりは頑ななその姿勢に由雄は感心したのか呆れたのか再度強く頷き返す

そこが基地というよりはただの通路脇の開けた空間としか紀子に思えないのは穴がそこで終わりではなくさらにも奥へと続いているからで、単線軌道の列車が擦れ違うようにしてこの小室で擦れ違う人物を紀子はふと想像してこんなときにと思いつつ妙にそれが笑いを誘い、声にこそ出さぬがいくらか口元が弛むのを訝しげに由雄は見つめ、それに気づいて顔を隠すように穴に向き直ると懐中電灯でまず足元を照らしだしてそれから奥のほうへと少しずつ光を当てていくが、そこから先はセメントで固められてもいない剥きだしの地層で、染み出す水が天井から垂れていて今にも崩れ落ちてきそうで「こらちっとヤバそだね」と怯む由雄に同意して危ないからもう止そうと引き返すことを勧める半透明の恵美の霊に先がある限り戻るわけにもいかないし「この先に知恵美がいるかもしれないじゃん」とその可能性の否定できぬことを理由に紀子が前進を主張すれば、穴の状態を訝りつつも紀子に判断を任せるというかに頷く由雄に「行きましょう」と紀子は答えて半透明の恵美の霊に頷き掛けると穴の前に立ち、その奥を懐中電灯で照らして壁面の状態なり地面のぬかるみ具合なりを入念に紀子がチェックしていると「危ないからオレが先行く」と紀子を押し退けて穴の前に由雄は出ると「マリア様守ってね」と軽く拝み、紀子の背後から「気をつけて」と心配げに言う半透明の恵美の霊の言葉を「初めて聞こえた、ありがてえ」と嬉しげに叫び、自身の声の反響に驚きながらも気負い込んで穴に入っていくそのあとに紀子も続き、いくらかぬかるんでいる暗く狭い穴を直進んですぐその先の明るいリヴィングに至ると「いつまで経っても帰ってこないから捕まったんじゃないかって」ひどく心配したと鼻声で言う延子に「何沖の一人や二人に捕まるオレじゃねえさ」と嘯く由雄が紀子には妙に可笑しく、怺えきれずに忍び笑うその額に巨大な絆創膏の貼られているのに延子は気づくと何か奴偉いことにでも出食わしたのかとうろたえ、怪我を負わせたその責めはひとり由雄の不備と夫を詰るのを自分でしたことだから由雄に責任はないと紀子が説明し、それでも「この人が言い出したこと」だから何にせよこの人が悪いと延子は夫の肩をパシパシ叩きながら紀子に詫びる。痕に残るほどの傷じゃないと思うし「全然気にしてないですからそんなに」叩かなくてもと紀子が庇うと「そうだよ大したことねえって」と由雄は言い、その一言がさらにも延子を激昂させてそれは「あなたが言うことじゃないでしょ」人に怪我させといてなぜそう偉そうに言えるのかと一段と強くその肩を連打するから「痛えよ、痛えって」と由雄はその手を振り払い、いくらか投げやりに「分かったって、オレが全部悪りんだ」と答えると「そうやって適当に答えて」それで済むと思っているその考えが気に入らぬと延子は徹底抗戦の構えで、それを察したのか「違うって、ホントにオレが」悪かったと思っているし反省もしていると由雄が言うとその真意が通じたのかその身振りに負けたのか「ご免なさいねホントに」を潮に延子は茶を入れに立ち、甘いヴァニラの香り立つサブレとともに戻るとそれが緊張の残滓を一掃するのか隠れていた疲労が一挙に噴出するかに皆脱力し、そのあまりの急変に「どうしたの急に?」死にそうな顔になってと延子は訝るが答えるのも億劫というかに皆押し黙っていて、紅茶を各人の前に配しながら不思議そうに見廻す延子に「なんか急に疲れちゃって」と一言友梨が洩らすと皆同意を示すかに頷き、それきりまた沈黙してしまうが皆一様に疲労しきっているのが分かるだけにこっちから催促するのがためらわれ、しばらく延子は待つことにする。その弛緩ぶりからして仕事がハードだったらしいことは窺えるがそれなりに成果はあったのかどことなく満足げな面持ちに見えなくもなく、それがどうにも気になるし自分ひとり疎外されたようにも感じたからやはり訊かずにはいられぬと端的にその首尾を問う延子に「どうもこうもねえ」とようやく口を開いた由雄が言うにはどこか下水道らしいところに出たのはいいが、マンホールは下からでは到底開けることはできないから地上に出られぬのでは来た道を逆戻るしかなかったとのことで、それでも別の秘密基地があるかもしれぬと思えばこのまま帰るわけにもいかないとしばらくその下水道を歩いていたが、臭くて敵わなかったからその臭さに後退を余儀なくされたに等しいと由雄は顔を蹙めて「だってお前、足元汚物が流れてんだぜ」と問いに対する直接のそれは答えじゃないからもひとつ分からぬというように首傾げつつ「あなたに訊くと逸れるばっかりだから」と制して紀子に向かい、沖宅での捜索の結果を訊きたいと「でメシア=天皇は?」と直截に問う延子に「何も」とその消息もその手掛かりさえも何ひとつ掴むことができなかったと恐縮したように紀子は答え、そのどことなく満足げな面持ちに期待していたこともあって「そうですか」とひどく延子は落胆する。

01 02 03 04 05 06 07

戻る 上へ  

目次 12へ 13 穴の奥のほう 14へ


コピーライト