友方=Hの垂れ流し ホーム

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その憂いに沈んだような一点凝視が妙に魅力的で抱き締めたくなるのを怺えて向かいの席に腰掛けると「どうした? 元気ないね」と聞き慣れた声がするので見上げれば徳雄先生で、まるで気がつかなかったことに紀子は驚いて即座に応じられずまごついてしまうがタイミングよく注文を取りに来たウェイトレスに救われ、徳雄先生の視線が逸れている隙に三回深呼吸して再度向き合ったときにはさっきの憂い顔は影を潜めて快活というのではないが笑みさえ浮かべていて、恵美の不可解な死が齎した空虚をしかしハッキリとそこに認め、さらには自身の似姿をも認めて紀子との関係が不倫以前の不純な関係のように思え、不倫にではなくその不純な結びつきに徳雄先生は罪悪を感じ、その空虚を埋め戻そうと傷を嘗め合うような関係を排して真っ当な不倫関係になるにはお互い恵美の死を乗り越えねばならないが、それが容易ではないことを徳雄先生も知悉しているだけに紀子が宗教に入れ込んでいることを懸念しつつも強くは否定できないのだった。とにかくここでは落ち着いて話もできないと徳雄先生は伝票を手前に引き寄せ掴みとり、視線をそこに落としながら「とりあえず飯でも食いながら」と促す徳雄先生のあとに従って『鉋屑』を出るとなかば路上に立ちはだかるようにして自慢の二・〇の視力で空車を探す徳雄先生の前を掠めるように車が通過していくのを見ていて紀子は気が気ではなく、「先生危ないよ」と注意しても「だいじょぶだいじょぶ」とさらにも身を乗りだしたためクラクションがけたたましく鳴らされ、次の瞬間弾かれたように後ろに倒れるのを撥ねられたと駆け寄ると「危ないとこだった」とはにかんだように笑ってゆっくりと徳雄先生は立ち上がり、ズボンの尻を軽くはたくと怯むことなくまた一歩一歩路上に踏み込んでいくのを死にたいのかと紀子は訝り、あるいはそうかもしれないと不可解極まる恵美の死が脳裡を掠めるのを無理に払い除けてやっと見つけた空車に紀子を先に乗せてから乗り込んだ徳雄先生は、行き先を告げると急に疲れたように背凭れに深く身を沈める。そのまま座席に埋もれてしまいそうな徳雄先生は行き過ぎた行為を反省しているようにも思えるが言うだけは言わないとこっちも治まらないと「危ないじゃないですか」と死にたいんですかという言葉を呑み込んで言い、そう紀子に叱責されて最前の行動を振り返ればあまりに子供染みていたと笑う他ないが、口から漏れるのはしかし笑いではなく虚ろに響いて車内の空気を澱ませるコーヒー臭い吐息ばかりで、乗り物の揺れが嘔気を誘うように車内に沈黙が拡がると不可解極まる恵美の死がまた誘いだされて最前の子供染みたカラ元気も今や完全に封殺され、紀子の最後に発した「子供みたい」がそのコーヒー臭い吐息を覆い尽し駆逐してくれることを僅かに期待するが渾然とそれは溶け合って尚一層質悪く漂い、タクシーを降りても纏わりついて離れないその澱みをズルズルと引き摺りながら徳雄先生は紀子と並んで歩く。その腕に紀子がしがみつくように腕を絡めて離さないのは車道側を歩く徳雄先生がまた飛びだすのを怖れたからで、車のほとんど入ってこない脇道に折れてようやく紀子は腕の力を緩めるが、セックスを前にした昂奮とも違うその妙に落ち着かなげな挙動に紀子が不安を感じていることを察してはいるし抑止せんとも思うのだが、どこか自分の与り知らぬところから動力は供給され続けているらしくどうにも抑止し得ず、知恵美を真っ直ぐ受けとめられずに拒絶してしまったことがその死を齎したのではといういくら沈めても浮上してくる想念に再度捉えられた徳雄先生は何を食べても味がせず、旨いのか不味いのかもだからまるで分からず、その麻痺した味覚を呼び覚ますため試みに嫌いな鰤のアラを食べてみるがやはり味はなく、そのゼラチン質の脂身を殊更頬張ってみても味蕾はいくらも刺戟されず、注文した料理の三分の一ほども食べられない。

息子の受験の済むまで凍結している離婚話がなぜか再沸騰しているという徳雄先生の告白めいた話など聞きたくはなかったが、浅からず自分もそれに関与しているし最前からの不審な振る舞いが何より気掛かりでもあって聞かぬわけにもいかず、聞いているうちしかしどうにも嫌になって酒で紛らわそうとピッチを速めるが半分はそれでも耳に残り、やはり聞かなければよかったと紀子は後悔し、ピッチを速めた割りには酔いも廻らないしベッドに沈み込んでもひどく醒めた状態で、無理にも鼓舞して奮い立てようとすればするほどペニスは恥ずかしげに縮こまり、しかしそのスッポリと手の中に納まる柔らかなペニスを紀子は可愛いと思い、その柔らかなペニス越しに覗ける徳雄先生の罰悪げな苦笑をさらにも可愛いと思い、陰嚢から肛門にまで至る紀子の懇切な愛撫で辛くも立ち上がり、失地回復を狙っていつもより以上に丹念に余すところなく徳雄先生は舌を這わせれば倍返しの要領で紀子は応じる。一仕事終えてからこの関係を継続するつもりだったのか終止符を打つつもりだったのか紀子は分からなくなり、場当たりの快楽主義の無節操の自分の貪欲に呆れながら快楽に浸りきって忘我の域というのではしかしなく、妻との関係が破綻していると聞かされたことの影響にそれは違いないが余韻にも浸れないうち急速に波が退いていくのを射精後態度の豹変する男とはこういうものかと漫然と意識しつつゆっくりと紀子は上体を起こし、足元に転がっている下着を足繰り寄せて裏返っているのを元に戻して身に着けるとその狭く窮屈な箱から解放してやりたいと知恵美を取りだし、変わらず淡い光を発する知恵美をなぜそうするのか分からないが徳雄先生の前に差し伸べ、差しだされた徳雄先生こそどうしていいか分からず訝しげに紀子を窺うと、認知せず逃げたその卑劣が何より恵美の死の原因だと譴責するようではしかしなく、「見て見て赤ちゃん可愛いでしょ」とでもいうような素振りに等しいのだが「どれどれうん可愛いね」とはしかし応じることはできず、さして眩しくもないのに淡く発光する知恵美から眼を背け掛けるが“眼を背けるな直視せよ”との指令がしかし脳裡を駆け、“引き受けよとにかく引き受けよ”との内なる声が脳内に響き渡るのだが体は指令に反してピクリとも動こうとはせず、その強張り膠着した表情に知恵美を乗せた手を紀子は膝元に置くと愛しげにその淡桃色の艶好く光る肌合いを眺め、尚膠着したままの徳雄先生を一方で視野に捉えつつ知恵美が目醒めるのを待ってでもいるようだった。慈愛溢れる淡い光の灼かな霊験の力を借りてか借りずにか紀子は一直線に徳雄先生に向き直り、向き直ったからには何か言うべき言葉があるらしいのだが思い当たる節はなく、「恵美怒るかな?」とつい口にして余計なことを言うと苦笑すれば釣られて徳雄先生も口元を緩めはするものの声はなく、鈍くさと紀子は衣服を掻き寄せるが身に着けるでもなく弄んでいるうちクシャクシャになり、「皺んなっちゃうよ」と横から奪い取って掌で押し伸ばして「ほれ」と差しだすのを紀子は受けとって羽織り、ゆっくりと着衣しつつ「なんか出汁に使ったみたいで」と囁くように言い、言ってから言い訳染みていると気づくが道化て胡麻化すこともできず、「なんか、よく分かんないや」と言えば「オレも」と徳雄先生は肯くがそれきり沈黙してしまったから妙に重苦しく、そのどうにも回収できぬ重苦しさが飛び火するのか最前まで昂奮を齎す装置として巧く機能していた薄暗い間接照明が一転不安を誘う装置へと転換してそこかしこに蔓延る薄闇に紀子は怯え、恵美の不在が必然齎す空虚への恐怖に近い不安を、眼前にある薄闇がまさにそれだというように訴え、次いで「なんで?」とその死の不可解を口にした途端止まらなくなって嘔吐するように吐きだしてしまうが寄りにも寄ってこんなときにと思いつつ総てを吐き尽すまで止まらず、未消化物を吐きだしたあとのような虚脱的な爽快さなどしかしまるでなく、吐いても吐いても汚穢の塊は紀子の中に居座り続け、これはだから自己の内に穿たれた穴=空虚で、そうとすれば埋めたり蓋したりはできるとしても穴それ自体を切り離すことなどできるはずもなく、つまり切り離し得ない自己の一部なのだとようやく観念すると全身脱力してしまい、重くて支え切れぬとぐにゃりと横倒しになった側頭はしかし巧い具合に徳雄先生の肩辺りに納まり、惰性でそのまま胸部から腹部へと滑り降りて脇腹の辺りで停止する。腿のつけ根部分に頬を当ててただ茫とする紀子の髪に手を触れた徳雄先生はその頭頂から後頭部に掛けて撫で下ろして幾度もそれを反復し、そのうち紀子は眠りへと落ち込みそうになるが、それとともに喪失していた時間感覚が不意に甦って「延長になっちゃう」と言うと「構わないよ」と徳雄先生は答え、そう言うわけにもと身仕度を整えようとする紀子の腕を掴んで引き寄せた徳雄先生はすでに延長に入っていることを告げて「そんな慌てなくても」と言うが、掴んだ腕をすり抜けるように立ち上がって「奥さん待ってるし」とスカートを身に着けるその恵美にも増して白い尻に向けて何事か徳雄先生は呟き、それより知恵美に話があるというように知恵美の前に座り込んで焚き火にでも当たるように両掌をその淡い光に翳し、その手の隙間から知恵美を差し覗けば華奢な四肢とは対照的に艶やかな淡桃色の肌が眩しく、薄暗い一室で一層それは際立ってその存在を誇示しているようで、あの内なる指令は内なるものではなくこの知恵美が発したのではと徳雄先生はふと思い、翳した掌がいくらか汗ばんでいるのも光熱ではなくて何らか気の発せられているからに違いないとその熱気に頬の火照りを感じつつ不安はしかし拭いきれず、つい勢い余って「恵美とのこと知ってた? 奥さん」と振り向きざま訊くと「多分」と紀子の不躾に嫌悪するでもなくはぐらかすでもなく平静に徳雄先生は答え、その死をまでしかし知っているかどうかは分からないと続け、視線はしかし知恵美を注視している徳雄先生に「私のことは?」と言い掛けるが声になる直前に呑み込んで「知恵美」と紀子が言えば「ああ、知恵美ね」と徳雄先生はくり返し、「知恵美」と呼び掛けるが寝ているのか返事はなく、辛うじて紀子の耳に届いた徳雄先生の「人なのか?」との呟きに「メシア様で天子様なの」と紀子は言って微かに口の端を引き上げると「メシア様で天子様ね」と徳雄先生が復唱し、「そうメシア様で天子様」とそれをまた紀子がくり返す。

性慾は充分に満たされたがセックスより以上の疲労を抱えて自宅マンションの五〇五号室に紀子は帰り着くと、まず何より先に知恵美を神棚に据え置いて知恵美にというよりは恵美への手向けの意味合いで仏壇代わりに拝み、それだけでしかし力尽きて着替えもせずに服のままベッドに倒れ込むとベッドと一体になったように筋肉は弛緩し、それでもいつもなら一〇分もすればムクリと起きあがって着替えはじめるのがいつまで経っても起きあがる気力すらなく、その無気力に呆れつつもそのまま寝込んでしまい、明ければ昨夜の出来事が総ては夢の中のことのように思え、虚ろな意識の中でのみそれは不確かだが醒めるに連れ現実へと固着して洗面に立つまでには昨夜の自分との連絡を紀子は完了している。でき得る限りの助力は惜しまないと確約してくれた徳雄先生の言う助力がどの程度のものかは分からないが、その言葉でここしばらく紀子の気鬱の主たる原因だった孤独感閉塞感がいくらか和らいだように感じたことは確かで、恵美と二人三脚でやったように徳雄先生とも二人三脚で連携できれば何とかやっていけそうだし危惧される知恵美派の実力行使にも何らか策を講じられるのではとの希望が持て、いや、それより何より知恵美=メシア=天皇に灼かな霊験があるというならまず真っ先に自分にその灼かな霊験を顕してくれてもよさそうなものではないかと知恵美のいる神棚を差し覗くと、その発する光によって内から淡く輝く神棚はどこか拵(こしら)え物めいて安っぽく、いや実際三九八の税込み四一七九円の安物なのだがそれを勘定に入れても尚安っぽく、その安っぽさに道化心が疼いて「私も欲しいな灼かな霊験、それも特別凄いヤツ、大家は親も同然なんだから」と思わず口にしたのだが、道化たにしては身勝手な言い草だと言ってから紀子は後悔し、神妙な口振りで「それもそうだね」と答える知恵美には思わず吹きだすものの本当にそうなればそれ以上に心強いものはなく、「信じていいの?」と訝りつつも訊くと「もちろん」と知恵美は甲高に答え、「期待しないで待ってる」と言えば「信用ないな」とぼやく知恵美に「信用してるよ陛下」と微笑み掛けると「怪しいな」と皮肉に知恵美は言ってカカと笑う。<

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