友方=Hの垂れ流し ホーム

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教団幹部らしからぬ八木の国産の軽自動車で紀子と知恵美は自宅マンションまで送られるが「うちは須(すべから)く庶民的でして」との八木の言葉はいくらか弁解めいて聞こえ、単に実入りが少ないだけなのかもしれないが、いや事実高額な布施は受けとらぬらしくその上限や納める回数も決められていて厳しく通達し且つ実践しているから生活にも事欠くくらいで、日下も八木もだから副業があるらしく「て言うかこっちのほうが副業みたいで」僅かなその資産もかなり食い潰していると自嘲的に笑うが、そのどこか余所事めいた笑いと日下譲りの小商人めいた身熟しは凡俗に塗れていない真っ当な宗教者のあるべき姿のように思えなくもなく、「好感持てますよ」と紀子が言うと「いやそう言ってもらえるとありがたい」と重たげにハンドルを切りながら微かに八木は笑みを洩らし、沈黙を怖れてか尚も無駄に喋り続ける八木に適当に相槌打ちながら自宅マンション前に至って「わざわざ済みませんありがとうございます」と紀子が降りるより早く八木は降り、その勤勉さの表れかピッタリと寄り添って離れず玄関前まで警護すると言う八木をそれまでの饒舌もあって幾分疎ましく思い、その過剰ともいえる警護を訝ると「とんでもない」と八木は驚きを露わにしてメシア=天皇としての知恵美は教団にとって最重要の存在で「人手があればもっと動員したいくらいなんですから」と紀子の認識の甘さを指摘し、その知恵美の重要性を自覚して目立つ行動は呉ぐれも慎んで欲しいと閉まり掛けたドアの隙間から言った八木の言葉の一語一語を紀子は反芻しながら一枚一枚服を脱ぎ、シャワーで汗を流して部屋着に着替えて卓上に置かれた桐箱の前に横坐ると蓋を取り、ミイラのように動かないものの尚発光は続けている知恵美をチラと眺めるがその得体の知れなさに前のように怖れ戦くことはなく、いくらか不快を伴わぬではないものの真面に直視できるようにはなり、もっと馴れ親しもうと知恵美にと用意したするめイカとビーフジャーキーを囓りつつ缶ビールを飲みつつ眺めやりつつ八木の言葉を弄びつつしていると一瞬意識が遠退き、脱力して卓に突っ伏すとその冷たい触感が頬に心地好く、金縛りになったようにしかし身動きひとつできなくなり、アルコール分解能が近頃急激に衰えだしたのを紀子が嘆いていると背後から何者か近づく気配がして耳近く衣擦れの音がし、次第に視野のうちに入ってくるその者を見定めんと紀子が重い瞼を見開くと緩慢な動作で紀子の右隣に腰掛けたのは八木で、どこまで警護するつもりかと非難を込めて睨めつける紀子を後目に八木は卓上に置かれた桐箱に顔を近づけ、一瞬不敵な笑みを浮かべるのを紀子は見たような気がしてまさか知恵美を奪う気かと勘繰るが眺めるだけで八木は手を出そうとはせず、何か昆虫標本をでも観察する少年のような眼差しで首を伸ばして桐箱を覗き込んでいた八木が不意にギロリと紀子のほうを一睨みして「自覚が足らんです」と言い、さらにも譴責する勢いで「こんなになるまで放っといて、責任取れるんですか?」と躙り寄ってくるのを「ほら出てくる」と紀子が指差すと「えっ」と知恵美に釘づけになり、ガーゼになかば埋もれた恰好で俯せ気味に横たわっている知恵美の背中に縦に一筋亀裂が入っているのを眼にして「ああ」と八木は嗚咽を洩らし、その裂け目から一条の眩い光が天井に向かって真っ直ぐに伸びるのを見てさらに「あああ」と感涙に噎ぶが、次の瞬間背中が真っ二つに割れると同時に部屋の中が光で覆われて光り輝く知恵美が、というより光そのものの知恵美が現れるのを目の当たりにした八木は涙を流してはいるが嗚咽は止んで放心したようになり、そのうち何やらわけの分からぬ文言を唱えだすのを紀子は見て見ぬ振りをし、その直視できぬほどの眩しさに紀子が眼を細めると「眩しい?」と知恵美は光を弱めてくれたのでようやくその輪郭が朧ながら視認でき、以前の知恵美としかしどこがどうという違いはなく、ただ溢れんばかりの光を発しているという以外差異は認められないが、その光量の差が何より決定的な差異で外貌の差異など何ら意味をなさないのだと紀子は感得し、「大したものね」と言うと「強がんなくてもいいのに」と知恵美は僅かに光を振るわせて言い、その後光とも光背ともいえる眩く神々しい慈愛の光そのものの知恵美はメシアとも天皇ともいえる超越的存在だと初めて紀子は思い、そのような知恵美=メシア=天皇を寄生虫と嘲った軽挙を恥じ入り赤面して真っ直ぐに紀子を捉えている知恵美から眩い光に直視できないとでもいうように視線を逸らすが、やり場のない視線をあちこち彷徨わせているその両の眼から涙が溢れだしたのは知恵美のその一言で紀子の中で何かが弾け飛んだからで、それが何かを特定する間もなく紀子に触発されたように八木もまた泣きだしたため意識が削がれ、競い合うように嗚咽する二人を知恵美の眩い光が温かく包み込み、そのまま泣き疲れて紀子は眠ってしまったのだが、眼が醒めるというより酷い頭痛に覚醒を余儀なくされて半身を起こすとさらにも頭に響き、心臓が脈搏つたびにこめかみが締め上げられて緊箍呪(きんこじゅ)を唱えられた孫行者みたいと悲痛に紀子は身悶えし、指一本動かすのにも慎重を期して不動の体制を整えると小康を取り戻すまでじっと身じろぎもせず座り込んでいた。その間に視線だけを動かして八木が部屋に上がり込んだ形跡があるかどうか確認するがそのような事実は認められず、夢の一部と諒解して安堵するが、では知恵美はと卓上の蓋を除けられた桐箱を窺うが紀子のいる位置からは中までは見えず、ほんの半身身を乗りだすことがしかしできないのがもどかしく、しばらく逡巡して知恵美の安否がやはり気になって思い切って身を乗りだすと中は空っぽで、いや空ではなく蝉の抜け殻のような浅黒い知恵美の抜け殻が転がっていて、ではあれは夢ではなかったのだ変態は無事遂げられたのだと嬉しくなるが知恵美の姿はなく、どこに行ったのかと見廻すが眼につくところに姿はなく、忽ち不安が兆して「知恵美」と呼ぶが答えはないし続けざまに「知恵美知恵美」と呼び掛けてみてもやはり返事はなく、いないはずはないと動悸に余計酷くなった頭痛を押して「陛下陛下」「知恵美知恵美」と呼び掛けながら卓の下ベッドの下テレビの後ろタンスの裏押入れゴミ箱と手当たり次第探しても一向見つからず、さして広くもないマンションの一室で行方不明などあり得ないと思う一方で変態を遂げた知恵美には天使のごとき羽が生えていて慶賀すべき羽化の際に酔い潰れて眠りこけている自分に愛想を尽かして飛び去ってしまったのではと妄想し、さらには光となって昇天したのではと最悪の事態を想像してまさかと否定しつつも不安は拭いきれず、ここにいるならしかし必ず見つかるはずだしすでにいないのなら諦めるより他ないと思い、それでいくらか平静を取り戻した紀子は術後間もない患者のように患部に右手を添えて気遣いつつゆっくりと立ち上がると一歩一歩慎重に運んでキッチンに行き、洗い桶の中から取りだしたタンブラーで水道水を一口飲んで残った水は捨て、右手の甲で濡れた唇を拭いながら背後のキッチンテーブルに左手を突いて半身を預けつつ椅子を引いて腰掛け、テーブル上に投げだした右腕に頭を乗せて長い溜め息をついた紀子の視線の二〇センチほど先にある瓢箪を象った箸置きにふと焦点を合わせると、その箸置きを枕に心地好げに寝ている知恵美を見つけ、訝しげに紀子は首を擡げて真っ直ぐ知恵美を見据えると一、二分ほど網膜に焼きつけ、実体としての確かな手応えを感じて幻ではないと確信した安堵から脱力すると忘れていた頭痛がぶり返してきたため顔を蹙めてこめかみを紀子は押さえ、口元はしかし笑みに綻んで零れ落ちる涙は間違いなく嬉し涙だと紀子は右手の甲で拭い、苦悶と歓びが交錯するなか眼を潤ませて「知恵美」と呼び掛け、眠っている知恵美からは何の答えも返ってはこないが、紀子の呼び掛ける声に呼応するように知恵美の発する淡い光が微妙に変化するのが分かり、それだけで紀子は心が洗われるような気がしていつまでも呼び掛け続けるのだった。

再会の歓びに浮かれて気がつかなかったが今改めてその卓越した観察力で紀子が知恵美を窺うと、眩く神々しい光に全身覆われているのでもなければ天使のごとき羽が生えているわけでもないし一廻りも二廻りも大きく逞しくなっているというのでもなく、況して外骨格の昆虫に変態したのでもなく、声が少し太くなった程度で外的には変化らしい変化がないというのが紀子の変態後の知恵美に対する印象だが、期待通りというか期待外れというか何だかしてやられたように思い、些か興醒めるもののあれは単なる夢だし自分の勝手な思い込みに過ぎないのだから知恵美に責任はないと気を取り直し、恵美の意志を受け継ぐ自分のほうにこそむしろ責任があるし、さらには変成の瞬間を逃したことで信者らから非難されるかもしれないと思えば償い得ないその失態に自己の卑小さを思い知り、その発する淡い光によって知恵美=メシア=天皇の灼かな霊験を真に受けたと感じた紀子は尚一層自己の卑小さを恥じ、このようにも卑小な自分の許に尚知恵美が留まっていてくれることだけで充分でそれ以上何を望むことがあるのか、望むのではなくむしろ与えるべきだと知恵美への献身こそが自分の為すべきことだとそう紀子は理解し、安定を欠き揺らぎに揺らいで危うく失速し掛けたのをそこで何とか持ち直すに至るが、箍の締めつけはしかし相変わらずだし咽喉の渇きも未だ癒されず、再度紀子はタンブラーに八分目まで水を汲むとまずこめかみに当ててそこだけ滾り返ったような血流を冷却し、それから少しずつ口に含んで粘膜の細胞ひとつひとつに浸透させるようにゆっくりと嚥下し、最後の一口を紀子が飲み下して空になったタンブラーを静かに卓に置き知恵美のほうに視線をやりつつ潤った舌で乾いた唇を湿らせているとタイミングよく知恵美の両の瞼が開いて紀子の視線とぶつかり、「起きた?」と紀子が訊けば「うん」と知恵美は答え、「よく寝た?」とさらに訊けば「うん」と知恵美は頷き、「調子はどう?」と訊けば「うん、いいよ」と答えるその屈託なげな口振りやら挙措は以前の知恵美と何ら変わりなく、変態の意味すら覆すような知恵美にこれがこれこそが知恵美なのだと「知恵美らしい」と紀子が呟くと「どんなとこが?」と真っ直ぐな問いを返す知恵美に紀子は巧く答えられず、ついと立ち上がって「ねえ?」と食い下がる知恵美から身を隠すように冷蔵庫の扉を開けてその前にしゃがみ込み、するめイカとビーフジャーキーは昨夜紀子が食べ尽してしまったから固い切り餅の角切りに各種生野菜の角切りを小皿に盛ってワインとともに知恵美の前に置くと「とにかく無事変態したんだからお祝い」と乾杯し、知恵美はワインを紀子は水道水ではなくミネラルウォーターを飲み、チビチビやりながら彷徨い気味の虚ろな視線を紀子がふと壁掛けの時計に向ければ反射して文字盤もよくは見えぬながら短針の概ねの位置とその傾きからすでに起床から一時間近く経過しているのが分かり、時計を見たのも薄々は分かっていたからだがそろそろ仕度に掛からねば遅刻だと河井課長に急き立てられるように渋々紀子は立ち上がり、無理にも食べようとトーストを焼いてはみたもののどうしても受けつけないため朝食は抜きにし、小康を取り戻す間もなく仕度し終えた紀子は知恵美を連れて常のごとく自宅マンション五〇五号室をあとにする。

事務所に着くとすぐ紀子は携帯だけ持って席を外して八木に連絡を入れるが車で移動中か何かして受信状態が悪くノイズ混じりの掠れた声がひどく遠くのほうから僅かに届くのみで、絶えず移動しながら巧く受信できる位置を探りつつ紀子が耳傾けると切れ切れの妙に切迫して聞こえる声はすぐにも来てもらいたいところだが仕事もあるだろうからと都合を訊くので「遅くなっても構わないんでしたら今夜伺いますけど」と二度答えると「何時でも結構です、待ってます」と割れ気味の声は言い、そのすぐあとに徳雄先生に掛けると「今日は夜間部があるから」とこれは聞き違えようもなく明瞭な声で断られたためひとり本部事務所に赴くこととなり、いや、ひとりではない知恵美がいるといくらか楽観はしつつも相手のペースにだけは嵌らぬようにと肝に命じ、それしか頭にないからか河井課長の嫌味もさほど気にはならず、後々のため余力を残して仕事を終えて行きがけに駅の公衆便所で本部事務所に行く旨知恵美に伝えると「そう」と素っ気ない返事で、「随分期待してるみたい」と紀子が言えば昂奮しているのか力の表れなのか全身から発する淡い光をチカチカと明滅させながら「あの人きっと失望するよ」と狡そうに知恵美は言ってカカと笑い、「なんで?」と訊けば「だって全然変わってないじゃん見た目がさ」とさらにも愉快げに知恵美は笑う。

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