友方=Hの垂れ流し ホーム

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紀子を見るや「孵りましたか?」と上擦った声で八木よりも先に日下が訊き、「どんな具合です?」と答えも待たずに八木が覆い被せ、すぐにまた日下が「いやもう心配で心配で」などと止め処なく、適当に相槌を打つ紀子の顔の蒼白にしばらくして気づいた日下は「どうしたんです? 真っ白ですよ。何かあったんですか?」と途端に不安になって「まさか」と最悪の事態を言い掛けるが口にはできずに呑み込むと紀子の返答を待ち、「違うんですこれは」との否定を得ていくらか安堵するものの肝心のものをこの眼で確認しないことには不安は消えぬと二人は言い、期待を裏切るようで幾分気が退けたが見せないわけにも行かないしその為にこそ来たのではないかと紀子が桐箱を取りだして二人のほうに押しやると八木とともに身を乗りだした日下は桐箱に覆い被さるように中を覗き込み、無言でしばらく眺めたのちゆっくりと起こした体をソファに沈ませて八木のほうにチラと視線を投げ、その外的変化のなさに八木も日下も落胆の色を隠さないが「まあとにかく無事孵ったわけですから」と取り成すように八木は言い、「要は中味ですから」とそのメシアとしての天皇としての力こそが問題なのだと淡い光をチロチロと発する知恵美を覗き込みながら言い、「報告を兼ねて何か催しでも」と提案して紀子と日下を交互に見較べる。この際盛大な催しで印象づけたほうが得策だと踏んだ日下は「それはいい」と快諾し、立案を二人に任せることを告げると「それじゃあとは宜しく」と言い置いて座を立ち、「車廻しますから」と言う駒井に「あいいよいいよ」とこれが教祖かというほど気さくな口振りで制してひとり小走り気味に出ていくのを八木は見送ると、疲れたように深々とソファに再び腰掛け、視線を落としたその先にあるものを見つめつつ「寝てますか?」と紀子に問い掛けると「起きてるよ」と知恵美が答え、その知恵美の声に連動するように瞬く淡いがしかし力強い全身の発光が前とは幾分異なっているように思え、どこがどうと具体的に示すことはできないものの違うということはしかし八木にも分かり、やはり変態して何の変化もないはずはなく、想像を絶する変化が内部で起こりそれが今も渦巻いているに違いないと直接当人に向けて質問を浴びせるが、それら質問に知恵美はほとんど答えず「ボクさ、卵嫌いなんだ」と教団の名称に難癖をつけて『神聖卵教会』という名称から卵の文字を除いて『神聖チエミ教』とでも変更するよう迫り、唐突なはぐらかしに憮然とする八木だが自分の一存では何とも答えられないので「日下さんに言っときます」とだけ答えて話頭を戻そうとすると「眠い」と言ったきり何とも答えず、怒ったのかと不安になって取り成しを求めるように紀子のほうに歪めた顔を向けると「寝てます」とにべなく紀子は答えて静かに桐箱を手許に引き寄せ蓋を閉めて仕舞いに掛かり、重大な失態を犯してしまったと八木は悲観するが理由を聞かねば納まらないと「なぜです?」と紀子に訊ねると「怒ってなんかいませんよ」と笑顔で否定するものの知恵美を仕舞うその何か隠すような手つきにはこんなところにはこれ以上居られないとでもいうような刺々しさが透けて見えるしその笑顔にしても取ってつけたようで白々しく、これを端緒に一切の関係を絶つとでもいうような非情さを感じとった八木は帰り仕度をはじめた紀子をこのまま帰したらそれきりになると「送ります」と腰を上げて引き留めようとするが、その申し出を丁重に断って行き掛ける紀子に尚も追い縋る八木を巧みに交わして紀子は本部事務所をあとにし、知恵美の眠りを妨げぬよう慎重に足を運びながらひとり街路を駅まで歩く間最前の遣りとりを反芻し、知恵美を利用しようとしかしない日下や八木へのしかし自身もその片棒を担いでいることを捨象したつまりは短絡的な憤りに過ぎないと分析してその大人げなさを反省しつつも八木の情けない困惑顔は思い出すたび紀子の頬を綻ばせ、笑うのをしかしその都度紀子が怺えたのは周囲の眼を気にしてではなく況して八木に対しての礼節でもなくバッグの中で眠る知恵美を慮ってのことで、腹筋の強い収縮と気管の閉塞とそれに伴う呼吸の一時的停止とによって紀子の笑いは鎮圧された。

名称変更という知恵美からの提案に最後まで渋っていた日下も遂には折れて承諾せざるを得なかったのは知恵美=メシア=天皇の発言はそれ自体神聖絶対で否も応もないという信者らの圧倒的支持があったからだし殊更名称に拘っていたわけでもなかったからで、それでも実際に変更という段になると何か生皮を剥ぎ取られるような苦痛を日下は感じなくもなく、自己の所有物では抑もないのだし教団の発展のため延いては人類のため世界のためとあれば致し方ないと知恵美に従い、緊急告示という形でセミナーの一部予定を変更して正式に改称する旨申し述べて知恵美の変成とともに『神聖チエミ教』へと生まれ変わり、幾分日下は気落ちした様子だが「皆が望んでることですからね」と営業上がりなだけに切り換えは早く、いくつかの営業プランを八木と協議するのを見ているとしかし彼らが知恵美をただの商品としか思っていないのではと紀子は思い、長年の営業勤務で染みついた思考方法とすれば矯正はしかし容易ではないだろうしメリットもなくはないのだろうと紀子はいくらか軟化を示す。とはいえ教団に知恵美の庇護保護を全的に委託することの危険は今も変わらず感じており、というのも知恵美の蛹化から変成へと至る過程を実見している信者らの昂揚は予想外に激しく一部信者らを過激にさせることになったからで、知恵美派とのちに言われる者らがそれで、下水管工の沖を筆頭に主に二十代前半から三十代後半までの者で構成されるその者らは穏健且つ卑小な日下八木のもとでは知恵美=メシア=天皇の真の力は発揮され得ないしただの一弱小新興宗教という現状から脱することは不可能と言いだし、知恵美が直接に指揮し誘導しているのではないにしろ確実に勢力を拡大させつつあるそれら知恵美派の目論見が那辺にあるのか日下は測り兼ね、信者数の増加に加えて全体として知恵美=メシア=天皇への信仰が強まっていることを喜ばぬわけではないものの盲信狂信へと近づいているのではとの危惧も一方である。そのような状況下での知恵美派なるものの出現に日下の危惧は一層強化され、突出暴走せぬようセーブせねばと告げられるまでもなく紀子はその危険性を察知しているものの奔放な知恵美を型に嵌めることで窮屈な思いをさせたくはなく、抑えるのは知恵美ではなくむしろ信者らのほうではないかと切り替えされて「それはそうですけど」と日下は苦笑せざるを得ず、その小商人ふうの卑屈な笑いが如何にも頼りなく、その卑小さが売りとはいえ宗教者にはそぐわぬ卑小さだと紀子は思い、知恵美派の批判も尤もだと思うものの知恵美派に荷担するつもりはしかし毛頭なく、知恵美派の追い詰められたような性急さが狂気染みているように紀子には思えたからで、それよりは卑小でも穏健な日下のほうが心安く、「あんまり賛成はできないですけど」との言葉を聞いて紀子を最終防衛線と見ている日下は、カリスマ皆無で政治的手腕にも欠けるただ穏健なだけの自分に知恵美派の台頭を押さえ握り潰すことは容易ではなく、紀子さえしかし靡かなければ知恵美派も容易には手出しもできぬはずとひとまず安堵し、知恵美派がしかし日下を追い落として実権を握るようなことにでもなれば強引に知恵美を奪い去ろうとするはずで、そうなれば自分ひとりで知恵美を守り通すことは恐らく不可能で、紀子の危惧はそれに尽き、そう思うと急に尾行でもされているんじゃないかと背後が妙に気になりだし、いや、背後だけではなく周囲が皆知恵美を奪おうと狙う知恵美派の息の掛かった敵のように思え、急か急かと早歩きになって歩いている紀子のその足の動きがふと鈍ったのは、どこからか「メシア様、ああ天子様」と声がするのが聞こえたからで、速度を緩めつつも警戒は怠らず周囲を見廻すと両手を不自然に宙に彷徨わせて光を仰ぐような眩しげな視線で紀子を見つめている初老の女性を見つけ、異様な雰囲気を纏っているのを訝ってもしや知恵美派の刺客ではないか足弱の老婆と油断させて襲ってくるのではと後ずさり掛ける紀子に「メシア天子様、じゃなかった。メシア天子様を連れてらっしゃる方」と言い「そうですね?」と念押すその言葉に信者とは分かったが油断はできぬと距離をとりつつ「はあ」と曖昧に答えると、その初老の女性は「こんなところでお目に掛かれるなんて」と嬉しげに言いつつ紀子の警戒など知らぬげに近寄り、間近まで迫ると紀子の手を取って固く握り締め、知恵美と紀子を混同したように掴んだ手を顔の前まで掲げて何事か拝むのだが、「私に、あの、私に言われても」と困惑しきった紀子が言っても拝むのをやめようとせず、そうかと言って真剣に拝んでいるのを無碍に振り払うこともできない。周囲から注視されているような気もするが、その初老の女性に両手を握られて動きを奪われ、この隙を突いて襲うのかと益々警戒を鎧いながらとにかくこの場を離れねばと「お話伺いますから拝むのだけは」と頼んでようやく手を離してもらい、すぐ前の喫茶店にその初老の女性を連れて入ったのだったが、「吉田」と名乗ったその女性の話によると「和樹てんですけど、ええ孫なんです、六つだったかしら」が病気らしく、それも先天性の治療も困難な免疫機能疾患とのことで、「うちの家系にも孝史さんの家系にもそんなのないって言うでしょう、ただ君枝さんの父方の従姉が、ああ弟の嫁なんですけどね、その従姉のお子さんが似たような病気で先だって亡くなったらしんですけど、そっちのほうとはもう血は繋がってないし」と一気に言い、薬漬けとその副作用に苦しむ孫の姿が「不憫で不憫でもうっ」と悲痛に訴える吉田の声は次第に高ぶり震え、祈祷も布施も何ひとつ効果なく頼みはメシア天子様だけで自分の命と引き替えでも構わないから孫の苦しみを取り除いてほしいと縋りつくのだったが、そのあまりの必死の形相に紀子は気後れするというよりは怖れをなし、吉田を振り払ってその場を立ち去りたくなるのをしかし怺えて吉田の腕をやんわりと押しやり、周囲を気にして「落ち着いて下さい」と窘めつつどう納めるか考えを巡らし、いくら知恵美の霊験が灼かとはいえ現代医学も困難を極める先天性の疾患を治癒できるとは到底思えないが知恵美より他に頼みはないという人を「無理です諦めて下さい」と片づけることなどできないし、聞いた範囲での事情なりこれまでの経緯なりからすれば吉田の行動は頷けるし度を超して異常とも思えず、そのような行き場をなくした者を掬いあげようとするのが宗教なのだと思えば、日下や八木の宗教観が如何なるものかまだよくは分からぬながら自分としては聞くより他なく、いや聞いてもらう他なく、「ここじゃ何ですから」と吉田の手を引いて促して店奥の便所に連れていく。誰もいないのを確認してふたつある個室のうち奥のほうのドアを開けて吉田を便器に腰掛けさせ、「ちょっと待ってて下さい」と言い置いて人が来ないか再度確認してから桐箱を取りだして蓋を開け、「話、聞いてあげて」と何の説明もなしに囁く紀子に「うん」と知恵美は快活に答え、その素直さ物分かりの良さに感動をさえ紀子は覚えるが余韻を味わっているときではないと静かに待っている吉田の前に知恵美を差し伸べると、これも逸速く察してかその全身から発する淡い光が眼眩むほどに弥増し、それこそ便所の外にまで溢れだしそうなほどの輝きに紀子は慌てて手で押さえて隠そうとするが手が動くより早く光は収束して元の淡い光に戻り、目の当たりそれを見た吉田は一瞬凍りつくが「ああメシア様天子様」とすぐに手を合わせて拝みだし、いつまでも拝みやめないのを「あの、お話」と紀子が促してようやく拝む手を膝に下ろした吉田は最前紀子に話したことを一から話し、話し終えると支えが取れたというようにグッタリと項垂れて審判を仰ぐように息を呑んで知恵美を窺うのだった。何か考えを巡らせてでもいるように知恵美はしばらく全身を緩やかに明滅させてから「そんな心配しないで、ボクがきっと治してあげるから」とまるで打ち合わせたように調子を合わせ、「ほホントですか?」と訊く吉田に「テンノウに二言はないさ」と知恵美は言い、それを聞いた吉田は歓喜に震えて噎び泣き、礼を述べてまた縋りついてくるのをこれは已むなく受け止めて治まるまで待ち、あまり長くいると怪しまれると知恵美を仕舞って席に戻り、すっかり冷めた紅茶を紀子は一口だけ啜って伝票を取ろうとすると脇から伸びてきた手が素早く奪い取り、「払いますから」と胸元に伝票を抱き寄せて決然と吉田が言うのを「そういうわけには」と一旦は断るが吉田が引き下がらないだろうことはその素振りで分かり、千円にも満たない額で押し問答する馬鹿らしさを思って「ありがとうございます」とすぐに折れ、会計を済ませた吉田が赤ベコのようにお辞儀しながら去っていくのを見送るとひとり紀子は便所に取って返し、奥の個室に入り鍵を掛け便器に腰掛けて再度知恵美と相対す。人の気配に声を落として「治らなかったらどうすんの」と心配げに囁くと「治るさ」とやけに強気な知恵美に「自信あるの?」とさらに訊けば「それくらいできなくてテンノウとは言えないよ」と自信たっぷりに言ってカカと甲高に笑うが、その過剰なまでの自信が一体どこに由来するのか紀子には分かり兼ね、引き攣った微笑を返して濁す他ないが不安の種がまたひとつ増えたというように溜め息をつき、その溜め息でしかしそれら不安の一切を吐きだしたというように勢いよく紀子は立ち上がると個室を飛びだし、その吐きだした不安が宿主を求めて今にも追い縋ってくるとでもいうように駆けださんばかりの勢いで人波を掻き分け歩いていくが、何をこんなに急いでいるのか一瞬状況を見失って自分のいる場所すら分からくなった紀子は立ち止まったその場に立ち竦んでしまうが、すぐに待ち合わせの場所と時間を思い出して時計を見つつ現在位置を確認するとゆっくりと歩きだし、二〇分遅れて『鉋屑』に着くが徳雄先生はまだ来ていないらしく、ひとり席に着いた紀子は出された水を一息に飲み干して氷をも囓りたかったがそれはやめ、知恵美の入った専用ポシェットを眼前に置いて眺めながら徳雄先生を待つ。

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