紀子がその手に乗せているものを不思議そうに駒井は眺めていたが不意に指差し示して「ソレ、何に見えます?」と問い、分かりきったことをと答えずにいると知恵美にそれは間違いないかとさらに問われて「間違いも何も知恵美じゃなきゃ」何だというのかと投げやりに答えれば、落胆したように一言「そうですか」と呟くと駒井は腕組み考え込むふうで、思い詰めたような吐息のあとに「あの」と切りだすが何か決意を込めた眼差しでじっと紀子を見つめながらも黙してしまい、コンマ何秒かの葛藤ののち「ただの紙っ切れじゃないですかソレ」とまるで分からぬことを言い、さっきまでの妙に居丈高な身振りは微塵もなくして「目を醒まして、紀子さん」ソレはただの紙切れなのだ、あなた自身が拵えた紙っ切れにすぎないのだと駒井は尚も言い募り、その不意打ちにいくらか紀子は驚きながらも何もかもを無化するようなその言説を諾えるものではなく、言い訳にしては見え透いていると無性に腹が立ちもして「何言ってるんです」と掌に乗せたソレを紀子は掲げて示し、目を醒ますべきは私ではないと宣言するかに「コレのどこが紙っ切れなんですか?」と声を荒げると、落ち着いて話を聞いてとそれを制してからどこからどう見たって「ソレは紙っ切れです」と駒井はくり返し、いろいろ手を尽してはみたがそれら総てが裏目に出てしまい、詫びて済むことではないが「ホントに、申し訳ないと思ってます」と深々と駒井は頭を下げ、ここまで来てしまった以上総てを曝すより他ないと「日下さんともね、話したうえのことですし」教団としての正式な謝罪も賠償等についても後日予定していると駒井は言う。いくらかその脈絡が見えてきたように思いもして「てことは、生きてるんですね知恵美は、そうなんですね」これもまた壮大なイニシエーションの一部なのだろう、“大成功”のプラカードを掲げてノロケイスケ宜しくヘルメットを被った八木か誰かがそこの戸を押し開けて笑いながら出てくるのだろう、あるいは四囲の壁が一瞬に倒れて観衆に取り巻かれる中これまた“大成功”のプラカードを掲げたノロ八木ケイスケが現れるのだろうと期待するように問えば、静かに首を横に振って駒井は強い否定の意を表わし、それより他にどんなオチが用意されているのか予想もつかぬというかに「え、じゃどういう?」ことなのかといくらか眼元を引き攣らせて問えば、一語一語言葉を選ぶように慎重に駒井は説明をはじめて「最初にほら、お二人でお見えになったとき」そのお話を伺いながら八木ともどもその内容がよく理解できなかった旨駒井は告げ、そのときの認識の甘さが結局は総てを混乱させた原因なのかもしれないが、仮にも宗教者なのだからこのような人を捨て置くことなどできないし何とかその迷妄から救いだしたいと日下に助力を乞うて教団挙げての一大プロジェクトを組んだのだと駒井は言い、そうかやはりそういうことだったのかと小刻みに頷きながら「プロジェクトってだからあの、沖の言ってたイニシエーションでしょう?」それならすでに聞いていると紀子が言えば「イニシエーション? 何ですソレ?」と問い返されて「違うんですか?」と紀子は戸惑い、何のことを指しているのか分からぬがこの件に沖が関係していることはあり得ぬと断言されて「ちょちょっと待って」と制して整理しようとするがどうにも整理できず、構わず駒井は先を続けて今さら何を言っても言い訳にしかすぎないが「恵美さんが亡くなられたことで」計画に狂いが生じ、沖の独行という予期せぬ事態がさらにも計画を狂わせ、それからは何をしてもその迷妄を深める結果にしかならず、教団の存続さえ危ぶまれる現況を鑑みて已むを得ずこの措置に至ったのだと駒井は言う。そんなの嘘に決まってると頑なに退けるのを「ホントです」総て事実だと深刻そうに「目を醒まして」とくり返すのを探るように見つめつつ「ホントみたいだよ」と半透明の恵美の霊の言うのを聞いてその霊的勘に誤りはないというかに「え、じゃあ、えちょっと、何、何言ってるんです?」と認識の拠点を紀子は失い掛け、いったいどこまで遡及すればいいのかと訝りながらもこれが知恵美じゃないというのなら当の知恵美はどこにいるのか、もしここにいるなら会わせてくれ、いないというならその居場所を教えてくれと訴えると「いませんよ」と駒井は言い、「じゃどこに?」と訊けば「どこにって、どこにもいませんよ」メシアにしろマリアにしろ少なくとも私たちにはそれが存在するものとして認識されてはいない、確かに教団としてメシアを希求してはいるが「でもそれは符牒としてであって実体としてではないですから」とそう駒井は言い、そんなわけはないデタラメを言うなやはり教団で知恵美を独占しようって腹なのだろう、メシアじゃないとか紙っ切れとか言いながら結局はそういうことなんじゃないかと紀子は掠れ声で言い、困惑したように「そうじゃなくて」総ては迷妄から救いだすためなのだとくり返す駒井に「えだって、みんなメシアメシアとか言って」崇めていたではないかあの信者らも仕掛人なのかあれも皆嘘なのかと詰め寄れば一瞬の間を置いて「まあウソって言えばウソになりますけど」と済まなそうに駒井は頷き、その一瞬の間がしかし紀子に疑念を懐かせて、いや違う、これは罠だ罠に違いないとそう紀子は思い、不意に虚脱したように押し黙ったかと思うと何かを決意したような悲愴な眼差しで駒井を見つめ、そのキレそうなのを察してか再度「帰ろ、ね帰ろ」と促す半透明の恵美の霊の声が耳傍で聞こえるが徐々にフェイドアウトするかに間遠になっていく。ふとした拍子にそれが寝返ろ寝返ろと聞えて一度そう聞いてしまうとそうとしか聞えなくなり、寝返ろと唆す半透明の恵美の霊の囁きに寝返る寝返ると応答しているのを危険な兆候と自身認識しているが回避しようもなく紀子はそこへ落ちていき、呆けたように視点は定まらないしこれから行うだろうことの像の一部始終をぼんやりとながら見てしまったりもするしと目前に迫りつつある事態の予感に最悪腹を括らなければと紀子は何の覚悟もしかしできず、もう何を言っても届かないのかと茫と考えながら紀子は手にしたソレをじっと眺め、その輝きに期待を掛けるというかに気息を整えると丁寧に桐箱に納めてしっかりと蓋を閉め、そのように光が外に漏れぬようにしておけば中に充満した淡い光の灼かな霊験で以て次に開けたときには元通りひとつに繋がっていることを祈りつつぎゅっと強く握り締めさらには抱き締めて、とにかく帰ろうここにはもう用はないしこれ以上いたら変なことになりそうだからと立とうとするが巧いこと立ち上がれなくて幾度もソファに尻餅を撞くのを駒井は傍観するのみで、自身が引き起こしたものだからその狼狽に同情せぬでもないが今は触れぬほうがいいと割り切り、割り切れぬ思いを残しつつ紀子は本部事務所を出るが半透明の恵美の霊のいないのにしばらくして気づき、四方に眼を配って「恵美恵美恵美」と呼ぶが声も聞こえないし姿も見えず、知恵美の死をそれは傍証しているように次第に思えてきて頼むから姿を見せてくれと呼び掛けるがどこからも応答はなく、ひとりになれたとの開放感はだから全然ないし却って孤独に突き落とされたように放心してしまってそこからの記憶もまた編集されたかに欠落してしまう。
次のカットはそれから小一時間くらいが経過していて、緩勾配の坂をてくてく歩いているのに気づいて帰るつもりだったのにと訝りながらも紀子は引き返そうとはせず、やがて現れる小汚い淡グレーの六階建てビルの前に紀子は立つが、すんなりとは乗り込めなくて階下の雑貨屋に逃れると通路は狭いし照明もよく届かなくて全体圧迫を感じるが、古びた物ばかり置かれた木の香の強い中際立って意識に引っ掛かる匂いのあることに紀子は気づき、クンクン鼻を鳴らして探るとそれは大小各種の桐の箱で、これが恵美の言ってたヤツなのかと紀子が茫と眺めていると不意に背後から「ああそれはいい品だよ」と声が掛かるのに驚いて振り返れば間近に店主の顔があるのにさらにも紀子は驚き、手近にある桐箱をひとつ掴むと店主に示して「これ下さい」と手渡したのはだからその場の勢いで、無理から買わされた気がしないでもないが今さら要らぬと断るのも面倒だからと丁寧に包装された品物を受け取ると店を出てアトリエに赴き、自身の行動がもひとつ把握できぬながらも明確な意志による行動よりも流れるままにいたい、今意志は巧く機能しないからとその前に立って約束を素っぽかしたことをまず詫び、次いで連絡もせずに訪ねたことを紀子は詫びる。その憂い顔にいくらか戸惑いながら「え、だってさっき電話くれたじゃないか」と徳雄先生は訝り、失念した記憶を人に告げられることの手応えのなさに異様な虚しさを覚えて「そうなんだ」と投げやりに呟くと、その背に手を廻して軽く支えつつ「何、どうした?」と心配げに徳雄先生は訊き、その開(はだ)けた首筋辺りに不安げな眼差しを紀子は泳がせて「あの」と言ったきり言うべき言葉さえ失ったというようにそのあとが続かず、軽く背を押して椅子のほうへ導く徳雄先生の困惑げな面持ちに紀子はさらにも不安になり、それを振り払おうとするかに「見てほら」と示された桐箱に「見つかったのか」と驚くが今下で買ったと紀子は答え、端的に反応に窮して「そうか」と軽く頷くとここじゃ話もできないから出ようと誘うのを断って「描いてもいいですか?」と訊きながらそう訊いている自分に紀子は驚き、それ以上の驚きをその引き攣った左頬に露呈させながらも「そらまあ、構わないけど」と徳雄先生は自らイーゼルを用意してくれ、こんなことしている場合なのかと絶えず自身に問い掛けつつパネルに画用紙をクリップで留めると鉛筆を借りて昼間部の生徒らに混じって紀子は何年か振りの石膏デッサンをはじめる。