些かはしたなく意地汚なさを露呈したとは思ったものの丁度喉が乾いていた所だったため眼前に置かれた牛乳のその濃厚な薫りに我慢出来ず一息に嘗め廻し、「もう一杯如何がです?」と言われてつい「頂きます」と言ってしまい、熟々自分の慾深さに腹が立ち情けなく思いはしたものの眼前の純白に輝く牛乳の魅力には打ち勝てず二皿目も一息に嘗め尽してしまったが、それを見て「いや、いい飲みっ振りで」と言われたのが野良犬の貪欲性を皮肉に指摘されたようでグサリと胸奥に突き刺さって無性に恥ずかしく、顔面に血が上るのが判ったが全身を覆う和毛のお陰でその顔面の紅潮は外からは容易には確認し難いため二人には気付かれずに済み、このような時犬は特だなどと思いつつ胸撫で下ろして一息ついて出された座蒲団の上に坐り直し、改めて挨拶すると一人は困惑気にペコリと頭を下げ、一人はにこやかに笑みつつこちらが恐縮するほど深々と頭を下げ、その二人の態度の差異を比較勘案すると前者の方がより一般的反応で後者のように全面的に私を受容する寛容な態度はそれ自体嬉しいことではあるものの非常に珍しく、私には奇妙に思えて却って胡散臭く偽善的なものを感じて警戒してしまうのだったが、それでは快く私を招じ入れて美味なる牛乳を二皿まで用意して歓待饗応してくれたこの二人の好意に悖る犬畜生と、あの嫌らしい覗き趣味の白黒灰斑らの野良犬が散々私を罵倒したのちの立ち去り際に最後に唾棄するように浴びせていった犬畜生と罵られても仕方のない礼を失する行為だと直ぐ様警戒解除するが、何処か納まりの悪い居心地の悪さを感じてはいて、ただその納まり悪さ居心地悪さが私のともするとそれが高じて屡々思わぬしくじりをする例の飼い犬特有の人懐っこさ無警戒性に歯止めを掛けているため、辛うじて真摯に紳士らしい振る舞いを維持する事が出来たのであり、人語を解することに於いては人後、いや犬後に落ちないと自負している私だが、それが自身をこのような境涯に至らしめる原因になったと言う事については言葉もなく、人には薄気味悪がられるし犬には日和見主義だ犬の魂を売った犬族としての誇りまで棄て去ったと蔑まれ罵られ足蹴にされ、挙句何処にも身の置き所がなくなって縦社会の群れ生活が常の身にとっては過酷に過ぎる天涯孤独の身となって一匹狼などと言うのはそのような孤独の寂寥感を紛らかすための空威張りに過ぎないと熟々思い知り、否応なしにその空虚を味わいつつ流れ流れて何処で聞いたのかも忘れてしまったが何処かでその噂を耳にし、霊験灼かだと言うその階段の霊験を思うにつけ私の行くべき所は此処しかないと此処にやって来たのだったが、その幾種類もの丈高い草に埋もれて影を潜めるようにある小屋のあまりの荒び様荒れ果て様に幻滅落胆して一旦はその場を立ち去り掛けるものの此処以外に何処へ行く当てもない身ではあり折角此処まで来たのだから拝むだけは拝んでおくのも無駄ではなく何もせずに立ち去るのも癪で物は試しと剥がれた板壁の細隙間からささくれで体を傷つけない様細心の注意を払って中に侵入するが、灼かな霊験など期待出来ない程にも荒れ果て荒んだ臭気を放っていて当てが外れて再度落胆するものの裏を返せばこの荒れ果て様荒み様が霊験の灼かさを暗示している様にも思えて頼もしささえ感じるが、いざ闇に飲み込まれて先の見えない階段を眼の前にしてみるとその暗い闇には矢張り躊躇逡巡せざるを得ず、暫く人の臭いも殆どしない打ち棄てられて廃墟と化したこの掘っ建て小屋に居座って如何にすべきかと思案に暮れていたが、それはこの階段の灼かだと言う霊験を見極め値踏みしようと言う様な烏滸がましく不敬極まりない越権的行為をしようが為ではなくて幸い他に先住者のいる気配もないし雨露くらいは凌げるだろうし一所不住の野良犬の仮宿には充分過ぎる程だと他に行くべき所があるわけでもないのでじっくりと腰を据えて考えてみるのもいいだろうとこの小屋で生活し始めたのだが、幾日かが過ぎればまるで人の気配のないうら寂しい僻地の様に感じていたこの小屋周辺にも人の気配のあるのに気付きもするしちらほらとだがその影が過るのを見もし聴きもし嗅ぎもして、風に乗って流れ漂ってくる附近に遊ぶ子供等の子供特有の乳臭く小便臭く埃臭い臭いやその如何にも楽し気な邪気のない様な嬌声に離れ難くこの身に沁み着いている卑屈な飼い犬精神が擽られてつい尻尾を振ってフラフラとその傍に寄っていってしまったのが飼い犬だった身の浅はかさと今更嘆いても始まらないが、子供等も私に気づくと「犬だ犬犬」と叫びながら手招きするのでお許しが出たと今度は喜んで駆け寄っていき、それからはもう夢中でじゃれつき跳ね廻って遊びに遊び、普段ならおくびにも出さないのだが疲れて気が弛んで無警戒になっていたせいで「おまえさ、どっから来たんだ?」と頻りに私の頭を撫で摩っていた一人が訊くのに「あのですね、この先の」と不用意に人語で答えてしまい、声に出して初めて人語で語り掛けている事に気付いたが既に遅く、事態の不可解さに子供等はまず間の抜けた顔を硬直させるが一瞬ののちにその奇矯さ不気味さを理解すると、間の抜けた顔が引っ込んで驚愕と恐怖の表情を浮かび上がらせ、互いに顔を見合わせて空耳ではないと確認して更に驚愕と恐怖の度を強めてカオス的混沌状態に陥って一瞬痴呆的無表情を垣間見せたのちに喉の奥から絞り出す様な「あ」とも「う」ともつかない甲高い掠れ声で小さく叫ぶと急反転して鈍足の全力疾走で逃げていき、その逃げる子供等のあとを私は弁解する様に追い掛けていくが、正常な思考状態からは程遠く死に物狂いで我先にと逃げ走り去る子供等にそれを理解させ納得させる事は既に不可能だと判断して人語による釈明が出来ないために尚更もどかしく歯痒い思いを禁じ得ず、終いには石が飛んでき棒切れが飛んできたのでそれ以上ついて行く事は諦めて路傍に茫然と佇んで逃げていく子供等の後ろ姿を虚悲しく眺めていたその一伍一什を、この小屋近辺を縄張りにしている覗き趣味の白黒灰斑らの藪睨みのいけ好かない野犬に気取られたらしく終日あとをつけ狙われ、日暮れ近くなって不意に私の眼前にその白黒灰斑らの見窄らしい姿を現したかと思うとジロジロと睨め廻しつつチクリチクリと棘のある事を言いだし、次第に激して語気荒くなって罵りだすのを私は黙って眺めていたが、散々に嬲られ小馬鹿にされ「犬畜生たあお前みたいなのを言うんだ」とまで言われて矢張り私の居る場所は何処にもないと、その白黒灰斑らの野犬の犬畜生と言う言葉に背押されるかたちで意を決して階段に脚を踏み入れたのだったが、最初の思いとは裏腹に階段は少しも不気味ではなく、私の四本の脚が立てる規則正しい軋みの響きの譬え様もない心地好さは愉楽の極みとも思え、此処に来て好かったと勢い好く踏板を踏んで更にも大きな軋みを立てて今まで味わった事もない目も眩む様な陶酔を存分に味わいつつ高の知れた犬知識では其処に何があるとも知れないが何があろうとなかろうと構わないこの軋みさえあればと上を目指して上っていったのだった。
その構造から言っても発話することなどできるはずもないので人と同じ発声法とは思えないがインコやオウムのような鳥類の発声法とも違うらしく、かと言って脳内に直接信号を送るなどというような超能力的な会話法とも異なり確かにその喉から声は発せられており、一体どのようにして話しているのか不思議でならなかったものの、それを訊いても当の柴犬にも分からないらしいのでそれ以上追求もできず、そのことが蟠りとなってその柴犬の話を聞いている間ずっともどかしい思いでいたが、春信はそんなことには一向頓着せず屈託なく柴犬との会話を楽しんでいるらしく、ときには笑顔まで見せるのに不思議で仕方なく、何故この様にも屈託なく話すことができこの様にも流れる様にツルツルと止め処もなく数珠繋ぎに言葉が迸り出るのか、この様な人は初めてだとその人に対してと同様私自身に対しても訝しく思う一方で咽び鳴いてしまいそうな程の歓喜に満ちた気持ちもあり、矢張り階段に上っていて好かった霊験灼かだと改めて思いもし、此処でこうして何時までも歓談していたいと思い、この人とならそれも無理な事ではないのではないかとも思うためかつい余計な事までペラペラと喋ってしまう飼い犬根性を自嘲するが、そのように喋りにしゃべりまくって飽くことを知らないこの人語を解するうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬の饒舌を思うとその饒舌に飲まれ気圧されて言葉もなく凝固している聡志の戸惑いも分からないではなく、この人語を解するうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬を奇異に感じなくはないものの私にしてみれば日毎夜毎に現れて執念くつき纏っては恨みつらみを述べ立てて離れない物理的存在ではありえない幻像虚像のあいつに較べれば、人語を解するとはいえ現像実像の物理的存在のこの犬は可愛いもので、何よりうちのシゲヨシの再来再臨なのだからこの孤独な階段生活においてこれ以上の欣事快事はなく、ことに近頃はあいつの発言内容がいつとり殺されるかというほど過激凶暴になってきていてたまらなく不安を感じてもいて、今もあいつが現出する気配を濃厚に感じていた矢先にこの人語を解するうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬が現れたお陰であいつの気配が完全に消え去ったとは言えないまでもかなり希薄になったし、この人語を解するうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬との初対面のぎこちなさが生みだす不自然な間が妙な空気を漂わせ、それが引き金になって単身地方へと赴任させられる遥か以前の遠いと言えば遠く十年ひと昔という換算法を援用してちょうどひと昔半に相当するが少なくとも私のなかでは厭悪する過去と隔絶するための強引な引き伸ばしのため二昔三昔いやそれ以上に遥かな遠い過去の出来事と感じているうちのシゲヨシのまだ存命していた当時へと連れ戻されて、その押入れの奥から引っぱり出してきた埃まみれの過去がひどく無造作にむき出しの状態で転がっているのにむせ返るが懐かしさを感じもする会話でその不安もいくらか緩和されるようでもあり、この人語を解するうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬の不意の登場は私には救いのようにも思え、やはりこの階段は癒しをもたらすある種の浄化装置でそもそもそうでなければかつてあれ程にも人々に畏敬せられることもなければ一部地域に限局されていたとはいえ他の諸宗教諸信仰神様仏様を斥けてその信仰の対象にもなりえなかったはずだし、いびつに変容してその実体とは程遠いものになり果てているとはいえその噂がいまに伝え残ってもいないはずだが、いつからかそれにも影がさしはじめて一部の熱心なごく少数のそれこそ二十人にも満たない信奉者を残すのみとなって完全に忘れさられてしまうとそんなものは端から存在してもいなかったのだありもしない妄想幻想に踊らされていただけだとでもいうようにそこだけすっぽりと穴が開いたように闇に包まれ周囲と隔絶断絶して一切の交渉は絶たれてしまい、あの腐れ掘っ建て小屋の荒れ果てようがそのすべてを物語っていて白々とした月下のあの寂然とした佇まいを思うだけでやり切れなくなるが、何もかもを飲み尽して肥大していく雑食貪食性の都市化近代化のすさまじさに一地方の土俗的信仰が抵抗すべくもないのは分からないでもないが原因をただそれ一つに限定するのは浅慮短絡というもので、すべての現象という現象が単一の原因から生じるのではなく解きほぐすことなど絶対に不可能なほど複雑微妙に絡み合った様々な現象事象の微細な蓄積からあふれこぼれるように生じてくるのと同様に外にも多々あるはずの要因が複雑微妙に絡み合いもつれ合った結果としてのこの階段の失墜ということなので、その真因が何なのかということなど私には分かりかねたし階段については博識で大概のことなら即答できる聡志もその問題のあまりの複雑さには答えに窮してしばらく考えこんでいたが結局それに答えることはできずいまもその問題は棚上げのままだが、たとえ人々に忘れさられて朽ち果て腐れ果てて気息えんえんと死を間近にしていようと階段本来の功力が減退するということはなくその多大な恩恵に現に与っていることを思うとその功力を独占している優越を感じて悦に入らないということはなく、完全なる浄化をまったき癒しを得るためにさらなる上昇が必要で脚部を中心とした筋肉の収縮弛緩の果てもない反復が必要とあれば、そのために上りつづけることに吝かではなくいつまででもどこまででも上りつづけるとの決意を新たにするのだったが、二者相反する対応を見せるその二人の中年男は私を柴犬だと思っているらしく、確かに一見柴犬の様に見えるし一眼私を見ただけで柴犬ではないと喝破した者も一人として居ないのでその二人の中年男が私を柴犬だと思うのも無理はなく殊更それを気にしてもいないが実は純粋の柴犬ではなく、幾らか柴犬の血が混じってはいると言う事らしいが雑種であり、矢張り雑種で飼い犬だった母と野良だったらしい父との間に出来た六匹の子供の末っ子末弟として私は生まれ落ちたのだが、母方の方には柴犬の血は一滴も入っていないとの事なので柴犬の血は恐らく父方からの遺伝だと言う事らしいが、母の話では父は柴犬とは似ても似つかぬ姿だったと言うので恐らく隔世遺伝ではないかと思うが、野良だった父を私は知らないし母の話にしても聞く度にコロコロと変わってまるで当てにならないので真偽の程は今以て判らずこの階段のように模糊とした闇に包まれているが、ただ父は僅かながら人語を話す事が出来たらしいのでそれについては間違いなく父方からの遺伝と思うが、それは兎も角私は柴犬ではなく雑種なので柴犬と言えばそれで通用してしまうだろうが変な所に律儀で柴犬と言うネームバリューに胡座を繋く事が殊更気恥ずかしくもあり、「柴犬ではなく雑種です」と正直に打ち明けると二人とも眼を丸くして驚き、「どう見ても柴犬だけどな」と首を傾げてジロジロ眺め廻すのでまた血が上って頬が上気するが気取られた様子はなく、その羞恥の攪乱のため私の口から次々繰り出され吐き出される言葉に聞き入る様子を崩さない。