仄かに杉の香りの漂う階段の踊り場脇に設えられた狭い四畳半の一室で大の男が五人菓子盆の乗った卓袱台をグルリと囲んで額を寄せ合い膝つき合わせて酒に興じているのでもなければ賭け事に現を抜かしているのでもなく況してや女色の雑話に耽溺しているわけでもなければ悪事を企んでいるわけでもなく、およそ大の男の談話に似つかわしいとは思えない我が身他人の荒唐無稽と言っていいほど嘘臭い身の上話に半ベソ掻いているという異様な光景をふと見廻すと、この階段という場の不思議さ面妖さに改めて思い至り、自分がここに至った経緯も忘れてその不思議さ面妖さに感じ入ってしまうが、その間も宇宙人三人組トリオの途切れることのない長話は長続いて仄かに漂うに過ぎないもののどうかすると眩暈を覚えるほどの杉の香りにほろ酔いつつその酔いに導かれでもするかのように、それから一昼夜宇宙人三人組トリオの口は閉ざされることなく言葉を発し続けて私も春信もそれに聞き入っていたのだが、ふと階下で私を呼ぶ美津恵と里美の声がするような気がして耳を澄ますものの声もなく気配もなく、しかしその一瞬の隙をついて今まで私を取り囲むように間近にいた宇宙人三人組トリオも春信もどこかに行ってしまって私はひとり仄かな杉の香りにほろ酔いつつ時折世間を騒がす似非宗教などで派手やかな宣伝パフォーマンスとして頻繁に採用されてはいるもののこの眼で実見することの極めて稀な、いや皆無と言えるためにその真偽が窺い知れず、更にはそのこと自体があまりに個人的主観的体験なために他者との共有が成立せず飽くまで個々人の所有に帰せざるを得ないので少なくとも自然科学の埒外に今のところ位置しているいわゆる空中浮遊のようにフワフワと宙を漂っているが、悟りなどとは程遠く隔たっていることは現世的愉楽悦楽の極致とも言えるこの階段の軋みに耽溺していることを思えば瞭然の事実で、そうだとすればこのフワフワ空中浮遊の意味がそれこそ宙空に浮き上がってまるで意味をなさなくなり、おかしいと思う間もなく階段の縁がグングン迫ってくるのを見てようやく事態を把握し、このまま無抵抗になすがままでいれば顔面から突っ込んでしまうことになるのは確実だが顔面で着地すると血飛沫噴出の大惨事に至ってその惨憺たる様は毎度のことながら見るに耐えないのでどうにか体を反転させて背中から着地しようと身を蜿くものの時すでに遅く、次の瞬間思いきり額が階段の縁にぶち当たって鈍く籠った響きのないボコという音を発して頭蓋骨が陥没してパックリ開いた傷口から血飛沫がビュウビュウ噴き上がって霞のように拡がって視野全体を真紅に染めていくが、なぜかそれを綺麗だと思うだけで死ぬということに対する恐怖や不安や嘆きや憤りなど微塵もないのが不思議だったが、力なく人形のようになってしまった私の体は不自然に手足を伸ばしたり曲げたりしながら更に下へ下へと転がり落ちていって遂には闇に消えてしまうとあとには杉の香りだけが仄かに残ってまるで自分がその漂う杉の香りにでもなったような気がしてそれも悪くはないとぼんやりと思いつつフワフワと漂っていると急に周囲がグラグラと揺れだし、それとともに失った身体感覚が甦ってきて周囲の揺れがその甦った身体感覚に集中し集束し始め、そこでようやく起きなければという意識が働いてゆっくり片薄目を開けると、私の体を懸命に揺する春信のグラグラと揺れ動く眼鏡の細フレームが薄ぼんやりと見えるが、その眼鏡のレンズの向こうに見える春信の円らかな瞳がパチクリパチクリ高速に開閉して妙に深刻で切迫しているのに不審を感じて「どうした?」と訊くと掠れるようなか細い声で一言「火星人が落ちた」と答えるが、一瞬何のことだかサッパリ分からず「何言ってる」と訊き返そうと「な」と口にし掛けたところで春信の言わんとしたことの総てをその事態の重要性緊急性を了解して危うく卓袱台をひっくり返しそうになったほど勢いよく飛び起きて部屋を飛びだすと、すでに踊り場には金星人のトモヨシ氏と水星人のシゲヨシ氏がぼうと佇んで階段の闇をぼうと見つめているが、二人ともしばらく私のいるのも気がつかない様子でマネキン人形のように微動だにせず、そうしていればいずれ火星人のナオヨシ氏が階段を心地よくギシギシと軋゛ませながら上ってくるとでもいうようにじっと小暗い闇の淵底を覗き込むように見つめており、私が二人の肩に手をおいて初めて私の存在に気がついたようにゆっくりと振り返るがその眼は虚ろに曇っていて焦点が合っているようで合っていず、全身虚脱して力なげで今にも倒れそうなほどユラユラと前後左右に揺れているのを脇で見ていて危なげに感じもし、この上二人までも顛落してはと二人を部屋に連れ戻して坐らせると、そこへタイミングよく春信がお茶を沸かしてトリオが好んで食べていた堅焼煎餅とともに自分用の粒餡の大福を周到に用意して盆に乗せて持ってきて卓袱台に置き、それを待ち望んでいたように四人一斉に湯呑みを取って熱いお茶を啜って一息つき、堅焼煎餅を粒餡の大福をそれぞれつまみながらその場に居合わせて一部始終を見ていたはずの目撃者二人から詳しい事情を訊くが、その事故を始めから終りまで一部始終一切合財目の当たり目撃していたはずの当の目撃者二人にもその事故の状況概要はよく飲み込めていないらしくていくら根掘り葉掘っても要領を得ず、三人踊り場にいたのは確かだしナオヨシが落ちるほんの一瞬前まで楽しげに談笑していたのも事実だが、その瞬間を、ナオヨシが落ちるまさにその瞬間を二人ともが眼にしてはいないと未バックアップのハードディスクを誤って初期化してしまったかのような不安を狼狽をあからさまに示して述べ、と言って長いこと眼を離していたというのでもなければ会話が途切れたわけでもなく三位一体の絶妙な会話を会話していたというのだが、足を踏み外す音もしなければ悲鳴らしい悲鳴もなく、とにかく何も聞こえず、それまで快活に話をしていたのが急に声がしなくなり気配を感じなくなったのを訝しく思って振り返ったときにはすでにナオヨシの姿はそこになく、音もなく階段のはるか下方を転がり落ちており、かろうじてその姿を捉えることができたもののそれもほんの一瞬ですぐに闇の淵底に掻き消えてしまったと、水星人のシゲヨシ氏は瞳を潤ませて上擦った声で絞りだすように言うと喉を詰まらせて押し黙ってしまうが、そのあとを続けて金星人のトモヨシ氏が「まるで自分から落ちたとしか思えない」とくぐもった声で言い、その金星人のトモヨシ氏も黙り込んでしまうとそのあとを続ける火星人のナオヨシ氏がいないということが殊更際立ち、その空白空隙が一層二人を打ち沈ませてズシリと重たげな空気の塊が部屋に満ちて部屋の明かりをさえ押し潰しているように暗く淀んでいるように思え、春信も私も二人をどう慰めていいのか分からず途方に暮れ、このときばかりは仄かな杉の香りも青畳の匂いも堅焼煎餅の乾いた響きも愉楽の極みに歓喜せずにはいられず何もかもを癒し浄化してくれるはずのえも言われぬこの上ない至上至福至言至高の階段の淫蕩な軋みも、我々を慰めてはくれないのだった。
ナオヨシが死んだ無に帰したとどうしても思えないのは我々三人が三位一体だからで、その三位一体の我々のうちの一人が欠けるなどということは絶対にありえないとの確信があるためで、それは我々がまさに三位一体だからであり、もし仮にナオヨシが死んだと仮定してみるなら私もトモヨシもともに同時に死に見舞われているはずで、なぜならそれこそが三位一体の三位一体たるユエンだからでそうでなければただの仲よし宇宙人三人組トリオというだけで真の三位一体とは到底いえず、我々二人がいまなおこの世界に確固たる存在として実存しているつまり生きているということはとりも直さずナオヨシが生きているということの証拠であり証明であるはずで、そうであればこそ我々はナオヨシの許に行かねばならないしナオヨシもそれを待ち望んでいるはずだと、闇に消えたナオヨシ氏を追って下へと下りて行くことを告げる金星人のトモヨシ氏と水星人のシゲヨシ氏の二人に悲しみの色はなく、その二人を見送くるため遅い朝食を強力に糸を引く納豆とらっきょうで済ませたあと部屋を掃除し取り片づけ、四人打ち連れて部屋を出て踊り場に立って足の移動と体重移動とが同時で着地のときに力が加わってしまうために上るときとはまた違う、一種異様ではあるものの変な趣きがあってそれはそれで悪くはない響きで鳴り渡る階段の軋みを聴きながらゆっくりとゆっくりと下に下りていく二人の姿が闇に溶け込んで見えなくなるまで春信と二人見つめていたが、本当ならその足で私と聡志の二人は下降していった金星人のトモヨシ氏と水星人のシゲヨシ氏の二人と反対に上へと行くはずだったのが、すぐにも出発という気にどうしてもなれず、しばらく部屋にとどまってなすことなく過ごしていたのは朝食の納豆の粘性に引きとめられたというのではなく、愉楽をしか齎さないはずの階段の軋みに違和感というか何か痼りのようなものを感じたからで、上り始めてすぐ不審に思って後ろにいる春信を見返ると春信も同様にそれを感じているらしく、訝しげに私を見返して「お前もか?」と言うので「ああ」と頷いてふと顔を上げて階段の奥の闇を窺うと、その闇が急に何か悪意を持って近づいてくるような気がして息の詰まるような苦しさを覚えるとともに背筋を悪寒が走り抜け、動物的感とでもいうのか何か本能的に身の危険を感じて階段を上っていて初めて怖いと思い、一瞬階段を宙に舞う自分の姿が浮かんできて更に一層恐怖が高まって急いで踊り場まで上って部屋に避難したものの今までこのような事態に陥ったことなど一度としてなく、どう対処していいのやらまるで分からなかったが、別に先を急ぐ必要など少しもないのでしばらく様子を見ようということになり、とりあえずは落ち着こうと春信がお茶を入れに掛かり、何かないかと私が冷蔵庫を開けて探るとよく熟れていそうなメロンが一個あったのでそれを半分に切って種を取りだして春信と半分ずつその半切れの熟れたメロンを食べ、春信と二人きり、踊り場の四畳半で無為に過ごしているうちにそのあまりの無為さ加減に今まで見たもの聴いたもの感じたものが総て夢の中の出来事で、相姦姉弟も宇宙人三人組トリオも夢の中の登場人物で実際には存在していないような気がしてき、そう思うとそれは階段にまで波及して実は階段など端から存在しておらず、それは今ゆっくりと咀嚼して唾液とともに嚥下する汁気たっぷりの熟れたメロンの甘味による僅か一、二秒の間の幻想妄想ではないのかとまで思え、ドア一枚を隔てた向こうが果てしのない無限の階段だということすら嘘のように思え、狭々しい四畳半の部屋を眺めていると誰からも見放されてただの一人も宿泊客のいない、と言って隠れた名泉などでは決してない名も知れぬどこかの寂れた湯治場にでも来ているかのような錯覚に囚われて益々この階段の存在が薄れていく気がするが、仮に存在しているとしてもそれは私の頭の中に脳の奥襞に刻まれてあるもので、そしてそれが刻み込まれたのはあの青々しい月夜の夜半の腐れ青床板杉に敷いた赤緑青白黄色のビニールシートの上の青眠りの中においてのことと当然推測され、更には今も尚その青々しい月夜の夜半の青夢の中を私は逍遥していてここはこの世界は十歳の私が階段のとば口で階段には一歩も足を踏み入れることなく見ている、いや見せられているのかもしれない夢の中夢の世界なのではないかとまで思えてきて遂には私自身の存在さえ疑わしく思えてくるが、そのような他愛もない児戯的な夢想をなかば楽しみつつ過ごしもしていたがあまりにも階段の存在が希薄に感じられるようになるとそれはそれでまた気味が悪く不安にも思い、時々ドアを開けてそこに紛れもなく上下を闇に包まれた果てしない階段があるのを確認して安堵し、また湯治場の錯覚に青月夜の夜半の夢にどっぶりと浸るのだったが、幸い何事もなく時は過ぎて三日ほどしてどうやら取り越し苦労だったようだと二人とも安心し、思いきり踏板を踏んで軋みを立てて安全を確認すると、階段はギシギシと宇宙人三人組トリオの奏でる軋みも是くやと思えるほどのえも言われぬ心地よい音で鳴り響き渡り、その三日振りに聴く軋みは甘美な振動となってビリビリと体に浸透し反響して思う存分それを堪能しつつ「大丈夫、いい音だ」と頷き合い、この愉楽を陶酔を痺れを愉しまずにいられるかと早速支度を調えてギシギシギシギシと上り始めるが、そのたった三日間の気保養に気が弛んでしまったのかなぜか二人の息が合わず妙な具合でちぐはぐな音しか出せず、そのちぐはぐな軋み具合が不快というほどではないものの何かしっくりとせず、既製品に体の方を無理やり合わせているようで妙に居心地が悪く胃の辺りがムズムズとムズ痒く、何とか息を合わせようと掛け声を掛けたりなどしてあれこれ試みるがどうしても歩調が合わず、次の踊り場まで上るのが精一杯でそれ以上上に行くことはどうしてもできず、「何か変だな」と二人で首を傾げつつ坐りの悪い椅子に腰掛けているようなその精神の不安定の処置に困じ果て、菓子でも食べるより他ないと用意した芋羊羹二切れとお茶を前にして面突き合わせて卓袱台に対座し、原因は何かとその外的要因から内的要因まで指折り数え上げてあれこれ話し合うのに夢中で芋羊羹にもお茶にも手をつけずにいたので、そのうちお茶も冷め芋羊羹も硬くなってしまってふとそれに気づいて慌てて口に運びつつ更に話し合いは続いたが、原因らしい原因は見つからず全く検討もつかないので対策の立てようすらなく、進退極まったと困り果てているところへミシミシと何かが階段を軋ませる音をさせて上ってくるのが仄聞こえ、誰かと思って二人して耳を澄まして聴いていると次第にその気配は濃厚になってそれが最大になったとき、つまり丁度私たちのいる部屋の前まで軋みが来るとそこで軋みはピタと鳴り止んでしばらく鳴りを潜めていたかと思うとコンコンとしずかにドアを叩く音がしてつづいてその音に被せるように「すみません、誰かおられますか」とやはりしずかに声がかかるが、「おられますか」と言うわりにはほとんど確信を込めてこの部屋の前で立ち止まり、居るのは分かっているとばかりにノックするのに聊か不審を感じるとともに不安の種子が根づき息づいているのも感じ、そのうちその種子からもしや追手ではという芽が吹きだして警察権力の強力捜査網がいよいよこの階段にまでのびてきたのかという疑念が沸々と湧いて出てきて抑えようもなく全身に広がっていき、出たものかどうか躊躇しているといやに間延びした声で「はいい」と言って横合いから聡志がムクリと無造作に立ちかかるその様があまりに無防備で無警戒に思えたのでそれを手で制すが、「いやおれが出る」と言うより早く聡志はスルリとその手をすり抜けかい潜ってドアの前に立って覗き穴から外を窺うと、魚眼レンズの向こうに見えるのは踊り場の向かいの部屋のドアとその前に拡がる何もないゆがんだ空間だけでそこには誰もいないので訝しみつつも「おられますか」の声は確かにこの耳で聞いたし軋みが鳴り響いていたのも間違いないので来訪者の存在は疑うべくもないと確信してギギギと軋む音もしないほどゆっくりドアを開けるがやはりそこには誰もいず、おかしいと思ってドアを閉め掛かると足元から「ここですここですここですよ」と声がするので顔を下向けると、そこには一匹の柴犬がチョコンと坐って妙に畏まった顔をして私を見上げており、私が声も出せずに立ち竦んでいると「驚くのも無理はないですけど、まあこれが現実というものでして」とすまし顔で言ってニヤリと笑うのだったが、犬が笑うというのはおかしいと思うものの私には笑ったように見え、しかもこっちの連想思い込みでそう見えたという類いのものではなくどう見ても皮肉っぽい笑いとしか見えず、だからその柴犬は笑ったに違いなく、その笑いに更に驚き呆れて声もなく佇んでいると背後から、それもすぐ耳の後ろで「何だ、どうした?」と春信の声が掛かって肩越しに表を覗き込んで眼の前に行儀よくチョコンと坐っている柴犬を見て「何だ犬か」と安堵したような口振りで言うので、「ただの犬じゃない」と私がこの柴犬の不可解な笑いを説明し掛けてどう説明したものか逡巡しているとそれを制して「犬は犬だろう」と見下すようにその行儀よくチョコンと坐っている柴犬を見て言うその春信の言葉に柴犬は些か腹を立てたらしく、というより一瞬その顔が不興げにゆがんだのをそう恣意的に解釈したということだが、柴犬はそのように不興げに顔をゆがめたもののすぐに元の穏和な顔つきに戻り、平静を装って冷静で控えめな口振りで淡々と「確かに犬は犬ですけど」と言い、一呼吸おいて「でも普通の犬は喋りませんよ」と言うその言葉を聞いて初めてその柴犬が喋っているということに気づき、さっき柴犬が笑ったことに驚いた以上に驚いて春信を見返ると、春信はそれほど驚いたという顔もせず、「ここで何が起きても不思議はないさ」とさらりと言ってのけ、確かにそうかもしれないが人語を解する犬などというのは前代未聞で想像を絶することで何かの間違いだ夢でも見ているのに違いないあるいは幻覚かもしれないと私が言うと、「でも現にここにいるじゃないか」と眼の前に行儀よくチョコンと坐っている柴犬を指差して春信は言い、何の疑いもなく喋る犬を認めてしまっているようで、やはり控えめな口調で「お邪魔してもよろしいですか?」と訊く柴犬に「どうぞどうぞ、狭いですけど」と春信は言って柴犬を招じ入れ、「牛乳如何がです?」と言いつつ冷蔵庫を開けて未開封の紙パック五〇〇ml牛乳を取りだして「温っためます? それとも冷やで?」と訊き、柴犬の「そのままで結構です」との答えになみなみと深皿に注いで出すと、「どうもすみません」と柴犬はペコリとひとつ頭を下げると「頂きます」と言ってピチャピチャと音をさせながら牛乳を嘗め、その美味しそうに牛乳を嘗め飲む柴犬の姿を春信は親しみ込めた笑みを浮かべて満足げに眺めているのだったが、紙パック五〇〇ml牛乳をなみなみ注いだ深皿をこぼさないよう慎重に柴犬の前に置いたときにマジマジとその柴犬を間近で眺めやった瞬間なぜか分からないがシゲヨシと思って思わず口に出して呼びかけそうになったが、それは似ていたからというのではなくて似ているどころかうちのシゲヨシはガタイも大きく毛足も長いし何よりスラリ鼻筋の通った近所でも評判の美男子で、すれ違う誰もがうちのシゲヨシのその颯爽と歩みを運ぶ姿に見惚れないことはないというほどで、それにうちのシゲヨシは柴犬ではなかったのでとても似ているとは言えないほど両者の外貌はかけ離れていて間違えることなどありえないのだが、見ているとその挙措がその醸しだす雰囲気がうちのシゲヨシの雑種であることの卑屈さなど微塵も感じさせない毅然とした所に酷似しているためかどうかするとうちのシゲヨシに見えてしまい、うちのシゲヨシの再来再臨ではないかと思わないわけにはいかず、その外貌の懸隔乖離にも関わらず見れば見るほどその思いは拡大強化されてついにはそうに違いないそれに極まったとひとり頷きほくそ笑んで下へも置かぬ持て成しを受けるに及び、気恥ずかしさと嬉しさとが交々湧出する中にも僅少の不審と不安が混入してもいるのを見逃さず警戒を怠ることがないのは、長い間野良生活を余儀なくされて拭いようもなく染み着いてしまった落としても落としきれない垢のようなもので本性の野生の顕れとも言えるのだった。