友方=Hの垂れ流し ホーム

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十八段

雌雄番関係にある生物の生物学的雌と言われる方ではなく生物学的雄と言われる方の所謂男親父親パパ父さん親父旦那宿六等々それぞれ微妙に異なる意味内容の様々な呼称を所有していて極めて一般化しにくい概念体系を形成している私と言う存在を形作っている遺伝子の提供者の片割れの父と言うものを知らずにそれでも私はすくすくと育ったが、父は居なくとも母が居たし父の変わりともなる飼い主一家の家長坂道父さんを筆頭にその妻美里母さん長男尚義兄ちゃん長女美芳ちゃんの四人が居て絶えずその内の誰かが私の側仕えとして控えていて何くれとなく用を弁じてくれたので何不自由ないお大臣の生活で幸福この上なく父の不在に些かの負い目も引け目も感じる事なく生きてきたが、それも私が人語を発するまでの一年にも満たないごく僅かな年月期間の間の事に過ぎず、食卓のある座敷の美里母さんの座蒲団脇に横座りになって逐次起き出してくる家人に何の気なしに「お早う御座います」と言っただけなのだが皆一様に驚きその寝起きの浮腫んだ顔を凝固させるもののすぐにそれを気のせい寝惚けのせいにして洗面所へ洗顔に行って戻ってくると驚きは水で洗い流してしまったらしくスッキリサッパリとした顔付きで、暫くして朝食となって「戴きます」と言って私は食べ始めるが箸の音食器の触れ合う音咀嚼する音が何一つせず会話すらないのを訝しく思ってふと顔を上げると皆一様に絶句し凝固して私を眺めており、「えっ、何か?」と私が言うと皆の凝固した顔が一瞬にして蒼白となり恐怖をすら顕したのに些か不安を感じて「冗談は止して下さいよ」と言うが笑顔は返ってこず更にも蒼白となり、以後私が何か言う度一家四人の私を見るその眼差しが慈愛深遠なものから少しずつ変化し始め、次第に薄気味悪がられて疎んじ遠ざけられる様になって遂には相手にもされなくなってしまい、その変化に狼狽え焦慮して追い縋れば愈々益々忌み嫌われて家族の中で最も親しい関係にあった長女美芳ちゃんにまで「あっち行ってよもう」とあからさまに言われて遂にいたたまれずに家を飛び出したのだったが、飼い犬として生まれて過保護に育った柔な私に世間の風当たりはあまりにも強く、いや強いなどと言うものではなく地獄に吹き渡る風はこうもあろうかと思う程凄まじい強風烈風の渦巻き轟きに感じ、今から思えば誇大表現も甚だしく実際はそれ程ではなかったとも思うのだが世間知らずの金持ちの坊々並みに温室育ちの私の柔肌にはその様にしか思えず、保健所の野犬捕獲の網に何度懸かりそうになったか知れないし武勇伝とまでは言わないがその保健所の職員と壮絶な死闘を繰り広げた事もなくはなく、何度野垂れ死にしそうになったか知れないが、そこは飼い犬として培った人懐っこさや柴犬似と言う事が幸いして食べ物を恵んでくれそうな人を嗅覚で探し出して尻尾を振って近付き擦り寄ってその周りを跳ね廻って戯けてみせたりすれば大概何か食べる物を恵んでもらえ、それで何とか飢えを凌ぎ喉を潤したのだったが、しかし逆にその人懐っこさが災いする事もなくはなく、相手がうら若い女性なら尚更その落差は激甚で体中を撫で廻されるのに喜悦し興奮して半勃起状態になってそれに浸っていると、あれやこれや話し掛けてくるのについポロリと人語で答えてしまい、声を発したあとに気付いても既に遅く、恐る恐る相手を見上げると顔面が凝固しているのが判り、それに驚いて逃げるだけなら別に体した実害もなく、ただ少しばかりの寂寞を味わうだけで済むが、急に歯を剥き出して蹴り掛かってきたり「何この犬喋ってる嘘信じらんない気色悪い」と汚物をでも見るように私を見たり傍らに落ちている石や棒っ切れなど掴んで投げ付けたり殴り掛かってきたりしてその隠された凶暴性を発揮する人も意外と多く、最初は生傷が絶えなかったが、その内上手く立ち廻れる様になってその身に凶暴性を内在させていることが朧ろ気ながら察知できる様にもなるとその様な事もなくなって食べることにはあまり困らなくなったと座蒲団の上に妙に畏まってチョコンと坐った柴犬、いや柴犬似の雑種の犬は言って、徐ろに右の後足を持ち上げて首の辺りを掻き毟って気持ち良さそうに眼を細めるが、そんなところはどこにでもいる何の変哲もない犬の仕種と変わりなく、とても巧みに人語を操ることのできる類い稀な恐らく世界でも唯一の存在だろう珍犬中の珍犬とは思えず、今聞いたばかりの話も空耳だったのではないか、人恋しさが災いして一瞬のうちに創り上げた妄想ではないかと思えるほどその首筋を掻き毟る仕種は愛くるしくて思わず頭を撫でたくなって手を伸ばし掛けるが、それを感じ取ったのか柴犬似の雑種の犬は威儀を正してゲホッとひとつ咳払いをしてまた話し始めるので、なかば宙に浮いているその手の行き場を失ってどうしようかと迷ったが、咄嗟に方向転換して卓袱台の方に伸ばしてそこにある私の湯飲み茶碗を、さも最初からそれが目当てだったという素振りで鷲掴み取って口に持ってきたものの中味はすでに空っぽで虚しく卓袱台に戻したのを柴犬似の雑種の犬がチラリと横眼で見てニヤリと笑ったような気がし、ほんの一瞬時間が止まって部屋に立ち籠める杉の香りを少しだけ弱めたが、それを明確に意識しているのは私だけだった。

脊髄内の神経繊維束を貫き走る弱電流をビリビリと感じてうち震えずにはいられないほどのそのえも言われぬ軋みの余韻の最後の一音までも聴き漏らすまいと耳を欹ててその軋みの豊麗な響きに喜悦し陶酔して心地よい疲労を感じつつ上気した体を休めるために踊り場の部屋に入るが、部屋に入るとまず上がってすぐ左手のなよやかな姿態を仄輝かせている冷蔵庫の前に立ち扉を開けて中に何が入っているか確認してその日の食事の献立を考えるというのが常で、このときも冷蔵庫の中味はすでに確認済みのため、そこにドッグフードその他のペット愛玩動物用の食品類などないと分かってはいたが一応と思って冷蔵庫の扉を開けて見てみると、そこにはさっき見たときには確かになかったはずのドッグフードがきちんと並べられており、しかも柴犬似の雑種の犬の指定した種類のものはもちろんその他幾種類ものドッグフードやペット愛玩動物用の様々な食品類がズラリ並んでいるが、抑も行く先々で生鮮食料品その他前日の残り物や読みさしのまま置き忘れてしまった雑誌書籍漫画本の類いまでもが訪れた踊り場の部屋にそっくり用意されていること自体がすでに不自然極まりなく理解不能で驚くべきことなのだが、長い階段生活に馴らされているため驚きもせずごく当たり前のことのように柴犬似の雑種の犬指定のドッグフードを綺麗に皿に盛って程よく温っためた牛乳とともに柴犬似の雑種の犬に出すと、巧みに人語を操るとは言え身体的構造は犬なのでその柔らかなピンク色の肉球で箸を持つことはさすがに不可能らしく、やはり何の変哲もない犬に変貌して犬らしく行儀よく犬食いするのだが、話すときの犬らしからぬ聡明な顔つきや控えめだが堅牢で威厳すら感じる口振りとのギャップにはなかなか馴れず、あっという間にうち解けてしまっている春信のようには距離感がうまく掴めず、人並みに扱えばいいのか犬並みに扱えばいいのか分からなくてその対応に困り柴犬似の雑種の犬と春信とのテンポよい流れるような会話に入ることができずにいるが、そんな私を柴犬似の雑種の犬は「そのうち馴れますよ」と慰めてくれるものの犬に慰められるということにやはり戸惑いを感じて引き攣ったような不自然な笑みを返すのがやっとで、その困惑して泛べる引き攣った様な笑みが返ってくるのを見て自身の奇矯さ醜怪さに改めて思い至って嘗て同じ様な顔付き眼付きで私を上目見横目見盗み見た飼い主一家四人の姿がサトシ氏の顔付き眼付きにダブって見えてしまい、それを払拭することがなかなか出来ずに居るが、その事でサトシ氏を非難讒謗する心算は毛頭なく、言葉を話す犬や猫と言う話は好く耳にするしそれを主張し吹聴する輩も世に溢れる程居るだろうが、その大半は眉唾で飼い主が我がペットを溺愛するあまりの思い込みに過ぎないものだと言う事を世間は知っているから別段それを驚きも怖れもしないしマスコミにしてもそれを承知の上でその飼い主の間抜け振り間抜け面を嘲笑するために取材報道するのであり、私の様に本当に人間の言語による人間との意思の疎通が可能になると、それに対する人間の反応はそれまでの好もしいものから一八◯度転じて何か不気味なものをでも見る様に避ける様になり、私が幾ら尻尾を振ってじゃれつき戯けて見せてもどれ程服従の態度で桃白い柔腹を曝してみてもヘラヘラした笑顔を作って後退りし、更に近寄ると忙しいとか何とか理由にもならない理由を取り繕って逃げようとし、更にもっと近付くと逆上して攻撃性を顕にするか恐怖して虚脱するかして、あるが儘の私を許容し受容しようなどとは決してしない、いや出来ないらしく、その様な事態場面状況に遭遇する度に自身の奇矯さ醜怪さを悲しみもし、呪いもし、怒りもし、嘗ては自らを亡き者にしようと本気で思ったりもしたものだが、幸いにもと言うか不幸にもと言うか、何時も瀬戸際の所で何も死ぬ事はない、死は敗北だ、いや生も死も勝敗とは無縁の、いや一切の価値判断からすら無縁のものだと思い留まるのだったが、飼い主一家四人のヘラヘラ笑いにはどうにも我慢がならず、彼らにして見ればそうする事が己の自我の崩壊を回避するための苦肉の策でもあろうと善意に解釈しては見るもののそれでも私には我慢ならず、遂に耐え兼ね怺え切れずに老いた母を一匹残して母には何も告げずに家を飛び出してしまったのだと、食事が済んで座蒲団に四肢を投げだしてその薄桃色の柔らかく艶やかで針で突つけばパチンと弾けそうな肉球を覗かせて寝転がった恰好で淡々とうちのシゲヨシの再来再臨の柴犬似の雑種の犬は語るが、座が暗く沈んでしまったのを気にしてか「すみません、つまらない話をしてしまって」と殊更明るさを装って弁解し、「どうです? 一上り上って一汗掻きませんか?」と誘ったものの二人共そんな余力は何処にも残って居ないと、中年に差し掛かってめっきり締まりがなくなってぼってりと丸く突き出た麦酒腹を自慢気にも照れ臭そうにも見えるハッキリしない態度で見せて太鼓の様にポポンと叩いて断わったので、「それでは一寸失礼して一上りしてきます」と言い置いて私一匹部屋を出て、前後を闇に包まれた階段をギシミシギシミシと軋ませながら暫く上ったり下りたりの往復運動を繰り返して運動して戻ると、二人共私の立てる軋みに耳欹てていたらしく、私の四本の脚の立てる独特のリズムは格別で人間には出せない音だと褒めてくれ、「いい音を聞かせて貰った」と感謝されて些か気恥ずかしく思いはしたもののその軋みのお陰でどうやら先程の自ら播いた重苦しい雰囲気は払拭出来た様で部屋には濃密な杉の香りが満ちているので安堵し、何の蟠りもなく床に就き眠りに就くことが出来ると寝床に横になるが、翌日二人と一匹で階段を上って実際に間近にすぐ眼の前で鳴っているその音を耳にしても、やはり柴犬似の雑種の犬の立てる軋みが最もいい音色をしており、それに較べると私の軋みも春信の軋みも僅かだが不快な夾雑音が混入していて一段落ちると言わざるを得ず、何が違うのかと先頭を行く柴犬似の雑種の犬の立てる小振りだが豊麗で滋味深い軋みに聴き惚れながら考えると、二本足の人間にはおよそ真似のできないその四本の脚を巧みに繰りだして生みだす絶妙精緻なリズムもさることながらやはりその肉球の柔らかさが二本足の奏でる軋みとの本質的差異の源泉に違いなく、その四つの肉球の程よい弾力が夾雑音を生じさせないのに違いなく、従って私たちも靴を靴下を脱ぎ捨て裸足になってその裸足の十本の足指で直に踏板を踏み鳴らせばまた違う軋みを聴くことも可能だろうが、私も聡志もそれを分かっていながらそこまでする気にならないのは、一段落ちるとは言え私の立てる軋みも聡志の立てる軋みもそれ自身はけして不快なものではなく至言至妙に響き渡って十分聴くに耐え得るものなのでわざわざ靴を脱ぐまでもないと思っているからだし、ましてや裸足を野蛮だとか不潔だとか思っているわけではさらさらないが現代人の軟弱な足裏に靴履物は必需の品で靴履物なしの生活など考えられないからで、それに刺でも刺さって立ち往生というのも困るので靴も靴下も脱ぐことはないのだった。

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