友方=Hの垂れ流し ホーム

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確たる解答がないゆえにこの問いもまた自己に還ってきて返答を迫るのだったが、返答できないための問いなのだから返答できるはずもなく、それではしかし気が納まらず、ない知恵を絞って強引に捻りだそうとする。加える生クリームの量を判断基準にできないとすれば、ムース=泡ということを手掛かりにしてより軽く仕上がるメレンゲを加えるか否かで区別するのが無難でとりあえずそうするより他ないと渉は結論するが、しかしどこか釈然とせず蟠りが残るのも事実で、三縄田架道橋に差し掛かって周囲の音一切を無に帰すほどの凄まじい轟音を発しながら京急の真紅の車輛が走り過ぎるその下を轟音を全身に浴びつつ渉が潜り抜けていると、不意に左斜め後方三〇センチ辺りから「お前のふやけたおつむでいくら考えたって何も出てきゃしない」という声がし、いるわけがないのは分かっているもののつい身構えつつ振り返り見てしまう。振り向けた視線の戻し際にその巨体を横に揺らしながら億劫げに歩く稔が一瞬見えたような気がし、電車が通過したあとの白けたような静寂の不気味さがその存在を浮き彫りにするようにも思え、逃げるように渉は早足になる。しかしその存在の根源的部分を渉自身が担っているため本質的に逃走が不可能だということは渉も承知しているのだが、そうかといって目の当たり目にし耳にして鷹揚に構えていられるほど図太い神経を持ち合わせてもいないので逃げるより他なく、それでも雑踏に紛れることでいくらかは胡麻化すことができるのだった。

中華料理屋『發來』とスーパー『エコー』との間に出る幅約一メートルの路地を抜けて京急井土ヶ谷駅前の横断歩道を渡り、左方京急土手下の駐輪場を掠めてマルエツ井土ヶ谷店ファッション・リカー&デリカ館内を渉は通過していく。書店に劣らずつい長居してしまうのを怺えて目的物のみ念頭において続くフーズ館に入っていくが、眼前の食品を前にすると途端にその思いは排撃せられて陳列されている品々を丹念に物色してしまう。初っ端から果実類の混合臭に充てられエクアドル産バナナにラ・フランスにふじにジョナ・ゴールドに女峰に豊の香にカリフォルニアオレンジにグレープフルーツにアボカドにキウイに眼眩み足を掬われ、ひとつひとつ手に取り匂いを嗅がずにはいられない。出入口左手壁面に積まれてあるエクアドル産バナナに真面に直射日光が当たっているのが何か蔑ろにされているようで些か気にはなるものの振り切って直進して突き当たりの角を渉は右に曲がり、生臭い臭いが鼻を突くとともに眼前に広がる鮮魚類には目も呉れずすぐに右に曲がる。丹波産の大納言で作ったつぶし餡を惜しげもなく使って餡パンを作ってみたいと思っていた渉は乾燥豆類の棚前でふと足を止め、逡巡したのち意を決してその一袋を籠に入れたのだったが、不意に「お前なんかに何ができんだよ」と声がし、しかもさっきよりも間近に接近していてその息の掛かるのを肌に感じ饐えたような臭いを鼻粘膜に感じもし、反射的に身構えてしまう。BGMと周囲の雑音にその声が紛れて掻き消されると邪悪な気配も徐々に失せていくが、その失せ際に微かだが「ヘッヒー」が響いて耳朶まで届き、今我が身の内にあった決意がその「ヘッヒー」に消し飛ばされて結局無難に北海道産大納言小豆を籠に納めたのだった。甘いものを見れば口に入れずにはいられない稔はその目につくところ鼻につくところに菓子があれば必ず食べるし満腹でもとりあえず口に放り込む。ブクブクと醜く肥え太っているのはそのためだが、その菓子の殆どが渉の手になるものなので「不味っ不味っ」としかも聞こえよがしに言いながら食べるのが常で、ベンチタイム中の食パン生地を「餡饅かと思って」食べたのもだからなかば意図的なのだった。その分厚い脂肪には悪意がゴッソリ溜め込まれており、稔が歩けばその脂肪が一揺れし、一揺れするたびに「お前は家畜なんだよ、分かるか家畜、しかも役立たずの」だの「少しゃ役に立つことしろよ」だの「社会の屑だな」だの「さっさと死んだほうがいい」だの「無能者は死ね」だのが尽きることなく滲出するのだった。蠅のように小煩く飛び交うそれら嘲りをその都度うち払いつつ渉は味噌海苔砂糖胡麻乾物類の棚を抜けてレジ前に出ると反転して次の調味料香辛料粉類の棚に突入し、鮮魚類にぶち当たって再度反転してパスタ類インスタント麺類に邁進し、更に反転して菓子類の棚、も一度反転して缶詰菓子材料煎餅の棚、更に更に反転してジャム天然水茶コーヒーその他飲料の棚、再度反転してようやく渉は目的の乳製品に至る。まっしぐらにここまで来れば早いのだがこの順路は不動の順路で変更はできないのだった。目的の中沢純生クリームを二〇%増量の二四〇ccではなく通常の二〇〇ccを一パック日付の最も新しいものを選びだし、稔の奇襲に充分配慮しつつ冷気に冷たい紙パックの△部分の突端を摘んで取りだして静かに籠に納める。それでもレジ前に立つまでにグラニュー糖一キロ一袋に北海道産大納言小豆二五〇グラム一袋に洋梨の缶詰四五〇グラムとアプリコットの缶詰四五〇グラムが一缶ずつに栗の甘露煮二〇〇グラム一瓶に無塩バター二〇〇グラム二個が籠に入ってしまっていて、生クリームのみにも拘らず籠を手にしてしまったことが抑もの間違いだったが今更棚に戻すのも気が引けたのでそのままレジに並ぶ。込み合う時間ではないので待つ間もなくすぐに渉の番になり、「いらっしゃいませこんにちはー」と如何にもマニュアル通りという挨拶をするレジ係のその抑揚に乏しい気の抜けた声からは想像もつかないバーコード読み取りの手早い作業を加算されていくデジタル表示画面と交互に、後ろに並ぶ客がいないので慌てることもなくひどくのんびりした気分で、それでも財布を開けて硬貨の種類と枚数とを確認していつでも取りだせるよう待機しつつ渉は茫と眺め、財布に突っ込んだ左手の親指人差し指中指で小銭を掻き廻しながらしかし意識がついさっきの二度に渡る敗北に向かってしまうのは、立て過ぎて分離した生クリームのようなあのボソボソの白い塊が眼前にチラつくからで、その明らかな失敗を思うと何度試みたところで成功する見込みなどあり得ないように思え、いや、今まで成功といえるようなものができたという自覚など渉にはなく、いずれも不完全の出来損ないのお粗末なものばかりで、そのあまりの出来の悪さに渉は呆れる他ないが、負けが込んでいるのはしかし菓子よりもパンのほうで、部分的に失敗しても全体の構成において幾分かは修正の可能性が残されている菓子とは異なり、生き物相手のパンは一発勝負で殆ど修正が利かないため、より熟練した技術と経験とが必要なのだと思いは巡っていく。

そのパン作りにおいて焼成にばかり気がいって生地それ自体の出来具合に眼が向いていないということに気づき且つその重要性を渉が思い知らされたのは、直接的には発酵にえらく時間が掛かったことに端を発しているのだが、それ以前から薄々感づいていることはいたものの焼成だけで手一杯で今一歩突っ込んでいく気力の欠如していたことが原因していたのだった。発酵に時間が掛かるということはイーストの活動が鈍っているということだが、その原因として考えられるのは生地に対してイーストの量が極端に少ないか、その活動の場となる生地が活動に適しない環境か、イースト自身の活きが悪くその大半が死滅している、つまりその消費期限が疾っくに過ぎているか保存状態が悪いかして品質が劣化しているかのいずれかだ。確認した限り消費期限は過ぎてないし密封して冷蔵保存しているため品質の劣化は恐らくないと思うのでこれは真っ先に除外でき、計量を正確にすることで今ひとつの原因も回避できるはずなのだが、イーストの活動活性の鈍さは解消されなかったため、原因は残る一方の生地温度にあると渉は推測する。つまり捏ね上げ温度が極端に低かったためのイースト活性の鈍化らしく、そこで初めて捏ね上げ温度の重要性に渉は気づいたのだが、それまでは比較的気温が高かったのでそこそこ上手い具合にできていたのが気温が摂氏一〇度を下まわるようになって途端に発酵速度が鈍ったのだった。異常を感じた渉が実際に捏ね上がった艶々とした真白い生地にアルコール温度計を突き刺してその温度を測ってみると二〇度ほどにしかなっておらず、食パン生地は二十七度だが捏ね上げ温度の範囲は冷蔵発酵させる生地を除けば二十四〜二十八度なので発酵が遅いのも当然だった。適正な発酵を促すには適正な温度で捏ね上げねばならず、適正な温度で捏ね上げるには気温粉温等を加味したうえで加える水の温度を調節する必要があり、渉にとってそれはチョコレートのテンパリングにおける温度管理に次いで、いや、それ以上に困難なことだった。

その線で試行する他解決の方法はなく、確かその実践として最初に試みたときのことと渉は記憶するが、生地を捏ねるのに使える分厚い台などないので食卓に使用しているテーブルで生地を捏ねるため、パンを作るにはまずテーブル上に日常的に置いてあるメモだの鉛筆だのボールペンだの電卓だの花瓶だのや片づけられずに置いてあるコップだのグラスだの残り物の皿だの小鉢だの湯呑みだの急須だのを総て取り除け、湯沸かし器だけはそれでもどけることがないのはこれだけはいくら衝撃を加えても微動もしないからで、総てをどけたら濡れ布巾で丹念に拭き、それから材料の計量に掛かる。そのグルテン組織を稠密にして生地の伸展性を最大限に引き出すには油脂投入後三〇〇〜五〇〇回生地をテーブルにバシバシと叩きつけねばならず、幸い一軒家なので殆ど隣近所を気に掛けずに思いきり叩きつけることができるが、それでも幾分気にはなるしパン屋ではないので朝っぱらから作ることもなく、ミキシング開始は大抵一〇時か一一時頃だし、早朝から作るとしてもクロワッサンだとか中種を使うものだとかの思いきり叩きつける必要のない生地を作る。餅でも搗いてるのかと言われたことはあるらしいがあからさまな苦情が出たことはないようだった。ただその分稔の妨害は甚だしく、「うっせんだよバカ」の怒声より一瞬早く蹴りが飛んで腰部に強い衝撃が走り、前に突んのめったところに上から拳固が降るのだったが、突んのめってテーブルに突っ伏したときに生地を押し潰してしまって駄目にしたことが幾度あるかしれない。

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