友方=Hの垂れ流し ホーム

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確か総ての洗浄を終えて浴槽をシャワーで流していたときと渉は記憶するが、「俺が入る前に洗うなバカ死ね」という罵りが背後からしたと同時に腰部に強い衝撃を感じ、前方に突んのめって浴槽に頭から突っ込む形で転倒し、手にしていたシャワーの湯を真面に浴びる。一瞬ヘドロの臭いが鼻腔を掠めて蹴落とされた中村川を幻視し、船縁に仁王立って溺れる渉を覗き込んで笑っていた稔の笑いを幻聴し、そのとき笑った笑いと同じ笑いで「ヘッヒー」と稔は笑うと余韻を残して浴室を出ていき、怒りとも嘲笑とも聞こえる軋みを立てて二階に上がっていくが、一方でその軋みを耳にしながらそれら幻視幻臭幻聴に翻弄され、且つ腰部の痛みに加えて転倒したときにぶつけたらしい左肩と左側頭部の痛みに渉は身動き取れずしばらく浴槽で藻掻いていたが、痛みが峠を越してからどうにか浴槽を這い出て濡れた衣服を着替え、後を引く幻視幻臭幻聴を捻じ伏せつつ浴室の洗浄を済ませて昼食の支度をしていると、さっきと同様これ見よがしの軋みを立てて稔が階下に下りてきて浴室で何かゴソゴソやっているようだが、台所の湯の出が極端に悪くなったことで浴槽に湯を張っていることが分かる。外光が弱く薄暗い階段下の廊下を横切って鉤の手に曲がったトイレ横の、大きめの窓に採光が充分で眩しいほどに明るい脱衣場を経て稔のいる浴室に包丁を手にしたまま向かった渉は、勢いよく迸り出て浴室に反響する湯の撥ねる音に紛れて背後から忍び寄り、というより結果忍び寄る形となり、その丸っこい背中目掛けて、いや背中というより腰に近い部分に手にした包丁を下から突き上げる勢いで思いきり突き立てると「グゲ」という低い呻きとともに稔は頽れるがまるで手応えを感じず、不審に思って覗き見ると確かにその背中にはついさっきまで塩漬けの白菜を切っていた包丁が突き立っているのだがどうしたわけか血の一滴も流れてはおらず、血も涙もない稔の体から血が流れないのは至極尤もなことで稔には血はないのだと一瞬思って納得するもののそんなはずはなく、殺られたと見せ掛けて反撃するつもりに違いないと慌ててその包丁を引き抜いて更に二度三度と深々と突き立てるが、分厚い脂肪に阻まれて致命傷に至らないのかいくら抜き刺ししても返り血を浴びることさえなく、滅多突きに突き刺して包丁にベッタリと血糊がついていることを確認してようやく渉は安堵する。床タイルの目地に沿って今も残る黒い血痕はバスマジックリンでは元よりカビキラーでも落ちないので黴よりも質が悪いと渉は思い、そう思った途端に脱衣場で殺気立った気配が沸き立ち、「誰が質が悪いんだよ」と苛ついた声がするが、もちろん誰もいないのを渉は知っている。

バヴァロア・ア・ラ・ヴァニーユ

クレーム・アングレーズ

牛乳──────────84g

ヴァニラ棒───────1/5本

卵黄──────────25g

グラニュー糖──────25g

生クリーム────────115g

板ゼラチン────────2.5g

1 鍋に牛乳、ヴァニラ棒を入れて火に掛けて沸騰したら火から下ろし、ラップを掛けて2〜3分おく。

2 ボールに卵黄、グラニュー糖を入れてホイッパーで白っぽくトロリとした状態になるまで充分にすり混ぜる。

3 1の牛乳を再度火に掛けて沸騰したら火から下ろし、半量を2に加えて丁寧に混ぜ、鍋に戻して再度火に掛け、木箆で攪拌しながら弱火で4〜5分加熱して80度になったら火から下ろし、氷水で戻した板ゼラチンを水気をよく切って加え混ぜて予熱で溶かし、ボールに漉し移して冷ます。

4 別のボールに生クリームを入れてホイッパーで7分立てに泡立ててクレーム・フェテを作り、1/3量を3のアングレーズに加えてホイッパーでしっかりと混ぜ、馴染んだら残りを数回に分けて加えながらゴム箆で掬い上げるようにして混ぜる。

ほつれた髪を束ね直し雑念妄想を交々追い払ってバヴァロア・ア・ラ・ヴァニーユに渉は取り掛かるが、その前に板ゼラチンを冷水で充分にふやかしておく。ベースとなるアングレーズに牛乳とともに炊くヴァニラ棒は切り込みを入れて種を刮げ取り、刮げ取った種を莢とともに鍋に入れる。鍋がスンレス製ならホイッパーを使えるがアルミ鍋だと擦れて黒ずんでしまうので木箆を使う他なく、その分均一に混ざるよう攪拌には細心の注意を払う。ここに七分立てのクレーム・フェテを加え混ぜるが、まず少量を加えて馴染ませてから残りを加え混ぜていく。しっかりと混ざり合ったところでセルクルに流して冷蔵するのだが、セルクルにはまず側面に四センチ幅に切ったビスキュイを巡らし、それから底面に円盤状のビスキュイをピッチリ嵌め込んでシロップをたっぷりと塗り、そこにバヴァロアを流し込む。流し込むとあるのだからトロトロと流れ落ちる状態になるはずで掲載の写真にもそれは明らかだが、クレーム・フェテを加えて一混ぜ二混ぜしただけでそれはみるみる固まっていき、充分に混ざらないうちにボソボソになってしまう。決してバヴァロアではあり得ないボソボソの白い塊の入っているボールの前に渉が虚しく佇んでいると、「何だこりゃ、ヘッヒー食いもんじゃねえな間違いなくヘッヒー」という稔の声がまたしても耳元で嘲り笑い、殺してやるとシンク下の戸袋から包丁を取りだして身構えるが死者を殺すことはできないので苛立ちは倍増し、思わず「死ね」との罵言が口を突くがその矛盾に更にも苛立つのだった。ボソボソの白い塊をゴミ箱に捨ててボールを洗いホイッパーを洗って再度一から作り直す。アングレーズ、クレーム・フェテを作るまではいいが、そのふたつを混ぜる段になってついさっきの失敗に怖じけて恐る恐るクレーム・フェテをアングレーズに混ぜ込んでいくと、そのマイナスイメージが影響してかまたしてもボソボソの塊に固まってしまったのだった。

冷静になって失敗の原因を渉は考えようとするが、背後から「ヘッヒーお前の能力は所詮この程度なんだヘッヒー」と嘲る声がするせいもあってその二度の失敗が稔の仕業のように思えてならず、しかし総てを稔に還元したところで事の本質を見誤るだけだととりあえずそれは度外視する。ゼラチンの量が多かったのか牛乳の量が少なかったのかアングレーズの水分を飛ばし過ぎたのか生クリームの泡立て過ぎかとあらゆるケースを想定してみるとそのいずれもが妥当するように思えてならず、いや、実際いずれも幾分かはその一因を成しているのだろうが、その最たる要因をベースのアングレーズの冷やし過ぎだろうと渉が結論づけたのはクレーム・フェテを加える時点ですでに固まり掛けていたからで、量が少ないだけに冷えるのも早く、生クリームを泡立てている間になかば固まってしまい、クレーム・フェテと合わせてもだから均一に混ざらなかったのだ。レシピ通りのものならあるいはあり得なかっただろう失敗で、出鼻を挫かれたこの打撃は思ったより激しく、以後の作業に微妙に影響し続けることになった。

分量の生クリームをすでに超過して使ってしまったので残量僅かとなり、グラサージュ、デコール用の分に足りるかどうか不安なため新たに一パック買い足すことにした。徒歩一分のコンビニにも生クリームは常備しているものの保存料の添加された賞味期限が何カ月もあるものしかないので往復二十五分掛けて歩いてマルエツ井土ヶ谷店まで行くより他なく、不意の外出ほど渉にとって嫌なものはないが幸い風呂には一昨日入ったばかりなのでそれほど髪もベトついていないしフケも目立つほどではないだろうが、確認のため渉は脱衣場の鏡前に立って一〇センチまで顔近づけて見ると、灰被りとまではいかないが、それでも〇・五〜一ミリ大の白い剥離した皮膚が主に額の生え際付近に点在しているのが確認できる。これではとても無理だと渉がなかば諦め掛けると追い打ち掛けるように稔の声が「うわっ、汚ったね汚ったねえ」と意気を挫かんと喚き立てるが、冷蔵庫内でじっとバヴァロアとの邂逅を待っているビスキュイ・ア・ラ・キュイエールを思うと中途で放棄することなどできるはずもなく、うち続く稔の喚きに打ちのめされそうになるのを渉はぐっと怺えてとにかく最善を尽そうと木柄のブラシを取る。前頭部から頭頂部に続いて後頭部へと慎重にブラシを這わせて梳いていくがブラシの先端が頭皮を擦過すると皮膚が剥離して新たにフケを生じさせてしまい、廃棄と再生産の繰り返しでこれではきりがないと渉はブラシを仕舞う。斯くなるうえはひとつひとつ払い落とすより他ないと指先でパタパタと叩いていくが剥離し掛けている皮膚をそのままにしてすでに剥離した皮膚だけを払い落とすのは至難の業で、叩いてもやはり新たなフケが湧いて出てくるし、脂に被覆された毛髪に付着したフケはそう簡単に払い落とせるものではなく、叩いても叩いてもきりがないので程ほどにしてやさしく撫でつけて辛うじて胡麻化す。スウェットの下だけジーンズに履き替えた渉は財布を後ろポケット右に差し込み玄関の合鍵を前ポケット左に納めて戸締まり確認怠りなく済ますと速効で出掛ける。

道すがらその作業行程をレシピを思い浮かべつつ口中でブツブツ唱えながら反復していてふと気づいたのだが、ベースとなるアングレーズや果実のピュレにゼラチンを加えて七〜八分立てのクレーム・フェテと合わせて冷やし固めるというように、バヴァロアはその製法がムースと殆ど同じなので区別のしようがないということで、手持ちのレシピ本を幾冊か当たってみたがやはりパィシエによってもその分類は異なり、コレといった決定的な判断材料を欠いているのだった。メレンゲの入るものをムース入らないものをバヴァロアと分類しているものもあるが、メレンゲが入らなくてもムースとしているものもある。ムースだろうがバヴァロアだろうがどっちでもいいといってしまえばそれまでだが、ムース一般とバヴァロア一般とを比較するとそこにはやはり厳然とした差異があり、ムースのほうがバヴァロアに較べてより軽い仕上がりだということは確かなので一緒くたにはできず、然りとて明確な分類がなされているわけでもない。かつては厳然と区別されていたらしいが軽く仕上げる傾向にある近年、加える生クリームの量が増加してその境界が曖昧になっているらしいのだった。かかる曖昧性は偏に業界の怠慢とも思うが時代とともに変転して固定化できないのは自明だし、それぞれ一家言持っているパィシエに統一見解を求めるのも無理な話だが、素人にしてみればそれはしかし混乱の許でしかなく、何某かの確乎たる地盤を欲するのもまた自明なのだった。

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