友方=Hの垂れ流し ホーム

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ゆっくりとボックスを出るとコルトレーン擬きのおっさんは咳払いをひとつしてから一言「残念でした」と言ってソプラノの音色でカラカラと笑い、その茣蓙だか筵だかは綺麗に丸めて小脇に抱えられているが微かにカビ臭い臭いが漂っているのでバサリ一振りやったに違いなく、よっぽど殴ってやろうかと思ったが思う壺だと怺えていれば、「兄貴やったみたいにやりゃいいじゃん、我慢するこたないぜ」と挑発するように言い、「でも何で殺っちまったんだ? なんか怨みでもあったのか? ひどいことされたのか?」と執念く訊いてくるが、その存在それ自体に憎悪を感じ続けていたことは確かだがそれが実際に殺意にまで高じていたということはないと思うし以前から計画していたわけでもなく、総ては妄想内の出来事で小心者の細やかな愉楽に過ぎず、そんなことより有隣堂だと「関係ないでしょあなたには」と言い捨てて足を早めて先を急いで政治経済には目もくれずに上階へと向かうのだったが、キュキュッと小気味好い音でゴム底を響かせて床を蹴り上げて一段目を上がって二段目に置いた左足に体重を移動させつつ大腿筋を収縮させたところで筋肉がピリピリと痺れむず痒くなり、以後一段上がる度に大腿筋が引き攣れそうになって上階が遙か彼方に遠退いていくが、今さら日頃の運動不足を嘆いてもはじまらず帰ったら足が攣ることは必至だと観念しつつもとにかく上の階を目指して足を繰りだして何とか四階に辿り着く。一階二階三階が混雑しているときでも四階が比較的静かなのはコンピュータ、写真、美術、生物、理工学、数学、建築、医学と専門的なものを中心としているためだろうが、そのため階段付近は集客力のあるコンピュータ関連の書冊で飾られてはいるものの、その底流に漂っている静けさと張りつめた空気にある種の緊張を強いる図書館染みた雰囲気を感じざるを得ないしその店員の態度さえ一階レジで忙しく立ち働く若い店員と違ってどこか近寄りがたい厳格さが漂っているように思えなくもなく、だから自然歩みも遅くなるし靴音も立てないようにと気遣ってしまうのだが、それはそれで極点に達しつつある疲労によって綻び掛けた気の緩みを引き締め直すことにもなるし上階へ繋ぐ息継ぎにもなるので重宝している。

この階での主な探索の対象はそのコンピュータ関連の著書で、そのついでに昆虫・植物図鑑の煌びやかな写真に惹かれて生物学に行くことも稀にあるが数学理工学の専門書は眺めることはあっても手に取ることはなく、レジが独立しているとはいえ明確な仕切りがあるわけではないし棚も連続しているのだが最奥の医学書のコーナーには一度しか足を踏み入れたことがなく、何とはなしに覗いただけだが何か場違いな感じがして居たたまれず早々に撤退したのだったが、その割に女性客ばかりの製菓器具店には何時間居続けても滑稽に思うことはあっても違和を感じることがないのを不思議に思いつつ今日は買おう買うぞ買うぞと静まり返ったフロアを勢い込んで静かに突き進んで目指すアプリの解説本を幾冊か見るものの、パラパラと頁を捲っているとなぜか通り一遍のことしか記述されていないように思えて求めている情報があるようには思えず次第に買う気が失せていき、かといってアプリの機能を十全に活用し得ているとも思えず、何某かの解説本の必要を感じていることに変わりはないのだがその要望に応えてくれるものがないのも事実で、これだけ大量に書籍があるにも拘らず求めるものがないという状況はパン作り菓子作りのレシピ本においても同様で、これぞというものは高額の専門書だし廉価なものは食い足りず複数の著書での重複もあってこれという一冊を選びきれずに今に至るまで買いそびれ続けているため基本的な部分での情報が欠落していてそれが思わぬ失敗を生むことにもなるのだった。食パンについで失敗が多いというか出来不出来の振幅が大きく満足度の低いのがフィユタージュで、バターが固くて生地ばかりが伸びてしまったり、いくら折り返してもバターがごつごつと塊のままいつまでも残っていたり、バターが溶けないよう手早く伸ばそうと体重を掛けて強く押せば生地と混ざってしまったり生地が破けて脇からバターが飛びだしたり、伸ばしているうちに麺棒や台にベタベタとくっついてしまったり、焼けば焼いたで生だったり焼きすぎたり粉っぽかったり均等に焼けなかったりと挙げればきりがなく、とくに夏場は麺棒、台、打ち粉を悉く冷やしていても生地はすぐにダレて触るそばから溶けてきて甚だ扱いにくいし、一度うまくいったからといって次もうまくいくとは限らず、前回の不備に気を配るあまり他のところに眼がいかず思わぬところで失敗をくり返すのだった。ラング・ド・シャにしても指定通りに焼いたところで水分が抜け切れず噛んだときにねちっとしてサクサクした食感にはどうしてもならず、といって長く焼けば縁が焦げてくるのだったが、レシピには一八〇度で十二〜十三分とか一七〇度で十七〜十八分とか縁が薄く色づくまでだとか簡略に明記されているだけで最終的判断は作り手自身がなさなければならないということなのだがその見極めが並大抵ではなく、それが風味を食感を口溶けを大きく左右するのだった。

最も不可解なのはどの本にも煎餅のレシピが掲載されていないということで、饅頭大福団子羊羹煉切等のあらゆるヴァリアントが掲載されてはいても煎餅だけはそこから除外されているのがなぜなのか分からず、掲載するまでもないほどに簡単なのかと作ろうとしたものの団子の要領で上新粉を蒸して平たく丸めるまではいいのだがそれを干す段になって天日に干すのか陰干しなのか何日干すのかが分からず、とりあえず様子を見ながら天日に干していたが反っくり返ってくるし罅割れてくるしでどうにもならず、焼くにしても火加減が分からず、ただ小忠実にひっくり返すということだけは知っていたのだがいくら焼いても生地内の気泡が膨張してくる気配はなく辛うじて表面が膨れる程度で噛み切れないほど固くてとても煎餅と言える代物ではなく、その原因が生地そのものにあったのか焼き方にあったのかその両方なのかも分からず、その一度きりで煎餅は諦めてしまった。

開いている頁にふと眼を落とすとその細かな文字が蠢きだしていて最初は平仮名がクネクネと控えめに揺らいでいる程度だったのでいつものことと気にも留めなかったが平仮名に釣られて漢字までも蠢きだし、見ぬ振りをしているとつけ上がり大胆になってまるで立ち読みを阻止しようとでもするかのように紙上を行き交いはじめ、それでも無視して写真だけを眺めていると何を思ったか頁を押さえている左親指に群がってきてそこだけ紙面が真っ黒くなり、遂には指を這い伝ってきそうな勢いを見せたため、いや爪の先に文字が引っ掛かる不快な感触を感じたため仕方なく本を閉じて元の位置に戻し、二、三歩後ずさりしてクルリと向きを変えてゆるゆる歩きだすが、その場をあとにしてもモゾモゾと蠢く気配は尚も背後に感じていて、それが妙に気になってチラと窺うとにんまりと笑むのだったが、その笑みに煽られるように足早に左側の路肩から右側の路肩に道路を斜め渡って再度角を右に曲がって今度こそ間違いなくニューテアトルに至り、その前を通ってモールに出てラオックス前のヴィ・ド・フランスからのいい香りについフラフラと吸い寄せられて差し覗くと全面ガラス張りのため焼きたてのパンが棚に並んでいるのが透けて見え、何とも言えない香りが漂ってくるのを旨そうだと思うより先にどうしたらこのように焼けるのかと感心し、翻って己がイギリスパンの不出来に腹立ち苛立っているとそれを見透かしたように背後から「巧いこと焼くもんだ。なかなかこうはいかないな」と皮肉にコルトレーン擬きのおっさんが言ってカラカラと笑い、そのパンの遙か向こうの店の奥に覗けるコンベクションと平窯のバカでかいオーブンを指さして「見てみ、アレ。あんなの使ってんだぜ、敵うもんかよ」と嫌味とも慰めともつかない曖昧な口調で言って馴れ馴れしく肩をポタリと叩くが、そんなことは言われなくても分かっていて所詮私の作るものには「家庭の」という修飾がベッタリと付着していて、その括弧つきの「家庭の」が何より癪でその「家庭の」を払拭したいという思いが私を突き動かしているのだが、確かにコルトレーン擬きのおっさんの言うようにその域を越え出ることは困難だしプロに対抗して勝てるはずはないものの目指すところはそこでしかなく、技術不備は克服できると仮定しても設備不備だけはどうにもならず姑息に抜け道を探すより他ないのだが、そんな抜け道が果たしてあるのかどうかすら分からないし、いや、あるようにはとても思えず、そう思うと忽ち不安が兆してきて溜め息がひとつ洩れるのをコルトレーン擬きのおっさんは見逃さず、「その料簡がいかんのよ」と言い「不安大敵」と言ってひとりカラカラと笑い入るが私が笑わないので笑うのをやめ、抱え持っていた茣蓙だか筵だかを掲げて私の鼻先に突きだして「広げよか?」と訊くのでとんでもないと首を振りつつ「やめて下さい」と拒否すると、「行けるかもしれないじゃないか、少なくとも賭けるだけのこたあると思うけど」と空手の型でもするように心持ち足を広げ腰を落としてその茣蓙だか筵だかをいつでも広げられる体勢を整えて「どうする?」と更に詰め寄るが、「いいですいいです、すぐそこすから」と断わりつつその否定を確乎たるものとするため歩きだすと、「分かってねえな、五感くらい当てんなんないもなあないってのに」と言うので「五感が信じらんなくなったらおしまいだよ」と振り返らずにボソリと言うと、「妄想と思いたいのは分かるけど」とコルトレーン擬きのおっさんもボソリと言うのを聞いて「妄想はあんたじゃないか」と言いそうになるが何とかこれは押しとどめた。


参考書にも洋書にも用はないので五階は素通りして六階に行くのだが、一気に二階分を上がるのはこの疲弊しきった筋肉にはあまりにも酷で見た目には真白くムッチリと膨らんでいるが実際はどうかと品カット合板に取りだす前にその艶めかしい色艶の柔肌に人差し指を突っ込んで穴を開けて具合を見ると、白い柔らかなそれの突端に開いた穴は殆ど縮むことなくそのままの形状を維持していて発酵良好を示しているので打ち粉を振った品カット合板にそっと移し、スケッパーで三等分してそれぞれ丸めて布におき、ビニールを掛けてベンチタイムをとるその間に電気スタンドの位置調整をするのだが、うまく調節できなくてもベンチタイムが終われば成形に移らなければならず、とりあえずセッティングを済ませて生地の状態を見に何とか六階まで辿り着くと疲労はピークに達していて太股全体が悲鳴を上げており、ピチピチと音を立てて筋肉が千切れそうな気さえして一冊一冊丹念に物色する気力も乏しく、それでも見るだけは見ようこの階で最後なのだからとまずは少年漫画はすっ飛ばしてフロアを突っ切った奥の壁面に並ぶ青年漫画を壁伝いに歩いてビニール袋に入れられているため蛍光灯に反射してやけに見辛いのを物色するが、物色というよりは表面をなぞるように漫然と眺めているだけで、それは日頃使わない眼の筋肉も足同様疲労の極に達していてこめかみがドクドクと脈打ち痛むからで、いや、それだけではなく対象それ自体も問題で、どれもこれも意匠が異なっているだけで中味はまるで同一だし面白いのも最初だけでダラダラと続くうちに同語反復をくり返して最後は失速して終わるというのが落ちで、週間連載のものはとくにその傾向が強く、稀に真摯に取り組んでいるものがあっても俗受けせずに消えていくという悪循環に陥っているというより他なく、それにも拘らず漫画を読むことをやめられずこうして物色しているのは中毒にも似たものが漫画にはあるということなのだろう。圧倒的部数を誇る少年漫画に見るべきものがないのもかつての漫画の縮小再生産に過ぎないためだが、といって堅牢な生産システムが構築されてしまっているためにかつてのような型破りもできないし時間的制約にも縛られていて無難にこなしていくより他ないということも分かるものの読者としてそれを認めることはできようはずもなく、妥協はしないと肝に命じつつ丸め直した生地をひとつひとつ優しく丁寧に型に詰めて最終発酵に入り、発酵終了一〇分前にオーブンを二四〇度に予熱し、ジジジジジジジジジとタイマーが鳴って『西遊記(四)』に栞を挟んで覗くと型の縁まで生地が膨らんでいるので頃合いかと電気スタンドを跳ね上げて自家製発酵器の蓋を取り、出した型を持って台所へ行って両側面に焦げつき防止の熱遮蔽紙を装着し角皿に乗せて心持ち乾いた生地表面に霧を吹き、オーブンの扉を開けて静かに角皿を差し入れて入念に位置の微調整をしたのちそっと扉を閉めて一〇分のボタンを三回一分のボタンを五回押してスタートボタンを押し温度を二二〇度に下げればあとは焼き上がるのをひたすら待つのみなのだが、扉越しに中を覗いても生地の状態を見ることはできないし悠長に孫悟空と金角大王銀閣大王との打々発止を楽しむこともできずに三十五分間オーブンの前に立ちっぱなしで、扉にへばりついてオーブンの熱を真面に顔面に浴びて汗掻きながら上部クラストが焦げないようにと祈りつつ次第に強くなるそのクラストの焼ける香ばしい香りを嗅ぎ、その匂いを振り切って先へ進むと細い路地があり、そこを入ると関内アカデミー1・2があり更に大通りに抜け出てその通りを跨いだ真正面にある横濱辯天の鳥居の向かって左隣がヤマギワで、その迂回路をとって先にCDをわんさと買い込んでから行くこともあるが今はその路地には入らず直進すると、有隣堂本店書籍館はすぐ目の前の扉からの放射熱に熱せられる顔面がチリチリと現われるはずなのだが一向にその気配は音立てて焦げるような気さえしてなくどこまで行ってもその直前の通りをトコトコと歩いているこの香ばしい香りはその皮膚の細胞の焼ける匂いを振りきって突き進むのだが焦げた顔面の皮膚は軽く触れるだけでポロポロと剥落して背後からはコルトレーン擬きのおっさんの高笑いがカラカラと延々響き渡っていて、いや、そうではなく延々響き渡っているのは間違いなくコルトレーンのソプラノで、左手にモカ一〇〇%を持ち右手には『西遊記(四)』ではなく小麦粉とバターの匂いの染み込んだ麺棒を握り締めていてそれを何度も何度も握り直すのだが一向に有隣堂本店書籍館には辿り着かないのがしっくりせず、縺れそうになる足を引き摺り引き攣って強張り剥落する皮膚がそのクラストのようだと思ううちにも秒単位のカウントダウンが表示されて焼き上がりが近いのを知り、ふと背後に気配を感じて振り返り見ればコルトレーン擬きのおっさんが口をパクパクさせて何事か言っているようなのだがその口から聞こえてくるのはコルトレーンのソプラノで、その口を読もうとするがおっさんが何を言っているのかは遂に分からない。

─了─

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