経営不振と産業それ自体の不振とで次々と消えていく映画館が多いと言われているなか、この界隈には映画館が多く、この道を真っ直ぐ行けば松竹、ピカデリー、シネマリンがあるし商店街内にはオデヲン座、オスカー、東映があるし、ちょっと外れてニューテアトル、馬車道には東宝があり、松竹、オスカーは二館で東宝は五館と計十三館あり、単館ものも関内アカデミー1、2で観ることができるし、つまり大概の映画はこの界隈で観ることができ、席数、設備等に不満のあるところもあるものの人の集中する西口の相鉄ムービルまで足を運ぶのは億劫だし疲れるし、生まれ育ったところで路地の一本まで知り尽している勝手知ったる伊勢佐木町の方が便がいいのは言うまでもないし迷う気遣いなどないはずなのだが、ふと辺りを窺うと何だかいつもと様子が違うような気がし、それでいてどこが違うのかは明確に指摘できず、見知らぬ土地とまでは言わないが空気の流れとかその成分の微妙な差異とでもいうより他ないような違和を感じて妙に居心地悪く、右にはampm左にはダイハツ背後には大岡川そこを貫く横浜駅根岸道路左斜め後ろには監視塔のように聳えるランドマークタワーと何ひとつ変わらない佇まいなのだが何だか変で、引っ越して足が遠退いたためとも思えないのは井土ヶ谷近辺よりも伊勢佐木町近辺に身を置いている方がしっくりするし落ち着けるということでも分かるものの、それでも何か異物が混入していないかと周囲の状況を仔細に観察すると空間が微妙に一回りほど縮小しているらしく、その背後というか空隙に自室の気配を感じ、その自室のこの空間への割り込みが違和の元らしいということが次第に分かってくるが、そう気づいたときにはどっちが物理的存在でどっちが思念的存在なのかの判別はできなくなっており、いずれもが物理的存在であり思念的存在でもあるようで、いずれか一方を退けることはできなくなっているのだった。といって一度に両方の空間を均等に見ようとすると感覚器官が混乱を来たしてまず末梢神経に軽い痺れを感じそれが徐々に体の中心に向かって拡がっていくがそのうちふっと晴れて治ったかと思うと次の瞬間には頸椎を掴まれたような鈍痛に襲われるため、どちらか一方を主他方を従として意識を上手いこと振り分けなければならず、結果散漫になってちょっとした路肩の段差に蹴躓いたり前方から歩いてくる人との距離感が掴めず危うく衝突しそうになったりして無事に有隣堂まで辿り着けるか些か不安になり、その不安が不安として意識に固着してしまうと意識するもの総てが不安材料となって不安の増大を招く怖れもあるためそれだけは避けねばならないが、そのように意識散漫になりながらも有隣堂へ行くという思いだけは確乎としてあり、それを唯一の支えにしてよろめき歩いていると「その分じゃ有隣堂までは覚束ないね」といきなり背後から話しかけられて戸惑ってしまい、チラと背後を窺って視野の端っこに僅かにその影を捉えたものの何も答えられないまま無視して逃げるように早足になるが縺れてうまく動かず、「逃げるこたないだろ」と追い縋ってきたその声の主に右肩を掴まれ引き留められ、「そういう料簡だからいかんのよ」と穏やかな口調で言い「そんなんじゃ一生掛かったって有隣堂にゃ行けないぜ」と言って笑うその声の主のカラカラと乾いたよく響く声をコルトレーンのソプラノのようだとふと思い、声がコルトレーンの吹くソプラノのようだからと言って姿形までがコルトレーンに似ているわけではないのにも拘らずその声の主がコルトレーンのような気がしてならないのだった。
ヨレヨレだがスーツを纏っているし緩めてはいるがネクタイもしているので会社員かと思えば花見でもないのに茣蓙だか筵だかを抱え持っているし足元を見れば小汚いサンダル履きで、その笑い声とは裏腹に全体にじめじめと湿っぽく、それだけで所在がわけの分からない怪しげなものになっているその俄ホームレスのようなコルトレーン擬きのおっさんは「気ぃ抜いてると振りだしに戻っちまうぞ」と言うと私の肩をポンとひとつ叩き、「見てろ、ほら」と言ってその抱え持っていた茣蓙だか筵だかをバサリと一振りで広げるとそこはもうコルトレーンのソプラノの鳴り響く自室で、「ほんのちょっとした衝撃でな、もと戻っちまう」と得意げにそのコルトレーン擬きのおっさんは言い、もう一度バサリ一振りで茣蓙だか筵だかを丸めるとそこはもとの路上で、「そういうことだ」としかつめ顔で言うその声はジジジジジジジジジと蝉の声ともつかないけたたましい音で鳴りだした松竹の次回放映告示のベルに紛れてよく聞き取れず、そろそろ一次発酵が終わる頃合いだとその音を耳にして脇を窺うと確かにジジジジジジジジジとタイマーが震えて鳴っており、紅葫蘆(べにひさご)に閉じこめられた「者行孫」にはしばらく待ってもらって自家製発酵器を覗き込むとボール一杯に膨らんだ生地がスタンドの白熱電球の光に白く艶やかに餅のように照っている。蓋を開けて熱が逃げないよう素早く取りだして元通り蓋を閉めて台所へ行こうとした途端に、「カバーはお掛けになりますか?」と店員に訊かれて「お願いします」と答えると、「色は何色になさいますか?」とズラリ並んだ文庫本カバーを右手で指して重ねて訊いてくるのを少し間をおいて考えているふうを装ってから「グレーを」と答えるのだったが、文庫本の紙カバーはグレーと決まっていて、なぜグレーなのかいつからグレーなのかは分からないが気がつけばそうなっていて、だからこの『西遊記(四)』の紙カバーもグレーだし他の文庫本も総てグレーで、文庫本に限らず買った書籍に必ず紙カバーを掛けてもらうのはその鮮やかな手並みを見たいということも幾分かはあるが、ストックが多くて棚に納めたまま何年も寝かせてしまうことがあるので既読のものか未読のものかを判然とさせるためで、だからカバーを掛けてもらえない漫画などは読んだのか読んでいないのか分からなくなることがよくあるのだった。
手際よく文庫本にグレーの紙カバーを掛けている店員の手元を眺めていたら出し抜けに「でも何でいつもグレーなんですか?」と訊かれ、あまりの不意打ちに質問の意図が汲み取れないというより訊かれたこと自体にうろたえ、その手元を眺めていた目線を少し上向けて店員の様子を窺いながら「は?」と聞き返すと作業の手は休めずに「グレー。何でかなと思いまして」と屈託なげに言うのだが、なぜと言われても答えようがなく、いや抑もなぜそんなことを訊くのかと不審に思い、レジでの客店員間の殆ど自動化された関係においてこれは不測の事態と言ってよく、このような不意の逸脱はレジの滞りを招く怖れがあるし客に負担を掛けるだけだということがこの店員には分からないのだろうかと訝りつつもあるいはバイトで何も知らないのかもしれないと「いや、なんとなく」と答えると「それじゃ答えになってませんよ」と追及され、視線を店員の左胸に留めてその四角いネームプレートを見るが滲んでいて判読できず、しかも画数の多い字のためか殆どシミにしか見えず、さらにその上に目線を移動させてその顔貌を覗こうとするがこれも靄に包まれたように判然とせず、そのように自らの記号性を隠蔽して他者を追及するその店員の行為を不当に感じるものの事を荒立てたくはないのでそれには触れずに紙カバーがグレーでなければならない理由を探すのだが、どこを探しても理由などないということにしか思い至らず、しかし「ない」ではこの店員が納得しないだろうと「好きなんです」と誤魔化すが「嘘ばっかり」と即座に見抜かれてしまう。この間にも生地は発酵を続けていて必要以上に発酵させると国内産小麦のただでさえ少ないグルテンが損傷してしまうのでガスを抜かなければならないのだが代金は先に払ってしまっているためその場を離れることもできず、その店員の納得のいく答えを賢明に探すより他ないのだったが、店員はズラリ並んだカバーを指して「他にも色はほらこんなにあるのに」とファーストフードの店員紛いに執拗に訊き、「ワインレッドは如何です? 鮮血の色で活力漲りまして活劇などに向いていますし推理ものにもいいと思います。黒はどうです? 虚無深淵死を象徴しているこの深みのある色合いには何でしょう、カフカなんかいいんじゃないでしょうか。それからこの静謐溢れる紫などは哲学宗教には持ってこいですし、この瑞々しく透明感のあるライトブルーなどは青春小説向きですし、叙情性の強いものにはオレンジが牧歌的なものにはグリーンがよく合います。ピンクはもちろん官能小説ですね、程よくその色情を掻き立ててくれると思います。黄色は正に狂気ですからブラックユーモアなどがいいかと思います。個人的には筒井康隆が最適かと思いますけど」などと一見低姿勢だが自己のペースに巻き込み取り込んでいく追い込み漁法にも似たセールスマンの弁舌で捲し立て、その勢いに呑まれてもうどうでもよくなって「それ、私なんです」と適当に答えると一瞬にして息を呑んだような緊張した面持ちになったのがその顔面を包んでいる靄が薄まったことで分かり、「失礼しました、グレーがお客様だとは存じませんでした」と恐縮して言い、「失礼しました」「申し訳ございません」を連発し、何だか分からないがこれで解放されると安堵して「誠に申し訳ございませんでした」とそそくさとグレーの紙カバーを掛けるのを余裕を持って眺めることができ、釣り銭レシートとともに文庫本を受けとると、背後に「ありがとうございました」の声を聞きつつ打ち粉を振った台にそっと取りだした生地をパンパンと軽くはたいて上下左右から折り畳み、生地に張りを持たせてボールの底に優しく寝かせてビニールを被せ、小走り気味に自室に取って返して自家製発酵器に納めて二次発酵に移る。
カチカチと摘みを廻してタイマーを二十五分にセットして再び「者行孫」のお出ましだと手を伸ばしたところに『西遊記(四)』はなく、その手は虚しく空を切り、代わりに金箍棒ではなく茣蓙だか筵だかを抱え持ったコルトレーン擬きのおっさんのお出ましとなって周囲を窺えばそこにある光は太陽の直射輻射ではなく蛍光灯の真白い光で、その真白い光に浮かび上がった屋内には使い込まれたソファーがありカウンターがあり、カウンターの上にチラシパンフレットが積まれカウンター続きのガラスケースの中には下敷きキーホルダーTシャツバッジ関連書籍類などの月並みなグッズが並べられ壁面には何枚ものポスターが貼られていることなどから映画館だということはすぐに分かり、さらに仔細に見てその様子からどうも松竹のロビーらしいと分かるのだが金を払った覚えはなく、しかしカウンター内にいる館員に不審な様子は見られないので安堵はしたものの一抹の不安は感じつつ立ち尽していると、「始まっちまうぞ」とコルトレーン擬きのおっさんがすでに閉じられているドア前で手招きつつ言って「ほらほら」と背中でドアを押し開けながら急かすので仕方なしにそのあとについていくとすでに中は暗く、CMが映しだされているが客は数えるほどしかいないので比較的いい席を確保できた。映画を観るつもりなど更々ないのだが席に着きスクリーンに映しだされた映像を前にするとたとえ取るに足らないニュース映像でも、いやそれがつまらなければつまらないほどそのあとの本編への期待が高まってきて出るに出られず、気がつけば椅子に浅く腰掛けその背凭れに後頭部を乗せて観る体勢になってしまっているのだった。
不意にスクリーンが黒くなり音も途切れたのでいよいよ始まると緊張が高まり息を呑んで待つと、黒いスクリーンが少しずつ明るみを帯びて映画が始まるが、そのスクリーンに映しだされている光景がどこか見たことのあるもののような気がして観たことある映画なのかと一瞬思うがここ数ヶ月映画は観ていないし封切館なので古い映画の再映ということもあり得ず、しかしその既視感は消えることなく続き、いやむしろ増大して最終的にそこに映しだされている空間が自室だと気づくに至ったのはスクリーンに大きく映しだされた自分自身の姿を眼にしたからで、そのスクリーン内の私は左手にマグカップ右手にグレーの文庫本を持って机代わりの膳に背を凭せて座蒲団なしに畳に直に胡座をかき、と言うのも座蒲団をすると一日その上に坐りっ放しなので特に夏場はダニ発生の温床となるためで、それが癖になって季節に関係なく座蒲団なしでいるのだが、ズズッと一口モカ一〇〇%を啜ると右手の黒膳上のコーヒーの染み込んだコースターに戻して『西遊記(四)』に眼を落とすが、どうにも落ち着かずそこに印刷された活字が頭に入ってこないのは誰かに見られているような気がしてならないからで、それでもしばらくは活字を追っていくものの掴むそばからポロポロと零れ落ちていくようで全然集中できないので諦めて『西遊記(四)』を閉じてゴロリと畳に寝転がるとついさっきの出来事が現前してくるのだったが別段不快でもなく、いやむしろその全行程を嘗めるように辿り直しつつ余韻を楽しむのだった。