友方=Hの垂れ流し ホーム

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西暦1995年11月12日金曜日午前10時18分46秒831766…

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七時二十分に掛けていた目覚ましが鳴る前に僕は目が覚めていた。大抵五分くらい前に目が覚めてしまう。それでも目覚ましが鳴るまで僕は布団に入ってまどろんでいる。僕自身の体温でほど良く暖まった布団の中でついさっきまで見ていた夢を思い出しながら時間が来るのを待つのが僕の毎朝の習慣になっている。誰のものでもない自分だけの時間。今日見たのはエレベーターの夢だった。

僕はひとりガッコウの教室ほどもある広さのエレベーターに乗っていた。そのエレベーターはどこに着くのか分からないエレベーターだった。エレベーターの中には何もなく階数を表示するランプも階数のボタンも非常ボタンさえもなくただののっぺりした四角い箱だった。だから上に行ってるのか下に行ってるのかさえ分からなかった。それでも扉の開閉ボタンだけはあった。扉の右手の丁度僕の胸くらいの高さに文字は掠れていてよく見えないけれど『開』『閉』のボタンが横に並んでいた。それでエレベーターだということが分かったんだった。エレベーターの中にはどこにも明かりはなかったけれど壁全体がぼうっと白く光っていてそれも蛍光灯の光じゃなくて太陽の光だったのでとても暖かかった。エレベーターはたまにガタガタと不自然な振動をしたりしんと静まり返って何も聞こえなくなって動いてるのか止まってるのか分からなくなることもあった。

ほとんど密閉された空間なのに何故かエレベーターの中には風が吹いていた。時々それが凄く冷たかったけれど全体としては暖かかったからそれほど気にもならなかった。

やがてぎしぎしと耳に障るようなそれこそ壊れてしまうんじゃないかというような激しい音と物凄い振動をさせてようやくどこかの階にエレベーターが止まった。扉が開く瞬間嫌なものを思い出した。いつだったかテレビの深夜映画でやっていた『ゾンビ』のワンシーンでエレベーターの扉が開くと何体ものゾンビが襲ってくるというところ。あれは怖くて最後まで見れなかったのでストーリーもよく覚えてはいないけれどエレベーターのシーンは印象に残っていて急にそれを思い出したんだ。扉の向こうには血に飢えたゾンビがうようよと待ち構えていて扉が開くと同時に僕に襲い掛かってくるということを想像したくはないけれど想像してしまう。

でもありがたいことにゾンビは現れずそこはごく普通のオフィスのような所で立ち働く人達がざわざわと行きかっていたのでひとまず安心したものの扉が開くと今まで忙しそうに動き回っていた人達がまるで申し合わせたようにみんな一斉にビデオの一時停止みたいにピタッと動きを止めて僕の方に視線を向けた。見も知らぬ人達の無数のまるでマネキンのような冷ややかな視線がことごとく僕に集中した。心臓が止まる思いだった。止まったかもしれなかった。僕は急いで『閉』のボタンを押した。でも扉はなかなか閉まらなかった。何度も何度も押し続けたけれど見えない誰かの手が押さえつけてでもいるかのように扉は空しく開いたままピクリともしなかった。よく見るとふたつ並んだボタンは両方とも『開』だった。

眼を開けると白っぽい光で部屋の中は明るかった。それは電灯の明かりじゃなくて僕の頭の方にある雨戸を閉めていない窓の外からやって来る朝の太陽の光。それが部屋いっぱいに容赦なく入り込んでいる。僕の知らぬ間に何の挨拶もなくこそ泥のように土足で入ってきて否応なしに僕の目を覚まさせる。その白っぽい光に押し流されているかのように電灯のスイッチの紐が微かに右に左に動いている。目の前にはいつもの天井がある。毎日毎日目が覚めると目の前にこの天井があるのは僕が寝ている間にも変わることなく天井として存在し続けているからだ。目を覚ましたときに全然別のものに変わってしまっているなんてことはない。そんなことぐらいでは驚きもしないし僕としては別にそれでも良かったけれど決してそんなことにはならない。何故かこの天井だけは僕を裏切らない。

なかなか目覚ましが鳴らないので横目で覗き見るとまだ三十秒ぐらいしか経っていなかった。周りの時間の進み方がゆっくりなんじゃなくて僕の時間だけが凄く早く動いてるっていう感じ。僕は目覚ましの音を聞き漏らすまいとじっと耳をすます。そしたら耳鳴りばかりがわんわんと大きく聞こえだした。耳鳴りで目覚ましの音を聞きもらすかもしれないと思ったほどだった。

そのとき唐突ではあるけれど幾分控えめな調子で窓ガラスが断続的にカタカタとよく響く乾いた音を立てて鳴った。十秒おいて今度はさっきよりも少しリズミカルにそれでも控えめな調子は残したままやっぱりカタカタとよく響く乾いた音を立てて鳴った。今日がその日らしい。準備はできていた。このときのために一応全部済ませてある。去年の十二月の誕生日に無理を言って買ってもらったPower Macintosh 6100の起動項目に嘘偽りのないすべてを書き記したファイルが入れてある。いずれ誰かが見つけるだろうけれど母親は機械に弱く家にあるOA機器にも殆ど触ったことはないのでパソコンなど絶対に触らないだろうから恐らく父親が発見することになるだろう。目覚ましが鳴る前にもう一度窓ガラスがカタカタと鳴ったら止めようと思った。そう思った矢先に目覚ましが鳴った。すかさず手を伸ばす。

ゆっくり時間をかけて制服に着替えてそれから顔を洗いに洗面所に行く。その前にトイレに入って用を足す。顔を洗う前に鏡の前に立っている自分の顔をまじまじと見るとそこに写っている僕の顔は何だか緑がかっていてまるでゾンビみたいだった。その緑色を顔に付いた絵具でも落とそうとするように指紋がなくなるんじゃないかっていうくらい思いっきり指の腹でこするようにして顔を洗ってタオルで丁寧に拭いてからもう一度鏡を覗いてみたけれどやっぱり僕の顔は緑がかっていてゾンビのようにしか見えなかった。むしろ顔を洗う前より緑さ加減が増しているように見えた。これはいやらしい蛍光灯の僕に対するいやがらせだと思った。きっとそうに違いない。

それからすぐに食卓についたけれど全然食欲がなくいつもの半分も食べれない。元々僕は少食だけれど今日は全然喉を通らない。左横には父親の食べ終わった食器類が片付けられないまま置いてある。それを見ただけで胸がムカムカしてじわじわと吐き気が込み上げてくる。脇で母親がいつも以上に早口で何か言っている。もちろん僕に向けて。いつもの聞き慣れた声なんだけれどまるで別人の声に聞こえる。金属的な摩擦音が所々に混じっている。空気が抜けるようなおかしな音も聞こえる。風の音かとも思ったけれどそうじゃない。ちゃんと母親の口から音は出ている。テレビでよくある宇宙人の声みたいだ。それも地球に攻めてくるような悪い宇宙人じゃなくてもっと平和的な宇宙人。火星人というよりは金星人という感じかな。僕の声に似ているような気もするし父親の声に似ているような気もする。不思議ではあるけれど楽しくはない。食欲がないのもそのせいだろうか。

(花加えないときよく似合うわよ)何のことかさっぱり分からないけれど僕にはそう聞こえた。言葉として聞き取れたのはそれだけでそれ以外の母親の口から発せられた言葉にもならない意味不明の音の連なりはいくら噛んでも出てこない唾液の代わりに御飯と一緒に飲み込んだ。「行ってきます」と僕は誰にともなく静かに唱えていつもの通りに家を出る。時間通り。時間通りといっても多少の誤差はある。誤差の範囲内という意味だ。僕の家は七階建てのマンションの五階にあるのでいつもはエレベーターを使うんだけれどあんな夢を見たあとなので今日は階段を使う。昔はよく一段飛ばしや二段飛ばしなんかをしたもんだけれど今はそれもしない。左足を庇いながら一段一段慎重に階段を降りる。別に普通に降りられるとも思うんだけれどつい癖で庇ってしまう。それが気に食わないんだと言われた。

殆ど歩行不可能だったのでタクシーに乗って病院に行ったら即入院だった。膝の靭帯を痛めて一ヶ月入院したんだった。手術はしなくて済んだけれどかなりの内出血で僕の膝は蒸したての肉まんのみたいに今にも弾けそうにぷっくりと膨れ上っていたので毎日注射器で血を抜き取らなければならなかった。吸い出した黒い血が注射器一杯に溜まると針だけ残して本体を抜き取ってお皿に移す。その間僕の膝には蜜蜂に刺されたみたいに注射針がぶら下がったままだ。出血が治まってくるにつれて血を吸われているというよりは肉を吸われているようで痛みも少しずつ増していった。

入院してしばらくは車椅子を使っていてそのあとギプスをしてからは松葉杖。車椅子も松葉杖もそのときが初めてだったのでなんだか妙に嬉しくて暇さえあれば車椅子に乗って車輪の片方を前に押しもう片方は反対に押してくるくるくるくる回っていた。後遺症というほどのものじゃないけれど寒くなると立ち上がったりしゃがんだりするときにちょっと痛む。また長時間歩いていると膝に負担が掛かるからか左足が外側を向いて左足への体重移動が慎重になりそのため体の左右の揺れが大きくなり歩き方がぎこちなくなって前に行く筈のエネルギーが横に逃げるので当然速度も遅くなる。でも別にこれといって日常生活にはそれほど支障もないけれど。それが気に食わないんだと言われた。

昨日と違って空には雲ひとつなくとてもいい天気でなにげに顔を上に上げるとそこには月があった。ドラえもんの四次元ポケットみたいな白い半月形の月が僕の真上にあった。すかっとさわやか気分爽快とでも言いたいところだけれどあまりいい気分じゃない。僕の気分は天気には左右されないようだ。夢のこともあるし。風が少し吹いていた。その風が気の抜けた炭酸飲料のように甘ったるい街の臭いをどこへともなく運んでいる。この臭いは好きだ。それと排気ガスの臭いも。特にディーゼル車の排気ガス。お勧めはゴミ収集車の排気ガス。あのゴミと排気ガスの微妙なブレンドがたまらない。あれは癖になるけれどあんまり思いっきり吸い込むと吐き気がしてくるのでその辺の加減が難しい。熟練した技術がいるんだ。これを習得するのに僕は三年掛かった。

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