警察犬みたいに臭いを辿るようにして僕は歩いていく。その歩き方がどことなくふわふわと宙に浮いているような地に足がついていない感じなのは左足を庇ってるからじゃなくて自然とそうなっていた。最初は気にも留めていなかったけれどだんだん気になり出してきて気にすれば気にするほど僕の歩くペースも狂ってきて遂には真面に歩けなくなる。普段どんな風に歩いていたのかも分からなくなる。なんか変だ。なんかおかしい。朝御飯が食べれなかったからからっぽの胃袋に空気が入ってそれでふわふわするんだろうかなんて思ってみたりもする。立ち止まって右足の靴の底を見てみる。何もない。次に左足の靴の底を見てみる。踵の辺りの溝に三ミリほどの小石がひとつへばり付くように挟まっていた。それを右手の人さし指の爪でほじくりだすと何事もなかったように普通に歩けた。
歩きながら僕はさっき母親が言った言葉を考える。花加えないときよく似合うわよ。あれは一体何を意味しているんだろうか。何かの暗号だろうか。誰かが僕に何かを伝えようとして母親の口を借りて言わせた言葉なんだろうか。それともホントにそんな風に母親は言ったんだろうか。あれこれ考えるけれどさっぱり分からない。もしかしたら宇宙人からの交信かもしれない。『未知との遭遇』みたいに僕を宇宙に連れていってくれるのかもしれない。そのための秘密の交信なのかもしれない。そうだとすれば早く来て欲しい。僕にはもう時間がないんだ。
この近所にはいくつか公園があってそのひとつに怪獣公園というのがある。怪獣がいるわけでもそれに近いものがいるわけでももちろんなくてごくごく普通のどこにでもある公園だ。怪獣公園というのは通称でその正式名称を僕は知らないけれど何かオットセイのような怪獣のような『スターウォーズ』に出てきたジヤバ・ザ・ハットみたいなのがこの公園の真ん中にどっかと横たわってるのでそう呼ばれている。実際にそれが何なのか僕は知らない。その怪獣の中は空洞でいくつか穴も開いていて中に入ったりすることができる。怪獣っていっても薄ピンクに塗られているのでちっとも怖くはなくむしろ可愛らしいくらい。あちこち色が剥げているのもちょっと寂れた感じで好感が持てる。うん。悪くない。他にもロケット公園というのもある。ロケットをかたどったすべり台があるんだ。真っ直ぐに立った二段式のロケットの横っ腹から脱出口みたいにすべり台が砂場へと伸びている。僕はだんぜんロケット公園の方が好きだ。あの流線型のロケットの形が僕は昔から好きだった。
とにかく誰もいなかったのでその怪獣公園で一休み。周りを高い木やビルに囲まれていて坐れそうな所で陽が当たっているのはそこしかなかったので僕にはちょっと窮屈だったけれど最近塗り変えられたばかりの真っ青なブランコに腰掛けた。でもすぐにそこも影になってしまった。ここによく呼び出された。夜僕に電話があると大抵ここに呼び出されるんだった。
堺橋商店街は端から端まで僕の足で大体二百六十三歩だ。混雑具合や僕の体調や太陽の位置や風向きによって二百七十歩のこともあれば二百五十歩いかないこともあるけれど平均するとそのくらいだ。堺橋といっても橋なんかどこにもないし川も流れていない。誰から聞いたのか忘れてしまったけれど僕が生まれるよりもずいぶん前に埋め立てられたらしい。川があった所は今は全部公園になっていてその下には地下鉄が走っている。その堺橋商店街の西の端に僕はいる。殆どの店がまだ閉まっているので人通りも少なく水彩画のように薄ぼやけた人達が風景に溶け込みそうになりながら所在なげに動いている。遠くの方では人物も風景も一緒くたになって揺らいでいる。風景の中から突然浮き出てくる人がいるかと思うと二人に分かれたりまたくっついたりしている人もいる。近づくにつれて輪郭がはっきりしてくる。逆に遠ざかる人は次第にぼやけていって最後には風景に取り込まれてしまう。
そこを歩いていてふと気がついたんだけれど僕の目の前数メートルの所に僕と同じセイフクを着た僕と同じガッコウのセイトが僕と同じような歩き方で歩いている。何だか気まずいので少し待ってやり過ごそうと僕は立ち止まる。そのセイトは惣菜屋の脇にあるちょっと左に傾いでいる電信柱の横で立ち止まってしばらく辺りを窺う様子できょろきょろしてたかと思うと急に僕の方を振り返った。僕によく似ていた。いや僕だった。僕を手招きしている。僕がもうひとりの僕の立っていた電信柱の辺りまで来るともうひとりの僕はもうどこかに行ってしまい姿も見えなかった。僕は辺りを窺いつつなにげに惣菜屋の暗い店の奥をちらと覗くと白い前掛けをした汚らしい骸骨が体中の骨という骨をカタカタ鳴らしながら小犬のようにプルプル震えていた。その骸骨がじろりと僕の方を見て何かお経みたいなのをぶつぶつぶづふつ唱え始めた。その眼は笑っているようにも見えた。何だか見てはいけないものを見てしまったような気がして僕はとっさに眼を伏せた。
惣菜屋の向かいは文房具屋でその右隣りが金物屋。文房具屋も金物屋もその店先に道路にはみ出して歩道と車道を区切っている白線の辺りまでずらりと商品を並べている。その文房具屋と金物屋の間に幅六十センチぐらいの狭い路地があってそこから商店街を出ることができる。でもその路地は小便臭くて僕はいつも息を止めて素早く通り抜ける。もちろん僕はそこで立ち小便なんかしたことはない。その文房具屋で万引きをさせられたんだった。見つかったことは一度もなかったけれど。
その狭くて臭くて薄暗い路地を行こうと息を吸い込もうとしたときに僕は左肩を掴まれた。じっとりと湿った生暖かい掌の感触が重くずっしりと肩に伝わってきて凄く気色悪い。息を呑んで僕が振り返るとそこに居たのは文房具屋の親爺だった。違う。文房具屋の親爺じゃない。よく似ているけれどどこか違う。細い目の上には萎びた海苔を張りつけたような極太の眉毛がありしかもそれは一本につながっていて額は極端に狭く生え際が眉毛のすぐ上まで迫っていて細い目とは対照的に唇は分厚く腫れあがっている。部分的にはそっくりなんだけれど全体のバランスが少し違う。兄弟かな。その文房具屋の親爺似の人はニタニタと糸引くような薄気味の悪い笑みを僕に投げつける。僕の肩に置いた手はいつまでも放さないで。
(危ないじゃない、こんな所にぼうっと突っ立っていたら……)詰問する感じじゃなく優しく諭すような風だった。何だがオカマみたいなしゃべり方だった。でもおかしいな、そんなに長い時間立ち止まってはいなかったと思うんだけれど。それに危ないって何が危ないんだろう。
「すいません」とりあえず謝っておく。というより反射的にそう口走っていた。
(気をつけてね、最近増えてるんだから)言いながらその大きな顔を僕の方に近づけてくるので荒い鼻息が僕の顔にかかる。その鼻息が小便の臭いと混ざりあって物凄い臭いになって僕を襲う。仕方なく僕は口で息をする。
(ヒトサライよ、ヒトサライ。気をつけなきゃ駄目よ)口も動かさずにその人は言い糸のような細い目を更にも細くして僕に笑いかけながらよれよれのぼろ切れみたいな上着のポケットをガサゴソとまさぐって何かを掴み出したかと思うと徐ろに僕の右手を取ってそれを握らせた。僕は何が何だかさっぱり分からずしばらく凍りついたまま動けなかった。
「あの」言ったつもりが声にならなかった。掠れた空気の音が口から漏れ出ただけだった。
(いいから、いいから。遠慮しないで)その人の口は少しも開いていないのにはっきりと声は聞こえるのだった。それからその細い目で僕の方を真っ直ぐ見つめながらいっそう強く僕の手を握り締めてぼってりと膨らんだ唇の上にある三角形の鼻の穴を目一杯広げて鼻毛を二本そよがせつつこう言った。
(ねえ、ちょっと上がってかない?)