「何が、ですか?」
(分かってるくせにぃぃぃ)さらにその人は一段と強力なニヤニヤ笑いをしてこう言った。
(それよりさぁ、俺とさぁ、一緒に行かないかぁぁ。旅に出るんだぁ。旅ぃ。いいぞうぉぉ旅はぁぁ。どうだい、君ぃぃ?)
「いや、でも、あの、」突然何を言いだすんだこの人は。何だか僕は急に恐ろしくなって言葉が喉につまってしまった。というよりその恐ろしさが喉につまって言葉が何も出てこなかった。もしかしてこれが文房具屋の親爺似の人が言っていたヒトサライなんだろうか。
(うーん、そうか、そうだよなぁぁ。そうなんだよなぁぁ。みんなそう言うんだよなぁぁ。みいぃんな。分かってるけどねぇぇ、仕方ないよねぇぇ、そうだよねぇぇ。寂しいねぇ。俺ぁ寂しいよぉぉぉ)
そう言うとその人は体中を軋ませながらニヤニヤ笑いのまま行ってしまった。その歩き方は操り人形みたいで歩いているというよりは歩かされているといった風だった。やっぱりブリキの犬のおもちゃだ。僕はそう確信した。その人が見えなくなってしばらくして微かだけれどワンと犬が吠えるのが聞こえた。機械的なおもちゃの犬が吠えるような吠え方で。
そのワンという犬の声を聞いて今朝母親の言った言葉が解読できた。何故だか分からないけれどすっと頭に浮かんできた。残念だけれどそれは宇宙人からの交信なんかじゃなかった。早く食べないと遅刻しちゃうわよ。多分母親はそう言ったんだろう。いつも僕に言う母親の言葉などから考えてまず間違いないだろう。でも今頃そんなことが分かってもどうしようもない。僕は遅刻どころか欠席しているのだしそれにこれからはずっと欠席だろうから。
改めて僕は空色の非常階段に向き直る。今度は全身で背後に気を配りながら階段を踏みつける。階段を踏む音が僕の意に反してやたらと大きく鳴り響く。この音を聞きつけてまた誰かやって来るんじゃないか。今度はほんとの警察官か警備員が来るんじゃないだろうか。さっきの人は僕を安心させておいて実は誰か呼びに行ったんじゃないだろうか。たまらなく不安だっただったのでたった七階なのにずいぶんと長く感じた。でも結局誰も来ることはなかったので何事もなく最上階まで上がることはできたけれど。
非常口の扉にはめてあるのは曇りガラスなので中は見えないし鍵が掛かっいて入ることもできない。別に中に入らなくても用は足りる。僕はひんやりと冷たい扉に背中をぴったり押しつけて眼の球だけを動かして周りを見てみる。最上階からの眺めは思っていたよりもいい感じで満更僕の言ったことも嘘じゃなかったようだ。僕は景色を眺めるためにここに来たんだと思い込む。今だったら飛べそうな気がする。だけど下を見るとダメだ。足が竦む。足の裏の神経が一斉に狂ったように騒ぎだし胃の辺りを何か小さな虫がもぞもぞとうごめき始める。ジェットコースターに乗ったときみたいな内臓全体が浮き上がるような感じがする。抑えようとしても抑えられないので僕はそれを強引に無視するしかなかった。
風向きが変わってまた軍艦マーチがそのいかにも腑抜けた音を力弱く奏でているのが微かに僕の耳に届く。僕を笑わそうとしてかさっきよりも一段とフニャフニャした情けない音だった。
でも今は笑えなかった。そんな余裕はなかった。それでもその音は執拗に僕の耳に入り込んできて僕を笑わそうとする。いやでも僕を笑わしたいらしい。聞いてるうちにだんだんうっとうしく感じだしたので両手で耳をふさいだらいくらかマシになった。
更に僕はそれを振り切るように顔を上げて上を見上げた。そこには空はなかった。そこには何もなかった。でも下には異様に黒光りしている舗装された硬いアスファルトの道路がある。それが僕を待っている。それが現実。
もうひとりの僕が現れた。どことなく不安げな顔をして僕を一直線に見つめている。僕を見ているのかと思ったけれどその焦点は定まっていず僕を素通りしてどこかあらぬ方を見ている。朝御飯を食べてないからか顔色が良くない。真っ白だ。いや緑がかって見える。もうひとりの僕はくるりと体の向きを変えると僕に背を向ける。二歩前へ出る。また一段と強くなった風が僕ともうひとりの僕の髪をめちゃくちゃになびかせる。その風で埃が器官に入ったらしく喉の奥の方がくすぐったい。僕がせき込む前にもうひとりの僕がせき込んでいた。もうひとりの僕の体がロウソクの炎のようにゆらゆらと風に揺れている。風が止むのを待っているのかもうひとりの僕はじっと動かない。しばらく辺りを眺め回しちょっと下を覗き込んでから僕の方を振り返った。瞬きをひとつした。ひどくゆっくりした瞬きだった。それから何か引きつったような無理やり頬を引っ張り上げるような変な笑い方をした。悲しそうに見えたけれども嬉しそうにも見えた。風が止んだ。もうひとりの僕は前に向き直って右足をゆっくりと一歩前に踏み出した。僕の視界からもうひとりの僕が消えた。
次は僕の番だった。僕は飲みかけの缶ジュースを持ったままだった。
─了─