テレクラの看板はあったけれどそのテレクラの文字が変だった。最初は気がつかなくて読んでみて初めて変だということに気がついた。電信柱に針金で括りつけられただけの埃にまみれた安っぽい色づかいの看板のピンクで縁取られたその文字はレラテクになっていた。でもそんなことは日常茶飯のことなので僕は気にも止めない。
レラテクを左に曲がって目的の通りに入る。そこは丁度陽の陰になっていて通り一体が青黒く寒々しい。風もひんやり冷たい。この通りに入った途端に僕の足はまるで動く歩道を逆行するかのように一向に進まなくなる。それでも少しずつ前には進んでいるからいずれは辿り着く筈だ。そして遂に目的の場所に来たけれど今度は僕の足は止まらない。それを横眼に見ながら一旦通り過ぎて少し先の方まで歩いていき大きく迂回してまた戻ってくる。そんなことを三回ほど繰り返してようやくその前に足が止まる。一日一秒進む僕の腕時計を見ると九時四十三分九秒。思ったより時間が掛かってしまった。
僕は顔を上げて僕の前に立ちはだかっているそのコンクリートの塊を見る。くすんだクリーム色の壁には枯れた蔦がへばり付いていて四、五階部分までを覆っているその七階建ての寂れた雑居ビルの青い影が向かいの立体駐車場の下三分の一を呑み込んでいる。何日も前から目をつけていたんだ。通りひとつ違うだけで車の量が格段に違うし人も通らない。非常階段の脇にはちょっとした駐車スペースもあって丁度いい具合になっている。実行するには恰好の場所といって良かった。ここなら誰にも見つからずにうまくやってのけられるだろう。さいわい車も止まっていない。空色に塗られた手すりの塗装が所々剥げ落ちて赤茶色く錆びついている手にざらつく非常階段を僕はゆっくり上がっていく。一段一段確実に踏みしめて上がっていく。すぐに呼び止められる。
(何やってんのぉ、君ぃぃ)いつの間に忍び寄ったのか犬のような顔をした人が僕のすぐ脇に立っていた。
「いえ、別に」この人もさっきの文房具屋の親爺似の人みたいにニヤニヤうすら笑っている。なんでみんな僕を見て笑うんだろう。
(いえ、別に、じゃ分からないなぁぁぁ)よく見ると犬のような顔というよりは犬そのもののように見える。その顔が笑っているんだからちょっと気持ち悪い。
「いえ、別に、中に入ろうとかいうんじゃないんです」
(じゃぁあ、何するんだねぇぇ)口を開く度にきしきしと何か錆びついた機械が軋むような音がする。声よりも軋む音の方が大きいくらいだ。まるでブリキの犬のおもちゃだ。
「いえ、別に、ただちょっと、景色を見たいだけなんです。よく見えるんです。上からだと」
すぐにバレるような見え透いたことを言ってしまったけれどそれしかとっさに思いつかなかった。却って何も言わなかった方が良かったかもしれないとすぐに後悔する。
(何がぁ見えるってぇぇ)
「……景色が」
(景色ねえぇ。そんなぁ在りもしないものをぉ探しているのかねぇ、君はぁぁ)
それにしてもこの人は誰なんだろう。警察官ではないし警備員でも補導員でもなさそうだしただの通りすがりの人なんだろうか。だったらなんで僕を注意するんだろうか。放っといてくれればいいのに。それともただの人なつっこい犬なんだろうか。
(ははは。嘘うそ。冗談だよぉ。びっくりしたかぁ。俺に君を注意する権利なんかないさぁ。はは。いやぁ、脅かして悪かったぁぁ)言いながら行こうとして二、三歩行きかけて急に振り返った。キキキキキと背骨を震わすような一段と大きな音をたてて首が軋んだ。油を差した方がいい。
(でもなぁ、気をつけろよぉぉ。そういうのは体に毒だからなぁ、程々にした方がいいぞぉぉ)