心地よい夢見のあとに心地よい目覚めが訪れるのは自明のことで青畳にでかでかと染みを作って耳の辺りまで垂れた涎が乾いた筋を残しているのが痒くてその痒みで眼を覚ましてゆっくりと眼を開けるが、目覚めたときにはすでに胃の中には何も残っていないようで横になったまま体を少し捩じるだけでグウグウとカラの胃袋が痛々しい悲鳴を上げ、その消化吸収の早さに我ながら驚きつつもその三分の一ほどをついさっき始末したばかりなのにすでに補充されて元通りギュウギュウ詰めの満杯になっている冷蔵庫から魚肉ソーセージを何本か鷲掴みだしてその両端の鈍い鉛色の金属部分に触れないようにしかしソーセージには歯を立てないよう細心の注意を払ってオレンジ色のビニールの端っこを歯で齧り切って無傷で取りだした柴犬似の雑種の犬の肉球にも似た柔らかなソーセージを頬張りつつ早くも夕食の献立をあれこれ思案し、その料理のでき上がりの映像を脳裡に浮かべその芳香を想像し舌に転がしたときの味覚の拡がりや噛んだときの触感を思うだけで空腹度は倍増して魚肉ソーセージくらいでは御し得なくなってまた冷蔵庫へと取って返して肉まんと餡まんを各二個ずつ計四個電子レンジではなく蒸籠で蒸して納めてようやく胃袋を鎮静させ、美味な酒と美味な食事のために部屋を出てひと運動したいところではあるが顛落者たちの出現及び甘い誘惑を怖れて、というよりその甘い誘惑に負けてしまいそうな、いや恐らく負けてしまうだろう自分の弱さに恐れをなして部屋を出兼ね、それでも一定の時間が経過すれば消化吸収は完了して自然と空腹は訪れるのでそれを待つ他ないと青畳に寝転んで卓袱台に右足を乗せてシミだらけの薄汚れた天井を打ち眺めてそれが接近してくるような錯覚を覚えるのを楽しみつつじっと待ち、頃合をみてというよりいい匂いがしてきたので階下に下りていくとすっかり食事の支度はできており、誰の誕生日というわけでもなく何の記念日というのでもないのに品数豊富というよりは過多の華やかというよりは和洋中あるいはどこの国とも判別のつけがたいものが混在した無国籍の雑多で無節操な食卓には、美津恵と里美がすでについていて待ちあぐねたという素振りで私を見返り、「早く早く」と里美が言って急かすのを『母』が嗜めるのを見て自分が今年の九月十九日で十五歳になる娘の父だということが思い出され、父らしさを装わねばという思いが意識的にも無意識的も働いて自分の抱いている『父』なるもののイメージを念頭においてその模倣であるためそれより一回り矮小なものにしかなり得ない『父』なるものをそれでもその『父』なるものに肉迫せんと演じて殊更鷹揚に席につくが、元来演者としての素質など持ち合わせていないためどこかキッチュで嘘臭い虚父とでもいうようなものにしかなり得ていないのだがそれを殊更訝しんでもいない様子の美津恵と里美に素人演技でも案外騙されるものなのかそれとも家庭内に波風の立つことを怖れ嫌って演技であることは知りつつ騙された振りをしているだけなのかそれは分からないが、とにかく円満な家庭のように見えるこの状況に安堵しつつ「いただきます」とてんでに唱えて昼食なのか夕食なのか今ひとつ判然としない食事が始まるが、食卓上の料理一品一品を丹念に眼で追いつつやはり無意味にこれほど大量の料理が並ぶことはあり得ず、というのは普段なら食卓の左手に新聞を広げて肘をついても尚大皿の二枚や三枚を置くだけのスペースは充分にあり、つまり『父』『母』『娘』の三者に対して食卓の占める面積は必要以上に巨大だということだが、今眼前の食卓上には新聞を広げるどころか肘をつく場も箸を置く場すらもないほどに食器が密集して置かれていて不自然極まりなく、今日は何かの記念日に違いないと思うが、では何の記念日かと思い巡らしても思い当たらず「今日は何の日だったっけ?」と顔の前に新聞を広げて『父』らしさを演じつつ顔を隠して何気なさを装いつつ『妻』に訊くと、「何言ってるの、あなたが帰ってきた日じゃないの」と帰ってきたというところを殊更強調してオクターブ上げて美津恵は言い、ビールを取ってなみなみとコップに注ぐその仕種はいつもの美津恵と何ら変わらず別段嘘を言っている様子でもないが、いや美津恵の嘘を私が看破したことなど一度としてないのでそれが虚言であっても私には分かろうはずもないのでそこには些かの嘘も含まれてはいないと思うしかなく、しかし会社からの帰宅が記念になるわけがないのでそこには何らかの遙かに巨大な空間的隔たりか時間的隔たりがなければならないのだが思い当たる節はどこにもなく、しかしどこから私が帰ってきたとの私の更なる問いを美津恵は無視して次いで自分のコップにビールを同じくなみなみと注ぎ、もうひとつのこれは他のふたつと違ってリアルな荒々しい熊のではなく戯画化された可愛らしいクマの絵柄がプリントされているコップにはビールではなくコーラを注いで「はい」と言って里美に渡して「それじゃ乾杯」と乾杯するとぐいと一息にビールを呷り、ビールが出るからには昼食ではなく夕食なのだろうと思いつつも訝しげにちびちびとコップの縁を嘗めている私を『妻』はなかば無視して宅配の恐らく私の好みを尊重して選んだのだろうシーフードピザMサイズ二十五センチをまず真っ先に取り分けてその際指に付着したピザソースを艶めかしくしゃぶりながら各皿に一切れずつ分配すると里美ともども猛烈な勢いで食べ始めるが、不自然極まりなくあまりにも非現実的なこの光景に戸惑い眼前の熱々のシーフードピザMサイズ二十五センチの八分の一切れに手を出し兼ねていると「あなたが食べなきゃ減らないでしょうあなたが主役なんだから食べて食べてほらほら」と嗜められてまたもや『父』の威厳を見せなければとの意識的無意識的作用によって箸を取るが、あれほど忌み嫌っていた中年太りに私をさせたいかのようなこの料理群にはやはり不審を感じるものの美津恵と里美の「食べて食べて」の攻勢には抗えず食べよう食べなければと唇に舌を這わせて程よく湿らせつつしばらくウロウロと宙を這わせたのち焦点を酢豚に合わせてその油と甘酢餡でコーティングされて艶々と艶めかしい光を乱反射させている肉塊を一切れつまんで口に入れるが、空腹だったこともあっていい具合にそれが呼び水となり箸は次々皿の上を飛び廻って料理を口へと運ぶが品数が半端ではなく、いくら私が大食漢だと言ってもこれだけの量をひとりで相手にすることはできず、またこれらの料理が決して料理好きとは言えない美津恵ひとりの手になるものとも思えないが、とにかく食べなければ悪いなと思ってしまったからには食べなければならないと片っ端から箸をつけていくが食べても食べても一向に減らず、一皿処分しても「まだあるよ」と前のよりも更に豪華な次の皿が登場して全体としての景色はまるで変化なく、いやむしろグレードアップして、ピザも酢豚もちらし寿司もフライドチキンも一口ハンバーグも肉じゃがも串カツも鰤の照焼きも餃子もシューマイも天ぷらもコロッケもメンチカツも鰺の開きも秋刀魚の開きも筑前煮もクリームシチューも春巻もビーフカレーもクリームシチューも蟹玉もオムレツも焼そばもグラタンも茶碗蒸しも刺身も麻婆豆腐もサンドイッチもちらし寿司も、食卓の真ん中の一際巨大な皿に天こ盛りに盛られたレタスやコーンやポテトやキュウリやトマトやアスパラガスやブロッコリーやカリフラワーやその他名も知らない各種淡色緑黄色野菜のサラダにしても、皿と皿の隙間を埋めるように各所に配置されて箸が伸びるのを待ち構えている小皿に盛られた佃煮や漬物や酢の物にしても、いくら食べても切りがなく大半がほんの少し手をつけただけで殆ど原形をとどめたままの形で残ってしまい、いくら何でもこんなには食べられないと根を上げると「何よこれっぽっち」「そうだよこれっぽっち」と非難がましく『母』と『娘』に言われるが、そう言う美津恵と里美は会話に忙しくて殆ど料理には手をつけず、お定まりの芸能人のスキャンダルから始まってボロ糞に罵り嘲って一通り話し尽してネタもなくなると次は身内の醜聞をサラダ代わりに論い始め、様々な噂が飛び交って現在一族の間で密かな話題になっている元住吉の叔母の遺産相続問題について勝手なことをこれはより多くの情報を持っている美津恵の方が主に喋り続けて里美は聞き役に廻って巧みに話を引きだし、それからその元住吉の叔母の三女の法子の嫁ぎ先での嫁姑問題について一齣あり、その姑が何でも孫の私立小学校入試合格祈願にどこやらの霊験あらたかなお社に出掛けたとかいうことだが、よく聞くとそれがどうやらあの疾うに廃れて廃墟と化して誰にも顧みられなくなった階段らしくお札もお守りも何も手に入らず虚しく帰ってきて嫁のその元住吉の叔母の三女の法子には黙っていたがいつか露見して散々厭味を言われたということで、その厭味の一言一言を俎上に乗せてはひとつひとつ精緻に分析批評するのをそのすぐ脇で聞くともなしに聞いていると、話はいつかその階段のことにシフトしていて「ねえねえ聞いた? 例のお堂取り壊されるんだってね」「そう」「階段どうなっちゃうんだろ?」「さあ、どこかに移転でもするのかしら? あなた聞いてない? 階段には詳しいじゃない本とか沢山集めて」と急に振られて酢蛸を喉に詰まらせて噎せ返るが、その話は初耳で驚くというよりは唖然とし愕然となって長年私の根本根底を支えてきたと言っても過言ではなくその存在の一部をなしているとも言える私とは切っても切れない関係にあるこの階段が破壊されるということは私の根本根底が破壊殲滅されるも同然で、この世から階段が消え去ればそれと同時に私の存在そのものもこの世から消え去りなくなり霧消してしまうのではないかとまで思え、そう思うと空恐ろしくどう答えたらいいのか言葉に詰まり、ビールとともに酢蛸を嚥下してもまだ答えに詰まっていてそれまで私の意思を殆ど無視するように食卓上を忙しなく動き廻っていた箸の動きも静止して思案に暮れてしまうが、それでもようやく言葉を捻りだせそうだと俯いていた顔を心持ち上げると話頭はすでに転じていて美津恵も里美も私など眼中になく、何が可笑しいのかケラケラケラと笑っている二人の姿を唖然として眺めていると「何? どうしたの?」と二人して言って訝しげに私を見つめるが、「変なの」と里美が言って『母』と二人頷き合うと「そうそうそれで紀子ちゃん、なんて言ったと思う?」と直ぐさま他の侵入を許さない二人だけの世界に没入していき、私は食べ切れない大量の料理の前にひとり置き去りの状態になって虚しく箸を突つき廻しつつ青腐れ掘っ建て小屋の周辺へと再び沈思していくより他ないのだった。
階下から響いてくる美津恵の鼻唄交じりの妙に楽しげな食器を片す音カチャカチャと里美のテレビに笑い興じる笑い声キャハハとの混合された音カチャキャハカチャキャハを背後に聴きながらパンパンに膨れ上がった太鼓三段腹を下から両手で支えるように添え持って臨月間近の妊産婦の足取りで右左右左ヒイヒイフウフウ右左ヒイフウと一足一足慎重に階段をギシギシ軋゛ませながら二階に上がりつつ心持ち振り向き返ってチラと下方を流し目見ると、果てしない無限階段の真っ暗闇底淵が真っ暗く、首を元に巡り戻して前を向いて最後の一段に右足を乗せようと左足に体重移動し掛けたところで何が起きたのか体がフワリと二センチほど浮かび上がり、そのため足を踏み外して忽ち上下逆さまになるが転げ落ちることもなく体はそのまま宙にあり、漂うようにゆっくりユラユラと後ろの方に流れていく感じに動いていき、そのユラやかな流れに乗っていつまでも後方へと漂い続けていると背後から音もなく忍び寄ってきた春信がその円らかな両の瞳をパチクリさせて歓迎の意を表しつつ「遅かったな」と言って私の右横に並漂し、私が「食べ過ぎちゃってね、見てくれよこの腹」と胸まで顕にシャツを捲り返して見事に半球上に膨れ上がった三段大太鼓腹を曝してポンと叩くと、意外にそれがいい音色で階段に反響するのに春信も賛意を示して「立派な腹芸だな」と無邪気にクツクツと笑い、遙か遠くから微かではあるが今も聞こえている美津恵の鼻唄に調子を合わせて道化たようにポポンポンと三段腹大太鼓を叩くと、淫蕩この上ない愉楽の極みの至妙至言至高至福のえも言われぬ階段の軋みには遙かに及ぶべくもないがそれなりに艶かしさを伴う快感はあり、ポカリポカと叩き続けているとその妙なる音色に引き寄せられてかマネキンのイクミ氏に蒲団男に柴犬似の雑種の犬に火星人のナオヨシ氏に弟のハルノブに見目麗しい色白の智良が、前後上下左右から漂い流れてきて私を取り囲むように並漂して皆にこやかに笑みつつ私の大太鼓三段腹鼓を聴いてくれるので、その寛大な聴衆を前にして私は更に道化てポカポカリポカポポンと叩き続け、その私の三段腹鼓大太鼓の妙なる調べはいつまでもどこまでも蜿蜒と婉々と果てもなく響き渡っていくが、頭の片隅ではそろそろ食事の支度に起きださねばという思いがあり、視野の隅にようやく捉えた白くぼうっと浮かび上がる冷蔵庫の中味が気にもなり、更には階下から私を呼ぶらしい美津恵の声里美の声がするような気もして、どっちにしてもとにかく半身起こさなければまずい泥のように眠りこけていてはいかんとは思うのだがどういうわけか体が言うことを聞かず、仄かに香る杉の香りに神経が麻痺したように青畳に吸着してビクとも動かず、つまり流れには逆らえず、皆とともに漂い流れ彷徨い続けて皆の期待に応えてポカポコポカリポコと大太鼓三段腹鼓を軽快に鳴らし続けるしかなく、またそうすることが私にとっても無上の歓びだということは分かっているのでポカポコポカリポコポコリと大太鼓三段腹鼓を鳴らし続け、だから私は人形なのだと思うのだし事実人形なのだったが、それを悲しいとも嬉しいとも虚しいとも恐ろしいとも思うことはなく事実は事実として受容するだけだと思うがそんなことは人形は考えもせずただ人形として人形らしくそこに存在しているだけだと思うとひどく可笑しくなり、ひとりクツクツと笑うその笑い声はどこまでもどこまでも響き拡がっていくのだった。
─了─