その蒲団男の落ちていく姿は風に舞う落ち葉か何かのように軽やかでまるでヒラヒラと階段の上を楽しげに漂うようで、一瞬ほの見えたその顔には死を眼前にした者のみが泛べ得る彼岸へとなかば踏み込んでいるような刹那的な哀切この上ないというようなそれでいてどこか悟り切ったような突き抜けた凄味のある笑みを超越したような笑みはなく、じつに軽やかでじつに柔和でじつに穏やかでじつに静かでじつに屈託のない母に向けて幼児のはじめて泛べる笑みにも似た極めて純度の高い微笑が泛んでいるようにも思えたためその一部始終をすぐ脇でほんの目と鼻の先で見ていたにも関わらず落ちているのだという認識はまるでなく、だから事態の深刻さに気づくまでに相当の時間を要し、それにハタと気づいてほころび掛けた頬をキリと引き締めたときにはすでに蒲団男の姿は階段上のどこにも見えず闇に呑まれて消え去ってしまっており、私は一人踊り場に佇んで裸百ワットに照らされていてそんな自分が見かつ見られるものとしての存在でしかなく、たとえ自らの意思で動き思考し話すことのできるマネキン人形のさらに上をいく超マネキン人形と言えども闇に陰に棲息する反マネキン人形と言えどもマネキン人形の一様態であることに変わりはなくどう足掻いてもマネキン人形ならざる何物かに変貌することなどできないしそれ以外の現実との関わり方などあり得ようはずもないのだということをまざまざと思い知らされたような気がし、そのような自分が腑甲斐なく情けなくそのような自分を思うだけで憎悪にうち震えてこのプラスティック製のがらんどうの体が励起するが、今まで外向きだった憎悪の全てが逆流して自分の方に向かってきて、憎悪のみが原動力だった私のその内向きの憎悪は想像以上に激しく、その内向きの憎悪の奔流に押し流され押し潰されて気も狂いそうなほどで完全に正体を失っていてブツブツと何やら唱えるように喋り続けているが、何を言っているのかは他に何の音もしていないにも拘らずまるで聞き取ることができず、私も春信もマネキンのイクミ氏が突飛な行動に出ないよう充分監視はしつつもその処置に困じ果て、ブツブツと何かを唱え続けて自ら動こうとしないマネキンのイクミ氏を両脇から私が右腋を春信が左腋を腕組みして抱え込んで部屋に連れ込み、壁に背を凭せ掛けて坐らせてただ見守ることしかできないが、膠着したマネキンのイクミ氏を横目に食事するのも気が引けたし睡眠も殆どとれないまま膠着したマネキンのイクミ氏の監視態勢を維持しつつ翌日の朝と言っていい時間になり、その頃になってようやく正体を取り戻し始めたマネキンのイクミ氏に熱いお茶を入れて持っていき、「具合はどうです?」と様子を窺いつつ湯呑みを差しだすと、「だいぶいいです、お陰様で。済みません、なんか、ご迷惑掛けてしまって」と心から済まなそうな顔をして言って私の手から湯呑みを受け取ってその熱いお茶を口許へ持っていき掛けるが不意にその動きをピタリととめて湯呑みの中を訝しげに見つめているのを不審に思い、「ゴミでも入ってます? 入れ直しましょうか? 新しいのと」と訊きつつそのマネキンのイクミ氏の抱え持った湯呑みの中を覗き込もうとすると、「いや茶柱が」とマネキンのイクミ氏は言って覗き込むサトシ氏のその顔の前に湯気の立ち上っている湯呑みを差しだして示して何か抑えがたい誇らしげな気分が沸き立ち上ってくるのをこのがらんどうの身の内に犇々と感じつつ「茶柱です」とくり返し、「本当だ」と私が言うと「茶柱」と小さく呟いて一、二秒逡巡したのち意を決して毒でも呷るかのように一口ゴクリと音立てて飲むが、手から伝わり口から伝わるその茶柱の立つお茶の熱エネルギーは体中に過不足なく均等に伝播し、その茶柱の立つお茶の熱エネルギーの伝播が私の不具合を調整するようにも思えて立てつづけに二杯三杯と杯を重ねて六杯目をサトシ氏から拝受したところで春信が支度ができたと三人分の朝食を盆一杯に重ね乗せて運んでくると、そこで初めてそれまでどこか釈然とせず妙に毳立っていた神経と緊迫していた空気が和らぎ和んで、すでにタブーの領域にある蒲団男のことには一切触れることなく海苔の佃煮と烏賊の塩辛と沢庵漬と紫花豆の甘煮と焼海苔と吸物でコシヒカリを食べ、食べ終わった食器を今度は聡志が盆に乗せて運び去り、流しのお湯の流れる音とそれが食器に撥ねる音と食器の触れ合う音を聞きつつ満腹の腹に怠惰な気分を漂わせながら片づけが済むのを待ちつつ粒餡の大福餅を一個満腹の腹の隙間に埋め込むように食べ、まだいけるともう一個食べ、片づけが済めばもう部屋には用はなくすぐにも出発ということにいつもならなるはずで、殊に蒲団男の事故直後でもあるだけに今すぐにでもこの場をあとにしたいと三人ともに内心思っているのだが、マネキンのイクミ氏の容体を顧慮してここにしばらくとどまることにし、幸い都合よく向かいの部屋には大型の殆ど壁一面を埋め尽しているワイドテレビとレーザーディスクプレーヤーとそこそこのステレオセットと壁一面の棚に隙間もなく納められたレーザーディスクがあり、そのため四畳半が二畳半ほどになってしまっていて春信が眉根をよせてあからさまに嫌悪の情を示しはしたもののレーザーディスクそのものには興味を示してそれを端から観ていくことで有り余って持て余していた時間を無駄なくと言えるかどうかは別としてとにかく消費することもできると、早速レーザーディスクプレーヤーとステレオの電源をそれぞれのリモコンで入れテレビ本体の前面右下にある主電源を入れてテレビを点けてテレビのリモコンの入力切り換えボタンでビデオ1にすると、青々しい画面が青々しく映しだされ、ブラウン管からのその青々しい光を受けて青々しくなった四畳半の二畳半でテレビの前に畏まり、映画鑑賞に煎餅その他乾き物は厳禁と漉餡の饅頭に粒餡の大福に鶯餡の今川焼とそれぞれ好みの乾き物ではない和菓子を補充分も併せて大量に用意しお茶も入れ、春信が棚を物色してとりあえず選んだ五枚のうちの一枚のディスクをプレーヤーに挿入して再生ボタンを押すとグイイインとモーターの音が鳴り響き、続いてウイイインとディスクの回転する音が静かに響いて再生が始まり、二時間九分一八秒後にそれが終わってディスクが静止し画面が再び青く染まると余韻を味わう暇もなくその青光に急き立てられるように慌ただしく次のディスクと交換してそれを観、終わるとまた次という具合に順々に観ていき、そのようにして朝から晩までいや夜中まで、下手をすると翌日の朝までぶっつづけでビデオを観つづけていたのも外に何をすることもなく暇を弄んでいたからだが、といって美津子との間に亀裂が生じたというのでもなく月に一度はこっちに来るし月に一度は私もあっちに行ってお互い詮索的になることもなく円満なのだが、ただその空間的隔たりがハラリと垂れてきた前髪のように鬱陶しく、それを払い除けようとして休日になると闇雲にレンタルビデオ屋に走りビデオを借りまくり見まくっていたのだが、その映像音声の効果に視覚聴覚が慣れてしまって麻酔でも打たれたようにそれに眩惑されることもなくなると誰もいない部屋に一人いることの空しさに耐えきれず気がつけばフラフラとさまよい歩いており、それが飲み歩くようになった端緒にもなってそれまでは誘われても三度に二度は断っていたのが三度ともつき合うようになり、更にはこっちから誘うようになってそして遂にはあいつとの邂逅に至ったのだと明滅する画面を凝視しつつ頭の片隅でぼんやりと回想しながらレーザーディスクを観続けたため二、三日もするとくたくたに疲れ果ててしまうがなぜかやめることができず、聡志もマネキンのイクミ氏も白眼を真っ赤に充血させて眩しそうに眼を細めつつも変幻する画面を観つづけて休憩しようとも言わず、食事も殆ど和菓子で済ませて殆ど義務のように感じつつ何かに取り憑かれでもしたような憑依的眼差しでレーザーディスクを観続け、そうやって四畳半の二畳半に籠りきりで途中春信の退出が幾度かありはしたものの二週間近くに及んでレーザーディスクを観続けても部屋にある総てのソフトを観尽すことはできなかったし仮にここにある総てのソフトを観尽し得たとしても闇に舞い闇に消え闇と化した蒲団闇男の成仏が保証されるわけでもなければ供養になるとも思っておらず、況してやその復活を祈念し成就しようということでもなくただ何とはなしに一枚観終われば次の一枚というように工場の生産ラインのように流れ作業的に観続けていたのだが、マネキンのイクミ氏の体調がいつでも再出発可能な状態にまで復調したためいつまでも観ていても仕方がないとようやくそこで区切りがつき、するとそれまで重くて重くてしょうがなくトイレに立つのさえも億劫に感じていた腰がいとも容易く持ち上がってすっくと立ち上がり、未練げもなくそのレーザーディスクの四畳半の二畳半をあとにして、それでも随分気保養にはなったと頷き合いつつまた上を目指して上り始めるのだった。
上り始めれば全神経を軋みに集中してそれに没入没頭してそれだけを聴いてそれだけを感じてそれだけに歓喜してこれこそ切実に希求していたものでこれ以上の悦びかあろうかあったら教えてくれいやあるはずがないと身もだえくずおれそうになりながら足を踏み締め上へ上へと上りつづけて何をあれほどレーザーディスクに夢中になっていたのかと今更ながら不思議に思って互いに首を傾げ、「いい休息にはなったけど」と振り向きざま軽快な軋みを奏でつつ先頭を上る春信が言うと私もサトシ氏も頷き、「だからあれは階段の休息しろっていう計らいなんですよ」と私の所見を述べるとハルノブ氏とサトシ氏が前後で「違いない」と和やかなユニゾンで応じ、誰も口にこそ出さないものの顛墜したというよりは舞い飛んで昇天したと私自身は思っている蒲団男への鎮魂の意味をもその一踏み一踏み一軋み一軋みに込めて、淫蕩の極みとも愉楽の極致とも言える軋みをギシギシミシリギシギシミシリとここぞとばかり思いきりかき鳴らして仄かに薫ってほどよい薬味になっている杉香とともにその軋みのギシギシミシリに喜悦し歓喜して上りに上って上り詰め、今心地よい軋みを掻き鳴らして階段を上っているこの三人の姿の俯瞰的映像がふと脳裡に浮かび、その三人の像があの宇宙人三人組トリオの像とピッタリ重なって見え、私と春信とマネキンのイクミ氏の三人があの宇宙人三人組トリオの言っていた見事に息の合った不即不離の三位一体のような気がし、それが何か吉兆のような気がして喜ばしく思う一方で火星人のナオヨシ氏の不慮の事故を思うと凶兆のような気もして不安を感じて吉兆なのか凶兆なのかあるいは単に気の廻しすぎなのか判断に迷ってひとり逡巡していると、それが足並みを乱し軋みを乱す一因となったのか前を行く二人が気づいて同時に振り向いて私を気遣うように「どうした? 気分でも悪いのか?」と声を掛け、「いや何でもない」とは言うもののその軋みの具合からみて尋常ではなくその心内に何かわだかまりがあるのは明らかで、やはり聡志も私と同様犯罪者で逃亡者で隠遁者なのではないかと思うもののズバリ核心を突くこともできないので「そうか」と一言返すにとどめるがひとり足並みを乱すのは悪いどころか下手をすれば蒲団男の二の舞だと思うところを打ち明けて二人に判断を委ねると、マネキンのイクミ氏は吉兆だと言って手放しで喜んで「三位一体三位一体」と言いつつ楽しげに軋みを掻き鳴らすが春信は眉を顰めてパチクリと凶兆だと言って重く沈んだ軋みを響かせて意見が分かれてしまったものの、それで私たち三人が空中分解してしまったわけではもちろんないが何か釈然としない痼りが残っているのも事実で、それが軋みに影響しないはずはなく、ごく僅かだが変化を見せてはいるものの気にするほどの変化でもなかったのでこの日は無事に登攀を終えて顎から滴る汗を拭いつつ踊り場の部屋へと入ったのだったが、春信は私以上に私の言った言葉を気にしているらしく、マネキンのイクミ氏の焼いた一枚二五〇グラムの分厚い牛ヒレ肉に手製の特製ステーキソースをふんだんに掛けたそのステーキ二五〇グラムに手もつけずにひとり沈思して浮かない顔をしており、「口に合わないですか?」と訊かれて初めて眼の前に分厚い牛ヒレ肉のステーキ二五〇グラムがあるのに気づいたというように「うまいうまい」と言いながら物凄い勢いで食べだすが、その取り繕うような素振りがいかにもわざとらしく見え透いていると自分でも分かってはいるものの久しぶりに現れたそいつを眼前にして肉を味わう余裕などあるはずもなく、さらには耳元でお前は火星人のナオヨシだあの落ちたナオヨシだいや弟のハルノブだ蒲団男だシゲヨシの再来再臨の柴犬似の雑種の犬だと延々呪詛のように唱えつづけるそいつの怨言を聞いてはそんなふうにしか振る舞えず、ただ消え去ってくれることだけを願い念じていたための食膳への無配慮無関心で他意あってのことでは決してなく、私たちが階段の軋みを唯一の愉しみとも生きる糧とも思っているように、そいつは私を苦しめ苛んで取り殺すことが唯一の愉しみだというように消えるのはお前だ消えるのはお前だとくり返しくり返し言って憎悪の固まりのような笑いをケケケと笑うのだったが、言葉もなくただ困惑げに見つめているばかりのサトシ氏の様子からもハルノブ氏のその急変が異常事態にほかならないということは容易に見てとれるし、どうにかしてその異常事態を収めて終息の方向へと導く手立てはないものかと、私のほうへの波及を怖れてというのではなく純粋にハルノブ氏の身を案じて思うものの、古くからの知己だというサトシ氏さえもが困惑して手を出しかねている始末だというのについ先日知り合ったばかりで何の事情も判らない門外漢の私が何の役に立ち得ようかとも思い、しかしだからと言って部外者然として何もせずに黙って分厚い牛ヒレ肉のステーキ二五〇グラムをバクバク食べているだけというのも血の通わないマネキン人形だから他者の苦悩に何ら痛痒を感じないのだと思われもしそうで、何かせねば何かせねばと気ばかり急いて却って思考は混乱し錯綜して頬から顎に掛けて走っているヒビ裂け割れた傷口の辺りをヒクヒクと変な具合に痙攣させて何とも形容しがたい表情を浮かべて春信の様子を窺い窺いしているのを見ていて忍びなく思いはするものの、私にしてもマネキンのイクミ氏と同様手を拱いていて友達甲斐のない奴と思われはしないかと危惧するが、どうすることもできず事態の自然的終息をひたすら願うしかなく、そんな私を見つめる二人の視線をひしひしと感じ、その二人の視線に絡みつき纏いつくようにして見つめるもう一人の憎悪に狂った視線をそれが幻影幻像幻覚であり私の創り上げた虚像だと知りつつ無視することもできず、その虚像に翻弄され苛まれ苦しめられ押しつぶされそうになって、いや押しつぶされて今まで一度として彼らの前では声を上げなかったのを思わず「もうやめてくれ」と二人の注視するなか口走ってしまってからしまったと右手で口許を抑えるが、言葉の発せられたあとのその行動には何の意味も実効力もなく二人の耳にはそれはしかと届いたはずで、さらにはそのあとの慌てて口許を抑える動作がそれを肯定してしまっていて、しかもそいつは私にだけ存在していて二人には存在していないのだから二人はその言葉を自分たちに向けて発せられたものと理解したはずで、「いや違うんだ」と春信はすぐに前に発した言葉を否定するが、何が違うのかが分からないし抑も何にそれほど苛立っているのかすら理解不能なために返す言葉もなく、やはり困惑げに二人は私を見つめてなにがしかの返答を期待する面持ちで黙り込んでいるのでどうしてもすべてを説明しなければ弁解のしようもなく、私と彼らとの間に生じようとしている放っておけば深い溝深淵ともなりそうな亀裂の萌芽を逸速く摘みとるためにもどうしても避けて通ることはできないのだとここに至って思い極め、そもそもの始めから、あの日あの店の暖簾を潜ったところから、急に降りだした痛いくらいの雨に追い立てられるようにしてほんの雨宿りのつもりでそれ以外の理由は何もなかったので雨さえ降らなければ恐らく眼を止めもしなかっただろうあの店に、手垢にまみれ薄汚れてほつれかかった暖簾が見すぼらしく垂れ下がっていた名前すら覚えてはいないその店に、決して繁盛しているとは言いがたい傾いて倒れる寸前のような客層も人品よからぬ怪しげな連中ばかりで席の埋め尽されたやけに埃っぽくて窮屈でお世辞にも居心地がいいとは言えないあの店に、一歩足を踏み入れた途端にその首がグルリと回転してこっちを向いたそこにいるすべての人の詮索するような衣服から何からすべてを剥ぎとるような鋭い強烈な視線に注視されて聊か萎縮し気おくれを感じたもののなかば半身を店内に差し入れてその敷居をまたいでしまっていて踵を返すことができずに仕方なく後ろ手に扉を閉めたところから、順を追って逐一何もかも洗いざらい話すしかないと思い極めて語りだす春信の視線は時どき何もない空間を何が気になるのかチラリチラリと窺い盗み見る様子で落ち着きもなく、その不可解な行動が解せないと言えば解せないものの思えばあの雨すら偶然ではなく必然で私を呼びこむための誘い雨囮罠だったのだとの確信を次第に強めつつ一部始終を二人に語り聞かせる間もそいつの呪詛怨言は止むことなくつづいて私を惑わし揺さぶって、ふとそれに対する解毒作用無化作用があるような気がして分厚い牛ヒレ肉のステーキ二五〇グラムで卓袱台が塞がったために脇にのけてあった粒餡の大福餅を口一杯に頬張って一粒一粒の小豆を舌先舌横舌裏で確認して一つ二つとその数を勘定しては噛み潰し嚥下してガブガブと何杯ものお茶を飲むのだった。