階段の軋みの目眩く快楽を心行くまで堪能し味わい尽して、一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人と、数が増えれば増えるだけそれだけ軋みの愉楽の度合も増すような気がする、いや実際に増しているとマネキンのイクミ氏が断言するのに皆箸を動かす手をとめて頷き、程よく運動してその扇情的な軋みの今にも頽れてしまいそうなほどの愉楽を堪能したあとの食事は殊更に美味しいと蒲団男が言うのにやはり皆頷いて飯を掻き込み頬張り咀嚼し嚥下して、それぞれ自分の皿の上にある脂の乗った塩鮭の切り身をその塩鮭の脇にある小口切りした浅葱を散らしたなめこと椎茸の熱い味噌汁を塩鮭を基点にして味噌汁と対極の位置にある小皿のなかの淡い黄色に染まった沢庵漬をこれ以上のものはないと絶賛し、「でも男四人というのはちょっとむさ苦しかないか?」と春信が言うのに皆頷き笑ってなめこと椎茸の熱い味噌汁をズズッと啜゛り、「そのうち絶世の美女が現れるさ。遙か上の無限遠点の彼方でおれたちが来るのを大股広げて待ってるかもしれないぜ」と人参と蒟蒻の白和えを突つきながら冗談めかして私が言うのを、そのようなご都合主義的な事態が出来することなどあり得ようはずはないし第一愉楽の極みとも言える陶酔を齎してくれる階段にそれでは申し訳が立たないのみか階段に対する裏切りに等しく階段を上る者はただ階段の軋みをこそ甘受享楽すべきで女なんぞに現を抜かすなどは以ての外でそのような邪念邪想を温存していては全き軋みを愉楽することなどできはしないと皆言いながらも満更でもなさそうで、各自思い思いその隈なる姿を眼に浮かべたりなどしているらしく、薄い笑みを仄見せつつ咀嚼して白米と塩鮭と味噌汁と程よく混ざりあってペースト状になったものを頃合をみて嚥下し、そのようにして昼食を済ましてお茶を飲みつつしばらく款談して態勢を調えてからその部屋をあとにして再び上を目指して、いや遙か上の無限遠点の彼方で私を私たちを待っている架空の理想の女性を目指してと言うべきか、心做しか足早に階段を上っていくが、私がギシギシと軽快に階段を軋ませれば春信、蒲団男、マネキンのイクミ氏の三人はそれに答えるようにミシミシと階段を軋ませ、私がギシリギシリとのびやかに階段を軋ませれば聡志、蒲団男、マネキンのイクミ氏の三人はミシリミシリと階段を軋ませてそれに応じ、私がギシミシギシミシと勇壮に階段を軋ませればサトシ氏、ハルノブ氏、マネキンのイクミ氏の三人はギシリミシリギシリミシリと階段を軋ませて凱歌を掲げ、私がギギッシギギッシと階段を軋ませればサトシ氏、ハルノブ氏、蒲団男の三人はギミッシギミッシと階段を軋ませ、その四人の掻き鳴らす軋みはいい具合に混ざり合いブレンドされて微妙な妙なる心地よい至福至上の調べとなって階段中に響き渡り、その音を立てている私たち四人を悩ませ歓喜させ身悶えさせ陶酔させていつしか忘我の境をフラフラと彷徨うように皆意識朦朧となり口を半開きにして涎タラタラと今にも頽れそうになり、足だけはそれでも前へ上へと押しだし引き上げて次の踏板を踏んでえも言われぬ響きで階段を軋ませてその愉楽を愉楽するが、一時とは言え遙か上方の無限遠点の彼方で私たちが来るのを待っているかもしれない女性などという邪念邪想を思い浮べてほくそ笑んだりしたことに強い後悔の念をいだき、そのような離反的行為をした者にさえ尚尽きることのない愉楽を与えてくれる階段に感服し、それ以外の一切を棄て去ってただ階段だけを思慕し畏敬すればいいのだと改めて思い、そのように思慕し畏敬し称美讃歎しつつ軋みを掻き鳴らすともうこれ以上のものはなくこれが極限だと感じていたその愉楽が更にも倍増して降り注がれ普く満ち渡って全身を浸し、遂には私自身愉楽そのものになってしまうのだった。
私には手頃で居心地よい頗る快適な空間なのだが春信にとっては手狭で窮屈で息苦しくい穴ぐらか牢獄のようなものでどうにもいたたまれず酸欠になりそうで、いやすでにその兆しは僅かだがあって私の呼吸音はヒュウヒュウと鞴のような音を立て始めていて、この狭四畳半に四人相部屋ということは一人頭畳一畳八分の一ということだが茶箪笥やらテレビやら何やらといろいろ置かれている分をさし引くと正味一畳を割ってしまって蒲団を敷けばそれだけでもう空間は埋め尽されてしまうのでとてもこんな所に寝ることなどできない無理に決まってると私と蒲団男、ハルノブ氏とサトシ氏の二組に別れて踊り場の向かい合った部屋にひと先ず落ちつき、シャワーに汗を流しビールに喉を癒しなどして各自しばらく休憩したのち四人が一部屋に集って一つの卓袱台をグルリと囲んでの晩餐となるのだが、昼は蒲団男の手料理を馳走になったので夕食は私たちの部屋に蒲団男とマネキンのイクミ氏の両人がやって来る手筈で早速夕食の下拵えに掛かろうと春信とともに各部屋に備えつけのこれだけは一貫して不変の揃いのダークブルーの無地のエプロンをつけてシャツの袖を肘までまくり上げて台所に立ち、その中味によってその日の献立を考えるというのがまた楽しみのひとつでもあり、今日は何があるのか海の物か山の物か肉か魚かと毎回その瞬間は緊張すると互いに言いつつ冷蔵庫の扉の把手を春信が開けたそうなのを先越して掴んでグイと引き開けて青白い蛍光灯に照らしだされたその中を差し覗くと、新鮮な食材やら未練を残しつつ置き去りにしてきた前日の残り物までがご丁寧にきちんと整理されて何でも随意に作ってくれと零れそうなほどにもびっしりといつもなら詰まっているはずなのだが今日に限ってそこには何もなく何ひとつなく、つまり空っぽのがらんどうで、まるで購入して今届いて今梱包を解いたばかりの冷蔵庫を今初めて見るようにそこには一切食べるものは納められておらず、庫内の青白い明かりが空っぽの空洞を冷たく照らしているのが何もないということを強調するようで余計寒々しく思え、こんなことは初めてだと驚き慌てふためいて左脇に肩を接して並んでいる春信の方に縋るように顔を向けるが、春信は驚いたふうもなく妙に落ち着き払ってじっと庫内を眺めつつ「珍しいこともあるもんだな。ま、こっちになければ向こうにあるさ」と単調に言い、「ちょっと行ってくる」と空っぽの冷蔵庫などには眼もくれずに向かいの蒲団男とマネキンのイクミ氏のいる部屋に行こうとするが、その何の疑問もないような素振りに呆れて「おかしいと思わないのか?」と言ってその手を取って引き止めるが、「その方が効率的だよ、実際」と春信は笑って言って取り合わず、ひとり部屋を出ていくその春信のあとを私は追わず、というより扉を開けたままの青白い光とうそ寒い冷気が外に漏れ出ている空冷蔵庫の前に坐り込んでその青白い光とうそ寒い冷気に縛られて動くことができず、部屋を出ていく春信の後ろ姿を眼で追うのが精一杯で、静かに閉じられたドアの向こうに春信が行ってしまうと眼持ち無沙汰になったその目線は自然と冷蔵庫へと引き戻されてひとり空っぽの空洞を眺めながら混乱した思考を整理しようとするが、整理しようとすればするほど尚更混乱してわけが分からなくなったので考えるのはやめにして前屈みになっていた上体を起こして後方の床に両手をついてその両手に体重を掛けると、音量こそ小さいものの階段と同じように台所の床板が心地よげに慎ましやかにギシギシと軋゛んで「ああ、ここもいい音するな」と独語し、それが何か物凄い大発見のような気がして嬉しくなって何度も床板をギシギシと軋゛ませてその台所の床板の慎ましやかな軋゛みに気を紛らしていたが、開けっ放しの冷空蔵庫から流れ出る冷気を浴び続けたせいで寒気を感じて「さぶっ」と呟きつつ扉をバタンと閉めるが、尚もその場から離れず、いや離れることができずに冷気にガチガチに凍りつき思考まで凍りついたようになって台所の板場に尻を据えたまま茫然として、この空っぽの冷蔵庫は何かの予兆ではないかとようやく溶けだしほぐれてきた思考でぼんやりと思い、それなしには生もあり得ない生の本源である食を体現している冷蔵庫の空虚は即ち生の空虚をつまり死を意味しているようにも思えるが、この階段におけるの死が何を意味するのかが今ひとつ分からないのでそれが嬉事快事へと導く良き予兆なのかそれとも禍事凶事へと引き摺り込む悪しき予兆なのかやはり今ひとつ釈然とせず、一体どっちなのかと更に思考を展開させようとしたところへこれも冷蔵空庫の冷気にやられたというような蒼白で薄っぺらな顔をして春信が戻ってきて、私の前に立ち竦んで言葉もなく項垂れているのでやはり何かあったのだ向かいの部屋にもどうやら食材はなかったらしいと推測して今後の食料確保を如何にすべきかと些か不安に思いつつ「あったか?」と訊くと、それには答えず「蒲団男が…」と言って春信は絶句し、そこで力尽きたとでもいうようにヘナヘナと座り込むのをその先は訊かなくてもすでに察しはついているが訊かずにはいられず、「蒲団男がどうした?」と私の肩を揺すぶって執拗に訊くが、それを言うことでそれが現実として確定してしまうように思えたのでその言葉は口にしたくはなかったが、答えなければいつまでも揺すぶっていそうな勢いで聡志は訊くので一言「落ちた」と予想通りの言葉を春信は努めて感情を排して自らに言い聞かせるようにいやに素っ気なく言ってまた項垂れてしまうと、それ以上は何を訊いても答えは返ってこないのだった。