友方=Hの垂れ流し ホーム

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十段

聡美と晴伸

弟のハルノブは朝から元気がよくひとりハイテンションで唾を飛ばして喋り捲るのが常で、それがこの太陽がないために朝日も射さない階段のメリハリのない確かに朝なのかどうかも釈然とせず時計朝刊テレビなどの薄弱な状況証拠によって辛うじてそうなのかと判断できるに過ぎない沈滞的退嬰的な気怠い朝の雰囲気を、その空吹かしの空廻りにも思える弟のハルノブの饒舌が随分明るく華やいだ如何にも朝らしい雰囲気にしてはいるのだが、前夜のことで相当姉に嗜められたらしく、いつになく静々黙々と大人しく食卓に就いた弟のハルノブはまるで人が変わったように無口で静まり返って唖黙っており、そのため座は忽ち重く暗く淀んで明かりの光線の具合が変なのかどことなくちぐはぐに感じて食もあまり進まず、更に一日それが尾を引いて階段を上るペースも乱れ足並みも乱れてばらついたために軋みもギリギリギイギイと不快に残響を震わすばかりで気が散って落ち着かず苛々して少しも心地よく感じられないので陶酔郷へ至るには程遠く、それでも足並み揃えようとイチ、ニ、イチ、ニ、右、左、右、左と掛け声掛けて上るのだが、揃えようとすればするほど掛け声ばかりが上滑りして却って乱れに乱れて収拾がつかなくなり、そのうち足が重くなってきて段差のたった二十二センチ足を持ち上げることさえ儘ならず、誰もが疲労を感じ上ることの困難を訴えたため昼で切り上げることにして食後はずっと部屋に籠って雑話に打ち興じる他なかったが、話すことと言っても共通の話題はこの階段のことくらいしかなく、且つまたそれが最も盛り上がる話題でもあるため、その階段に対するイメージだとか思い入れだとか疑問や不審などを各々話したのだったが、階段に関する文献蒐集に没頭していて最もそれに精通しているということで疑問は主に私に向けて発せられたが、文献と言ってもその殆どが噂や風評や諺や言い伝えの類いに過ぎず、数少ない科学的研究にしても異端学者の異端研究ばかりでその信憑性は薄く、互いに矛盾していることも多いし全く正反対のことが書かれているものもあり、そしてそのどちらが正しいとも判断できないためにそこから一貫したイメージを抽出することさえできず、つまり見る者によって階段は全く異なる存在に映り、いや映るのではなく全く異なる存在としてあって階段そのものの実体などというものはないに等しく、それが階段の様相だとしか言いようがなく、それらの文献はだから何の役にも立たず却って混乱を招くだけなのだが、しかしそれは見る側の問題であって階段の問題ではないのではないかと言い、「いや確かに階段は人によってその様相を変化させているらしくて、一人として同じものをそこに見出すことはないらしいんだ」とサトシさんは言って多くの文献の名を指折り上げてその梗概を事細かに説明してはくれるのだが、私には何がなんだか理解できず眠気を誘うだけだったので鋒先を変えるため「階段の果てってどうなってるんです?」といつも気になってはいたものの到底私の手に負える問題ではないと考えないようにしていた疑問をぶつけると、「さあね、分からない」とサラリと言ってそれ以上気にも止めない様子なのに驚き、「気になりませんか?」と重ねて訊くと「ならないこともないが、そんなこと気にしたって仕方がないし、第一それを突き止めようと上っているわけでもないからね」と言い、「それにそんなふうに問うのは宇宙の果てのその向こうはどうなっているのかとかビッグバンの前はどうだったのかとか問うのと同じで意味のないことだと思うけど」と言って聡志は私の方を向き同意を求めるふうに頷くが、私にも聡志の言うことがよく飲み込めず曖昧に頷いて顔を逸らすと正面の姉のサトミさんと眼が合い、姉のサトミさんが私の気持ちを察したのかニコリと笑みを浮かべたのに釣られて私もニヤリと笑うと、その苦りきった顔がなんだか変に可笑しくてつい声をだして笑ってしまって、すぐに「ごめんなさい」と謝りはしたものの可笑しさは減じることもなくさらにも増幅されて襲いくるので笑いはとまらず、そうなってしまうともうダメで三人の男のキョトンとしたいかにも間のぬけた顔に見つめられていつまでも笑っていたら、そのうちその笑いが皆に伝染してハルノブさん、サトシさん、そして晴伸の順にクスクスと笑いだし、その笑いがさらに大きな笑いを誘って最後には四人で大笑いしており、中でも姉のサトミさんの笑い声が一際よく響き、しかもその響き具合といい余韻といい、どこか階段の上げる軋みに似ている、いや軋みそのものに思えてくるのだったが、響き渡る階段の軋みを直接耳にしてそれと比較すると、あれほどそっくりだと思った姉のサトミさんの笑い声とは似ても似つかない響きで響き渡り、それが人の笑い声などと同列に扱うな次元が違うとでも言っているように今までにない激しさ凄まじさで響き渡って全身を貫いて身震い震撼させるためなぜ似ていると思ったのか不思議でならなかったものの、テンポよく階段を上るとその軋みもテンポよく響き渡り、それを聴くうちそんな些細なことなどどうでもよくなり、更にいい音をさせようと体重の掛け方を微妙に変えたり蹴り上げるタイミングを微妙にずらしたりなどしながらそのえも言われぬ軋みに耳を傾け意識を集中し、その軋みを全身で受け止めて歓喜し喜悦し悶絶するのだったが、そのギシギシという心地よい軋みの中にそれまで聴いたことのない、階段らしくもない鈍く重苦しげで不快とも言える悲鳴のような軋みが突如として起こり、これは軋みを比較の対象にしたことへの階段の直接的な非難抗議なのかと思い、それへの対処対策を検討しようとしていると最後尾を上っていた弟のハルノブの「あっ」と言う声がするが、その弟のハルノブの声自体は急に何かを思い出したとでもいうような頓狂なものにしか聞こえず少しもそれに切迫した感じはないが、重苦しい階段の軋みには背筋が瞬時に凍りつくような何とも言えない不快感があり、それが気になり嫌な予感がして足を止めて振り返るとすでに弟のハルノブの姿はそこになく、一瞬悪戯心でも起こして部屋にでも隠れたのかと思うが踊り場はとうに過ぎて遥か下方の闇の淵にあり隠れるところなどどこにもないはずでどこに行ったのかと思っていると、その遥か下方の闇の淵から人の叫びのようなものが微かに聞こえたように思って眼を凝らしてその遥か下方の闇の淵を覗き込むとそれはたしかに晴伸で、どんなに遠く離れようともどれほど時を隔てようとも見紛うことなど私にはなく、階段をまるで宙を舞うように優雅に回転しながら転がり落ちて、いや転がり舞っているのがこの世に生まれ落ちたときから、いや子宮の中にいるときから、いや存在としてこの世界に存在する以前の何物でもない虚無のうちからずっと一緒でどこへ行くにも二人の手は固く握られていて、さらには心と心が分かちがたく結ぼれていて「仲良しねえ」「いつも一緒で」「まるで夫婦」などという声を始終浴びながら育ち、一度として離ればなれになるということもなく、何から何まで知り尽してもなおまだ知りたいと思って貪りつづけているけれど、どこまで貪り尽しても一向底に到達することのない深い深い魅力に満ちあふれている私のたった一人の弟の晴伸だといつの間にか私より二十センチも背が高く逞しくなったけれどそれでいてかつての無垢の天使のおもかげは十分に残していていつでもその無垢の天使を呼び覚ますことができる愛くるしい私の弟の晴伸だというのはすぐにわかるけれど、その深い深い魅力で私を捉えて放さない最愛の晴伸がじつに優雅に美しく宙を舞っていることが何を意味しているのかがまるでわからず、転がり落ちていく弟のハルノブのその姿が前の二人の肩越しに階段の黄色っぽい電球に黄色っぽく照らされて辛うじて見えたもののすぐに吸い込まれるように闇に飲まれて消えてしまい、その何が起きたのか理解する間もないほど瞬時のできごとに皆茫然となり弟のハルノブの前を上っていた姉のサトミさんも茫然として声も立てずに立ち竦んで弟のハルノブの落ちて行った遥か下方の闇の淵のさらに底の底を覗き見ようとするかのようにじっとその下方闇淵底をいつまでも見つめている。

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