友方=Hの垂れ流し ホーム

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聡美と晴伸

スウスウと空気が擦過するような微かな寝息を立てて至上の快楽のあとの心地よげな眠りを眠っている聡美を起こさないよう静かにその形のいい頭の下に敷いてあるなかばしびれて感覚を失って他人のもののような自分の右腕を抜き去ってくり返し掌を開閉させてそのしびれを確かめつつ台所に立ち、ギュウ詰めの冷蔵庫を漁って適当につまみを用意してよく冷えた缶ビールとともに盆に乗せて戻り、部屋の隅に卓袱台が立て掛けてあるが面倒臭いので青畳の上にじかに盆を置いてそれを卓袱台代わりにビールを飲みつまみを食べながら極力音量を絞ってテレビを観ていてふと気づくと、右手に缶ビール左手にグラスを二つ持って半裸の、というより素裸にブラウスをはおっているだけの私の噛み跡がくっきりと赤く色づいている左乳房を露出させた聡美が立っていて、私が振り向くと同時に私の横にフワリと坐り込んでグラスを手渡し、なみなみとビールを注いでカチリと鳴らして乾杯して飲む聡美の裸身は美しく、階段を上るという適度の運動のあとの悦楽の同衾の余韻を残しつつ過ごすこの無為自堕落な時間がまたたまらなく心地よく、日に何度となく枕をともにするのであまり前には進まないのだが、上ることが本来の目的ではなくて最上の快楽を至上の悦楽を得るための手段でしかないのでそれでもよく、誰の邪魔も入らず思う存分快楽を貪り合うにはこの階段をおいてほかにはなく、ここ以外に私たち二人が存分に愛し合える場所があるはずもなく、だからこそここに来たのだし、このように来る日も来る日も愛撫し合うことができるのもここだからこそで、階段を上っているときでも体が常に疼いているのもその軋みが深く関係しているらしく、ミシミシという甲高いが決して不快ではないその軋みは気分を昂揚させ快楽の前哨戦の役割を担っていて、また消耗した体力の回復をも促しているようで、階段を上らずまぐわいつづけるのと階段を上るという行為を挟んでまぐわうのとではその快楽の質にも確かに違いがあって上り詰める感じも全く異なるが、男の私より女の聡美のほうがより敏感にそれを感じとりその振幅もより激しいようで、呼吸は荒く頬も紅潮して次第に酔いが回ってくるとテレビの音が不自然に遠退いたり近づいたりして互いに笑いつつそれを二度目の同衾の兆しとも感じ、残りのビールを一気に呷って脇にある枕を引き寄せて聡美を横たえようとしたそのとき、人差し指を立てて口に当て「しっ」と言って耳を澄まし、ドアの向こうで何か気配がすると言うので息を殺して窺うが何の音もなく、ましてや気配などせず気のせいだと言ってその右の乳房をまさぐり揉みしだきにかかる私の右の手を聡美はぐっと押しやって「やっぱり音してるよほら」と確信込めて言うので、今度はテレビの音量の▽のボタンを画面表示が〇になるまで押しつづけて音を消して様子を窺うと、「ねっ音してるでしょ」という聡美の言葉に間違いはなく誰もいないはずのドアの向こうからキイキイ言う板の軋みが微かだがしていて確かに誰か人のいる気配を感じて驚くがそれを確かめるほどの勇気はしかしなく、やり過ごそうと頷き合って抱き合ったまま音を立てずに息を潜めているが、いつまで経ってもキイキイ言う軋みは鳴り止まないし人の気配もなくならず、その未知の存在に次第に不安が募ってこれは何かよからぬことが起きる前兆ではという思いに囚われ、そんな思いに囚われるのはそのドアの向こうにいる存在が未確認でいかようにも想像捏造できてしまうからだし不安によってそれが何か途轍もないものになってさらにも不安を掻き立てるからで、その不安を打破解消するにはドアを開けてそのドアの向こうの未確認の存在を実際にこの眼で確認する以外にないと意を決して立ち上がりかかると、聡美がぐいと強く袖を引いて行くなと制すが、あえてそれを振り切って私は立ち上がって青畳の上を忍び足で滑るようにドアに向かいつつ耳を澄まして様子を窺うとやはり人の気配が濃厚で、その息遣いや衣擦れの音までが聞こえてくるように思い、いや確かに聞こえ、人がいると確信してドアを開けようとノブに手をかけようとしたときにコンコンとドアがノックされ、その音そのものは控えめな響きではあったものの何かこっちの行動が見透かされているようにも思えたために一瞬体が硬直してしまったが、一呼吸おいて気を鎮めてチラと聡美のほうを顧みて合図を送ってからゆっくりとドアを開けるとドアは微かにキイと軋んだ。


踏板とはまた一味違うが踏板同様心地よげに響き渡る軋みをギシギシと上げてドアが少しだけ開いてその縦に細長い十センチ幅の隙間から覗く室内の光とともに少しだけ顔を覗かせて上目遣いで不審げに見つめるのはまだ若い二十過ぎくらいに見える若者で、こんな若者が階段に住み暮らしているということに些か驚きはしたもののそれもほんの一瞬に過ぎず、暗く狭くしかも果てしのないこの階段を好き好んでとは言え孤独に上り続けていたせいで人恋しくなっているのだろう、気さくにというよりは不躾に話し掛けていたが、それでも若者は律儀に耳傾けてくれ、次第にその警戒心が解けるとギギイと目一杯ドアを開けて「どうぞどうぞ狭いですけど」と中に招き入れさえしてくれたことに好印象で好青年という感じを受けその好意に感謝せずにはいられないが、私と春信と若者とその連れの女との四人に四畳半一間は些か狭く初対面ということが更にもそれを助長させているが私には程よい狭さでどうということはなく若者もその連れの若者よりは幾分年嵩のように見える女も別段変わりなく和やかで、ただ春信だけが額に汗を浮かべ呼吸も荒く苦しげに蜿いており、それでも自分ひとりだけ退出するわけにも行かないとしばらく必死に耐えている様子だったが、次第に顔つきが険しくなり若者の連れの若者よりは幾分年嵩のように見えるがふとした仕種や微妙なその所作にどことなく幼さが窺えもして若者よりも年若く見えたりもする女に「お加減悪いんですか?」と言われるに及び、向かいの部屋で休むため春信ひとり退室したあとも私は居残っていたが、大体において年嵩の様相を顕わしている若者の連れの女の上気した顔が妙に艶かしく、若者に撓垂れ掛かる様子や今は隅に押しやられているが敷き延べられたままだった蒲団の様子などから取り込みのところを邪魔したのではないかと思いすぐにも退散しようとしたのだが、二人とも酒が入っていて些か陽気になっており「いいじゃないですか」と引きとめ「まあ一杯」と勧められて飲むうちに、そのような他者への配慮も徐々に薄れて「いいじゃないですか」と夕食までも馳走になり、思わぬ長居をしてしまって「いいじゃないですか」と蒲団まで敷き伸べるのを何とか辞退して部屋を辞したのは十二時近く、かなりの酔いで視野の端は捻じくれゆがみ歩行も甚だ困難で踊り場の向かいの春信のいるほんの二メートル先の部屋に行くのも慎重を期し、ビルからビルへと渡された一本の綱をしかも強風吹き荒れる中渡りでもするように一歩一歩確実に足を置いて両腕を大きく左右に広げてバランスをとり、危うく顛落しそうになりながらも何とかドアまで辿り着き、ギシギシと鳴るドアの軋みに腋の下を擽られるようなこそばゆさを感じてぐふふと鼻で笑いつつ部屋に入ると、横になって左肘枕でテレビを観ていたが気配に気づいて振り向き様「遅かったな」とだけ言うとまたテレビに見入る春信の脇に私は腰を下ろし、というより殆ど倒れ掛かるように尻餅をついて気分はどうかと訊くと頗る快適だと答え、「お前こそ大丈夫か?」と逆に心配され、「勧め上手でね」とその後話題は二人の若者のことになり、終始陽気ではあったもののそれは酒のせいで、どこか翳がありその反動としての明るさだということが容易に見て取れ、ここに来ているということがその何よりの証拠ではないかとの春信の推測に私も同意し、差詰め駆け落ちか何かだろうと聡志は言うが今どき駆け落ちなど流行らないし第一それだけの理由で階段に来るのは動機としては弱く、もっと切実切迫した切羽詰まった崖っ縁の何か退っ引きならない事態の出来がこの霊験あらたかだと言われていた階段へと足を向けるのではないかと私が言うと、「動機あんかいあないさ」となかば呂律の回らない舌で聡志は言って何か不可思議なものをでも見るような眼つき面持ちで明滅する光を発して像を造りだしているテレビ画面を凝視して突然何の脈絡もなくガハハと笑いだす。

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