友方=Hの垂れ流し ホーム

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四段

不意の訪問者

蕎麦の薬味の茗荷と練り山葵に「あっマーガリンなかったんだマーガリンマーガリン」とブツブツ言いながら美津恵が出掛けるのを窓越しにぼんやり眺めていてその後ろ姿が妙に老け込んでいることに思い至り「随分老けたな」と呟くが、しかしそれに愕然となるとか嫌悪を感じるとか寂寥するとかもっと若くて張りのある愛人がほしいとかいうのではなく、時の侵蝕のあまりの速さ過酷さに驚くというほどではないもののある種の空疎さ遣り切れなさを感じて一渡り感慨に耽り、ただあちこち目立ち始めた小皺を忌物のように怖れて殊更若作りをしようともせず老いは老いとして甘受しているらしい美津恵の態度には毅然たるものを感じて感服し、そのためにはどのような援助も惜しまない何でも言いつけてくれ私はお前の最強とは言えないが最大の庇護者擁護者にはなれるつもりだ、いや僕とも奴隷とも思って召し使ってくださいご主人様と、それも老いの現われか軽やかではないが重苦しげというのでもない足取りでスイスイ歩く美津恵の背中に語り掛け、その背中が垣根の向こう側に飲み込まれてから窓際を離れて明るい日差しを避けるようにその眼を部屋の中に転じ、日曜日だというのに里美も平日と変わらず朝七時頃にはマーガリンも何もつけない焦げついたトーストを一噛りと牛乳を一口しただけのそのあまりにも簡素に過ぎる朝食の慌ただしさが飛散したパン屑と牛乳の点滴の散乱したテーブルの様子に顕のままその友人数人と連れ立ってどこかへ出掛けたらしいものの、美津恵にはその出先を知らせているようだが私にまでは伝わっていないので里美がどこに行ったのかは知る由もないが、大方映画にでも行ったのだろうと見当をつけ、というのも昨日だか一昨日だか、いやもっと前かもしれずその辺の記憶は模糊としていてハッキリはしないが美津恵と何かそのような話を里美もいつの間にか身につけてしまっている女性特有の果てなくどこまでも続くエンドレスのそのため意味内容の把握しにくい話し振りで時折ケラケラと笑い興じながら話しているのを確かこの部屋でこのソファーに浅く腰掛けて漫然とテレビを眺めつつ仄聞いた覚えがないでもないと、記憶を手繰り寄せたのかでっち上げたのかいつものことなので殊更訝りもせず遣り過ごし、またそのような話し振りで些末な出来事を逐一報告されてもそれはそれで煩わしいだろうなどと思いつつ一渡り部屋を見廻すと部屋の中はひっそりと静まっていて物音ひとつしないのは誰もいないからだが、その誰もいない家の中にポツンとひとりいることの寂寥を沁々味わい、いや味わいたいなどと少しも思わないが結果そうなったというまでで、その寂寥を美津恵と里美の切れ目のない会話にうまく入り込めないことから来るものなのかと無理やり枠に填めようとするが男にとってあのような会話に入り込むのは生半可なことではなく縄跳びなどより卓越した技量が天成の才が必要だと思い、とにかくそのような寂寥を振り払おうともせずに身に纏いつつしばらく新聞を広げてパラパラと眺めていたが、ふと思い立って、というより殆ど無自覚無意識的にセットされていたタイマーが作動した自動器械のように準備に掛かり、天気がいいから散歩に行くのだとでもいうようにそのままフラリと鍵も掛けずにそのくせ合鍵はいつもの習慣で右尻ポケットに納めてフラリと出てきてしまったので昼食も食べておらず、というより中途半端な時間に起きたために朝から何も食べていなかったので空腹は臨界に達しており、しばらく思案していたがズラリ並んだ豪華な食事には抗し切れず廃棄したものを入手したその浮浪者ホームレス元出稼ぎ無宿不定期労働者が廃棄したに等しいのだから、本意ではないにせよ文句も出るまいと勝手に解釈し、それにこのまま捨て置いて腐らせてしまうのも勿体ないような気がしたので元出稼ぎ労働者不定期ホームレス浮浪者無宿の残していった食卓の前に、つまりさっきまで当の半定住無宿浮浪者ホームレス元出稼ぎ労働者の陣取っていたその場所に坐り、その無宿浮浪者半定住元出稼ぎホームレス労働者に成り代わって、というより自分が半定住労働者無宿元出稼ぎホームレス浮浪者にでもなったように錯覚しつつ、いや、すでに家をあとにして戻る気もないのだからホームレス浮浪者無宿労働者元出稼ぎ半定住も同然で、従って当然の権利だこれら山とある食物の所有権はすでに私にあるのだと紅鮭のおにぎりと鶏モモの空揚げとたまごサンドと焼き蕎麦と蒸しパンとサラダ等々を食べて腹を満たし、その満腹の腹を右手で撫でさすりながら改めて闇深い階段の前に立って真っ直ぐ見据えると、階段は真っ直ぐ果てもなく上へと伸びていていくら眼を凝らしてもその先は深い濃い闇に閉ざされて見えず、それでもその先を見定めようと更に眼を凝らすがやはり何も見えず、ただ暗いばかりで何も見えはしないその闇を見れば見るほどそれに引き込まれ吸い寄せられるような気がするが、それとは逆に足はその闇の深さ濃さ果てのなさに怖れをなしてか、あいるはこれから果てもなく上り続けることに対する生理的不安なのか、あとに残してきた家族が後ろ髪を引っ張るのか、それともただ緊張しているだけなのか、とにかくガチガチに固まってどうにも動かないのでしばらくそこに立ち竦んだままじっと闇の奥を見ていると、数分経って、いや数秒、あるいはほんの一瞬だったかもしれないが内的感覚としてそれくらいの経過はあったと自覚しており、とにかく一定時間が経過して何の拍子かふっと足が軽くなったのを見逃さずゆっくり歩きだしてあんぐりと口を開けているその真っ暗い縦長の矩形の枠を潜り抜けて異性の中に初めて侵入するときのような、長年夢見続けてきたそれが現実となることの喜びと未知の領域へ足を踏み入れることへの不安とが交々綯い交ぜになった曰く言い難い感情の揺らぎを抱えつつ最初の一段にフワリと優しく右足を乗せ、一歩一歩踏み締めるようにして階段を上り始めるが、補修されたコンクリートがコツコツと硬く響いていつまでも余韻が消えないのがひどく耳障りだし自分の思い描いていたなかば理想化された階段のイメージとかけ離れているようで些か幻滅したものの、不思議と戻る気はなくまっしぐらに上り続けるのだった。


ドア一枚隔てたすぐその向こうにいるのが一体何者なのかということがふと気になって把手に掛けていた手を止めて息を潜めて全感覚神経をフル稼働させてそのドア一枚隔てた向こう側の様子を窺うが、姿が見えないというだけであらぬことばかりが次々噴きだしてきて押しとどめようとする間もなく自己増殖して見る間に全身に行き渡り、心中猜疑の塊となってドアの向こうにいるのは私を害する存在以外の何者でもなくこの階段の闇を全身に纏った何か禍々しい存在に違いない、いや闇そのものつまりは虚無なのではないのかそれが私を取り込み飲み込もうと到来したのではないかとまで思えてきて、それ以上把手を廻すことができなくなって更にも硬直していると、その硬直を察知してそれを和らげようしてか幾分調子っ外れではあるが穏やかで如何にも人の良さそうな声音で「開けてくれないかな、いるんでしょ?」と声がしたので虚無という絶望的観測は費えて些か安堵して軽い吐息が漏れたもののその声で猜疑の総てが払拭されたというわけではなく、それすら何か作為ありげに思えて虚無の籠絡ではないかと尚更開けるのがためらわれるものの部屋には他にドアはないのでこの一箇所を塞がれてしまえば出るに出られず、籠城する気もないのでいずれ会わなければならないなら早い方がいいと仕方なく把手を廻し、細めに開けたドアの三センチほどの隙間から恐る恐る外を窺うと、私より一回りほど年輩に見える円らな眼をした眼鏡の男が何の衒いもなく微笑しており、その風貌は如何にも穏和で当たりも柔らかく、まるでセールスマンでもあるかのような気がして急に気が弛んで「立ち話もなんですから」とつい中に入れ座蒲団まで勧めてしまい、あとになって早計だと気づいたときにはすでに卓袱台に差し向かいに坐ってお茶とお茶菓子まで用意して柄にもなく「どうですか、ひとつ」などと言っており、そのように見ず知らずの他人に対してこれほど無警戒に接しているのが自分でも不思議で妙に可笑しかったが、相手も同様らしく真っ白い歯を見せてニヤニヤと笑いつつお茶菓子に出した粒餡の大福を「これには目がないんだ」と遠慮もなく貪るように食べ始め、大福を口に運ぶ手の動きとそれを咀嚼する顎の動きを規則正しく繰り返し、時折大福へ行くかと思える右手が僅かに横にズレて湯呑み茶碗へと伸びてお茶を啜ったり湯呑み茶碗の更に横手にある布巾へと伸びてその節槫立った指に付着した片栗粉を拭うが、不意にその手を止めて私を真正面に見据えて「随分他人行儀だな」と馴れ馴れしく言うその言いようからみても相手はどうやら私を見知っている様子なのだが私には見覚えはなく「失礼ですが、どちら様で?」と訊くと、「おれだよおれ、忘れたのか?」と些か憮然として言って口中にまだペースト大福が残っているのにも拘らず次の一個を親指と人差し指と中指の三本の指でぷいと摘むと強引にその粒餡の大福を頬張って粉を噴いた口で粉を飛ばしながら「おえあよ」と更に言うのだが、それでも思い出せず、ただその無警戒振りからしても無意識的には気づいているのかもしれないが意識にまで到達することはなく、当の相手に言われるまで全く気づかず、いや言われても今ひとつピンと来なかったのは我ながら恥ずかしく情けなく弁解の余地もない。

確かに私のこの変り果てようは自分でも驚く外なく分からないというのも無理からぬこととは思うものの、かつてその間に他人が入り込む隙間など微塵もないほどの仲で、男女の間であればそれこそ二世も三世も契ると言ってもいいほどの深く濃密な関係、といっても男色関係ではなくごく一般的に親友と言い表すようなしかしそれだけでは言い尽せないほどの深く濃密な関係にあったのだから少しくらい変貌していても、いや、見る影もなく変り果ててまるで別人のようになっていてさえ相見た瞬間に感応し合ってそれと分かりそうなものではないか、いや、分かるはずではないかと聊か憤慨もしてその他人行儀にいくぶん語気も荒くなってしまったが、知らないという割にお茶は用意するし丸味を帯びてぷっくりとした膨らみのその艶めかしい表面に一面真っ白い粉の吹いているのが更にも悩ましげでそれさえあれば外は何も要らないと断言できる私の愛してやまない粒餡の大福餅まで出してまるで茶飲み友達でも迎えるようなこの警戒の無さを思うと強ち忘れ去ってしまっていたわけではなく、その胸奥底には旧交を懐かしむ思いなり知己を遇する礼節なりが潜んでいて無意識的に作用して行動に現れたのかもしれず、いや、恐らくそのはずで、そう思うことでかつての友情の深さがどれほどのものだったかということがより一層明確に意識されて粒餡の大福餅の餅の粘りもその味の深みもより一層増したが、ただ自分の半生を省みてそれを憚ることなく披瀝することができず、巧みに包み隠し覆い隠して婉曲な表現ですぐに逃げに入ってしまうのを情けなくも腹立たしくも思うもののそれを知られることの恐怖には打ち勝つことができず、だからこそこんな暗く寂しい闇ばかりのところに何年も隠れ棲んでいるのだし、そのためのこの変り果てようでもあるのだが、別にそいつを憎んでいたわけではないし憂さを晴らそうとのことでもなくてたまたま席を隣り合わせただけの顔見知りでも何でもない赤の他人で、だから発作的な行動で殆ど事故と言ってよく、いわゆる業務上過失ナントカという不慮の事故で降って沸いた災難としか言いようがなく、ふとした弾みであのような結果になってしまっただけで、つまりは運が悪かったという外なく、もちろん殺意など毛頭なかったし初犯ということも考慮すれば情状酌量の余地はあるはずで素直に自首していれば執行猶予になったかもしれないし実刑を下されたとしても真面目に服していれば二、三年で出てこられたかもしれないのだが、いやそもそも自首するつもりで家を出たはずだし卸し立てのワイシャツをわざわざ着てきたのもそのためで逃亡の意志など露ほどもなかったのだが、自分でも分からないが気がついたらここに来てしまっていて、子供の隠れんぼじゃあるまいしこんなところに隠れ潜んでいても現代国家警察捜査網にかかればすぐにも発見捕縛されるに違いなく、逃げればそれだけ罪も重くなるというのにただ前科がつくのが恐ろしく逃げたい一心で階段を上ったのだったが、なぜか分からないが追手はいつまで経ってもやって来ず、だから今もここに隠れ棲んでいるわけだが、もしかしたら聡志がここに来たのも私と同じような理由なのではないか下界で何か禍々しい事をやらかしたのではないかと一瞬思い、そうであれば同類として心置きなく話ができるし何もかもを吐露することができると聊か独善的な思いを巡らせてしまい、すぐにそれをうち消そうとするが思うようにはいかず、話すうちにも探りを入れてその態度や眼つきや口振りから何か手掛かりになるようなものはないか同類であることの証左が片鱗でも窺えないかと必死になっている自分にふと気づき、そこまで成り下がってしまったのかと恥じ入るばかりで、それを紛らし中和させるためつい粒餡の大福餅に手を伸ばして必要以上に頬張っていて食べる速度を上回って咽喉に詰まらせてしまい、慌ててお茶で流し込むのだったが、あのような諍いが頻繁ではないものの酒の席では殆ど毎回決まり事のように起きていたことは事実で、どこにでもある酒の上の口論でほんの些細なものと言ってよく、だから全面的に私に非があるとも思えないしその引き金はそいつの些細な言動にあり、そいつの些細な一言一言が徐々に蓄積していって壊れたのかもしれないが、酒ぐせが悪くよく人に絡んで迷惑がられていたのは認めるが暴れたりしたことも物を破壊したこともない他愛のない酒と言ってよく、そのときの何が破綻の原因のなのかもだからよく覚えてはいないし破綻した切っ掛けのそいつの最後の一言にしても今だにハッキリとは思い出せず、そのあと自分の取った行動の記憶すら靄がかかったように曖昧でどのようにしてあいつが死に至ったのかさえ殆ど記憶になく、鮮明に脳裏にあるのは店を出てすぐ脇にある狭い路地の奥のゴミの散乱した電柱脇の何度となくほじくり返しては埋め戻した跡のあるデコボコの濡れ汚れた路上に顔面半分を水溜まりに浸してゴミのように転がっている醜い死体の映像だけで、いや、そのときはまだ息はあったかもしれないが私の中ではそれはすでに生き物ではなく単なる物体という属性のみを際立たせた周囲の生ゴミ群と同列に、ただ周囲のゴミよりはいくらか大きく嵩張っているというほどのゴミでしかないものとしてゴロリと転がっていてそれだけが離れがたく脳裏に張りついているのだが外には何も残っておらず、だから殺ったのは私ではないのではないか何か隠された真実があるのではないか悪意を持った何者かに騙され嵌められたのではないかなどと何度となく思ったりもしたのだがその可能性は薄く殺ったのは私でしかあり得ず、にも関わらず記憶には何も残っておらずどうやって帰ってきたのかも分からないが気がつくと私は部屋の蒲団の中でぬくぬくと日もすでに高く、そのせいかしばらく昨夜の出来事を夢の中のことと思い込んでいたが、目が覚めるにつれて錯綜していた思考の糸がほぐれてくるにつれて僅かに残っている断片的な記憶を辿り繋ぎ合わせていくことで夢ではなく現実だということに思い至り、どうしていいか分からずパンツ一枚の姿でウロウロと六畳の寝室から八畳のリビングからキッチンから風呂場からトイレから無意味に歩き廻っていたが逃げても仕方がないと腹を括り、シャワーを浴びて身をひき締め髭を剃ってサッパリして食卓についてマーガリンといちごジャムを塗った、いや、いつも買ういちごジャムが品切れでブルーベリージャムとどっちにしようかとさんざん迷った挙句に買った保存料着色料不使用と明記のりんごジャムを塗った焼きすぎて焦げ臭いトーストを一枚食べてコーヒーを一杯飲んで、そこではじめて完全な覚醒に至ってこれから自分が何をすべきかをもう一度じっくり反芻しながら服を着て景気づけに粒餡の大福餅を一個頬張りつつ部屋を出たそのときには確かにまだ自首するつもりでいたのだが、最寄りの警察署へ行く途上でなぜか分からないが階段の光景がふと眼に浮かび、それが妙に気になって頭から離れず気がつくと階段の前に佇んで上を見上げており、気が済んだら行こうと思っていたのがいつまで経っても気が済まず、気がつくと階段を上っていて振り返ると入り口はすでに点のように小さく、下りる気もすでになかったのには今でも合点がいかないし尤もな説明も解釈も導くことができないが、必ずしもそれを否定的にとらえて自戒として掲げてこの暗い穴ぐらで一日二拝三拝するような禁欲主義的なモンクの生活を心掛けているのでは決してなく、事実はその正反対でミシミシと軋む階段の響きの実に心地よい淫蕩な愉楽にどっぷり浸っているのだった。

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