彼女に案内されて彼女の住んでる家に行くと、外は他と変わんないバラックだったけど、中は前に彼女が住んでた部屋そのもので、間取りから何からそっくりそのままだった。外の茹だるよーな暑さとは打って変わって中は全然暑くなくて、みるみる汗引ーてくのが不思議で、「エアコンあんの?」って彼女に訊ーたら「えっ、ないよ」ってゆーんで、「凄い涼しーじゃん」って言ったら「だってユートピアだもん」とかゆー。何もかもユートピアの賜物なんだとかゆー。
何気に窓の外見ると、そこには満々たる泥水が流れてて、窓開けて下覗くとすぐそこに水面があった。ゴミとかプカプカ浮いてて、ヘドロの臭いが鼻を突いた。すぐ窓閉めた。
「西日暮里川?」彼女は確かにそー言った。
「西日暮里に川なんかあったっけ?」
「知らないけど、みんなそー言ってるから」って彼女はゆー。
ピーナツバターの壜小脇に抱えてちょっとずつ嘗めながらこの川べりを散歩すんのが彼女の日課だってゆー。それにしてもこんな川べりに建ったバラックなんかちょっと雨降っただけで流されちゃうんじゃないかって心配んなったけど、彼女は「雨降ってもこの川増水しないんだ」って言ー、「ユートピアだから大丈夫」とかゆー。
彼女がコーヒー入れておれがカップとか用意するってゆーいつもの手順を当たり前のよーにしてんのが堪んなく懐かしくて嬉しくて、気がつくと半笑いんなってる。しまいにゲラゲラ笑いだして彼女に嗜められた。
「行儀悪いよ」って。そんなことまでが嬉しくて堪まんなく、益々顔が綻んでくんのをどーすることもできない。疲れとかも一気に飛んじゃってんのが分かる。
でも彼女がコーヒーカップ片手に窓の外眺めながら、「これからはずっと二人っきりね」とか感慨深げにゆーの聞ーて、その隔たりに初めて気づく。おれは彼女に再会したときから二人で帰るって思ってたのに、あろーことか彼女はこのわけ分かんないとこで暮らすつもりらしー。彼女は尚も「ここはいーとこだよ」とか虚ろな眼ーしてひとり呟く。
「ユートピアなんだから」そー言っておれに笑い掛ける彼女の笑顔は前と全然変わんないのに、なんか別人みたいだった。
そんときからなんか予感みたいなもんがあるにはあって、ずっと気んなってはいたんだけど、彼女との逢瀬に気が昂ってるからだろーとか、不知案内のユートピアへの緊張がまだ燻ぶってんだとか思って、軽く去なして片づけちゃったんだった。直接的には肝心のモノが全然ゆーこと聞かなかったからで、こっち来てからなんか一層研き掛かったみたいな彼女の舌技にも拘らず、いじけたみたいにだらしなく項垂れてびくともしなかった。彼女は「はれ、ほーひはほ、ほはひーはー」とか言ーながらも口休めなかったけど、おれの海綿体はそれを無視した。まるで去勢でもされたみたいに大人しくなっちゃってる。それはそれで相当ショックなんだけど、それにはこのユートピアが関係してて必ずしもおれだけのせーじゃないって思ったから、ちょっとは気が鎮まった。研究熱心な彼女は毎日手を替え品を替えしておれを奮い立たせよーとしてくれんだけど、彼女が熱心になればなるほどこっちが空しくなってくるし、隔たりを感じもするんだった。
四六時中彼女の口遊む歌が、更にもおれを萎ませる。別に彼女が音痴とか言ってんじゃない。カラオケとか結構好きな方でよく行ってたし、歌だって上手いってほどでもないけど別に耳障りじゃない。そーじゃなくて、歌う歌に問題があんだった。歌そのものに変な魔力があって、それがおれを取り込むってゆーか、飲み込もーとするよーな気がすんだった。再三止めてくれって言ったんだけど、「いー歌じゃん」とか言って彼女は歌い続け、「一緒に歌お」とか言って歌詞カードまで持ってきておれの耳元で歌ったりする。文庫本サイズの小冊子で表紙に『ユートピア百選』ってある歌本で、かなり使い込んでて角の方とかほつれてボロボロだった。彼女が示したのは『My Only ユートピア』とかゆー曲。これがいちばん効ーた。
My Only ユートピア
作詞・作曲 ユートピア実践委員会
だってユートピア
ここはユートピア
My Only ユートピア
自分が何者かなんて考えても 駄目 不安が募るばかりだから
存在の根源に迫ろうなんて 無理 光を追い掛けるようなもの
分かるわけはない 答えは用意されていない
不可能性ばかり考えて思い詰めるよりも
可能性だけを思って楽に行く方がいい
昨日と明日に挟まれて汲々としてるなんて 馬鹿らしい
昨日も明日もないことにして生きる それが何より
だから考えちゃ駄目なんだ それは罠だから
だから考えても無駄なんだ 忘れるんだ何もかも
記憶の狭間に 忘却の彼方に 見え隠れする
ユートピアを思うだけでいいんだ
答えの出ない計算をいつまでしてても 始まらない
答えがないのが答えだということ それでいい
昨日なんて知らないし 明日なんか知りたくもない
覚悟なんかいらない 現にここにいるんだから
堂々巡りはもう止めよう 疲れるだけだから
総てを忘れよう 何もかも 記憶の箍をさあ外そう
何もないなんていうのは 嘘
そう思うのは誰かに唆されている証拠
ここには何でもある ここには総てがある
あなたの望む総てがある
だってユートピア
ここはユートピア
My Only ユートピア
別に歌詞がどーこーゆーんじゃなくて、歌そのものになんか呪いとか掛かってるみたいな感じで、それ聴ーてると気分悪くなって吐き気とかしてくんだった。
他にも『I Love ユートピア』とか『ユートピア ユートピア』とか『ユートピアで私は恋に落ちる』とか『ユートピアでなら生きていける』とか『ユートピア音頭』とか『ユートピア慕情』とか『ユートピアという状態』とか『ユートピアには総てがある』とかゆーのがあって、彼女はそれらを取っ換え引っ換え歌うんだった。ユートピア百選のCDとかもあったけど、CDから流れる歌は言葉が全然分かんなかったからよかったけど、彼女の歌は理解できるから困るんだった。
疑問は山ほどあったけど、彼女はここの素晴しさ切々と語るばっかでそれらに殆ど真面に答えちゃくんない。「ここには何でもあるんだから」「何をやってもどこからも文句出ないし」「好きなことして暮らして行けるなんて、ここだけだよ」「何てったって世界中のピーナツバターが簡単に手に入るんだから。ね、見て」そーゆーと彼女はおれの手ー引ーてキッチンまで引っ張ってって冷蔵庫を開ける。中にはピーナツバターだけがびっしり詰まってて、他には何にもない。世界各国のピーナツバターが隙間もなく整然と詰め込まれてるだけ。だから彼女はピーナツバターだけしか口にしてないらしくて、「それで体何ともないの?」っておれが訊ーたら、「そこがユートピアの凄いとこなのよ」ってまるで自分の手柄のよーに得意げにゆー。その体から発散するピーナツバターの匂いも、だから一段と強烈んなってて、前だったらもー堪んなくてすぐにも彼女に挑み掛かっただろーけど、今は全然興奮しない。これも多分ユートピアのせーだ。
真面に答えてくれそーもなかったけど訊くだけは訊ーてみよって思って、「ねー、駅ってどこにあんの?」って訊ーたら、案の定「知らない。見たこともない」って彼女は言ー、「不思議ね、電車の音はいつもするのに駅がないなんて。そー言えばこっち来てから電車には乗ってないな。なくても全然困んないだよ」ってゆー。すぐ気がついて「でもどこ行くの?」って彼女はゆー。
「どこって、帰るんだよ」っておれがゆーと、「帰るってどこに?」って重ねて訊く。
「どこにって、家にだよ」そーおれがゆーと心底信じらんないって顔で、「だってここはユートピアだよ」とかゆーんだった。
彼女はすでにユートピアに感染してるみたいだった。芯からユートピアンになっちゃってる。おれを待ってて感染したらしーから責任の一端はおれにもあって、それ思うといたたまれなかった。もはや彼女を連れて帰ることは不可能で、おれ一人ここ出なきゃなんない。
今日だけ今日だけって思いつつ五日もそこにとどまってた。ユートピアの感染を思うと気が気じゃなかったけど、彼女の幸せそーな顔見てると帰るとはなかなか言ーだせなかった。セックスレスとは言え、実際彼女との生活も日増しに快適んなってって、ユートピアの感染が確実に始まってんのも分かった。でもどっかに砂でも噛んだみたいなジャリジャリする違和感が残ってて、時々それがふっと顔出だしたりするんで土俵際で踏ん張ることができたんだった。高倉健と鶴田浩二んなった男の話じゃ一週間が限度だってことだから、そろそろ行かなきゃなんないんだけど、それ切りだすタイミングが掴めなかった。端的におれに未練があったのも事実だけど、彼女がそれ未然に察知して巧みに回避するんで、タイミング外されたおれは宙に浮いた言葉を恨めしげに眺めるしかなく、不様にアワアワ蜿いてた。これもユートピアの為せる業なんだろーか?