友方=Hの垂れ流し ホーム

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縫いつけやすいようにまずアロンアルファで仮止めする。耳の縁数ヵ所に垂らして指で押さえてしばらく待ち、しっかりくっついたのを確認してから作業に取り掛かる。まず左の耳から。右手に持った針を顔のほうから刺して耳を通し、左手でそれを摘んで引き抜くという手順で、刺して抜く、刺して抜くと何度かシミュレーションをして本番となるが、最初の一針が最も緊張する。いくらか手も震えていて狙いが定まらないため一旦忍は針を置き、震えるその手を打ち振ったりグーパーしたり指を鳴らしたりして緊張を解し、再度針を掴みとって先端をこめかみの辺りに宛って息を止め、思いきり差し込む。予想以上の痛みに悲鳴を上げそうになるがどうにか怺え、ここで止まったらそれきり先が続かないと怖れて一気に針を引き抜く。赤い点のような血の玉が僅かに盛り上がっている程度だが、開いた穴の一点は物凄く熱く、ジュウと肉が焼かれるような音がしたように忍は思う。

寄り合わされた表面の凹凸が肉に引っ掛かるらしく、針よりも糸を通すことのほうがより困難を窮め、糸それ自体が神経繊維でもあるかのように痛みを通り越した衝撃が忍を襲う。耳から頬全体を右掌で押さえながら左手に針を持ってゆっくりゆっくり糸を引くと、耳内を紙束が転がるようなガサゴソいう音が聞こえるとともに皮膚が引っ張られて顔面が突っ張るのが分かる。肉を擦っていく糸の摩擦はナイフで耳を削いでいるようで意識も薄れるが、どうにか怺えて一針一針着実に縫いつけていく。

ガサゴソいうのは紙束なんかじゃなくて蟻じゃないのかと忍は思い、無数の蟻が耳の中を穿り返しているのだと次いで確信するに至り、そうだと知って背の中心部に結氷でもするように悪寒が貫き走る。これ以上の侵入を阻止するためにも早いこと塞がなければと焦りながらも慎重に忍は耳を縫いつけていく。その一針ごとに耳は熱くなって腫れ上がっていくようだし、鼓膜に響く脈動も度を超して激しくなるし、針を持つ指先も震えて狙いも定まらず、途中何度も挫けそうになるが、声から解放されるという期待に支えられてどうにか最後まで為し遂げる。Tシャツの襟刳りを黒く染めたくらいで大して血も流れなかったように思う。

鏡に映してその出来具合を確かめれば、まだズキズキと痛んで苦しげに蹙めているのにその顔つきはどこか締まりがなく、パッと見には気づかないほど僅かな変化なのに不均衡な印象が拭えない。耳のない顔というものが如何に間抜けで不細工かを忍は知るが、不細工かどうかは重要じゃなく、充分に声が遮断されるのならその程度のことには我慢できる。顔のすぐ両脇を激流が流れていて滝にでも打たれているような感じだが、それが巧いこと声を遮蔽してくれるだろうと思うと心地好くさえ思えてくるし、自身を修験者か何かのように思い為しもして無念無想の境地に至り着くかもと他愛ない夢想に浸ったりする。

気が弛んだからか急に意識が遠退いていく。これで終わりじゃないのに、まだ最後の仕上げが残っているのにと自室の絨毯に耳を庇うようにゆっくりと横たわりながら忍は思う。横になると頭部への血流が増してさらにも凄まじい音が忍を圧し、激流に流されているようにも錯覚して眼を閉じるとそうとしか思えず、火のように熱い流れの中に忍はその身を横たえている。溶岩流か何かのようにもそれを思い、いったいどこに流されていくのだろうとふと思う。声のしない静かなところならどこでもいい。美佳の中がいい、美佳の中に運んでいってくれたら最高だと忍はその細腰を虚空に掴み、抱き寄せる。


ここに書かれていることでどれが現実に即したものでどれが虚構なのか忍にはもう全然区別できない。そのいずれもが現実らしくも見えるし虚構のようにも思える。別にどっちだって構やしない。抑も自身の記憶を攪乱することこそその主要な目的だったのだから。ただ、美佳がこれを見たとして気を悪くしないかそれだけが気掛かりだ。忍に不分明なものでも美佳には分明だろうからだ。いや違う。美佳などいない。存在していない。これらテキストはフィクションなのだ。実在する個人、団体、組織等とは悉く関係しないのだ。美佳がこれを読むということも、忍がそのように記述しないかぎりはだからあり得ない。

美佳がテキストのうちにしか存在しないなら、自身も同様テキストのうちにしか存在しないと忍は思う。複雑に織りなされた文字の総合というのか、磁界の歪(ひず)みの間(あわい)に仄煌めく火花というのか、何かそのような在るんだかないんだかも定かじゃない不確かなものとして、テキストのうちに潜む亡霊めいたものとして総てはあり、そのようなものとして自分もまた生き続けると同時に死に続けると忍は思う。その死を乗り越えることは美佳には困難なように思え、このテキストの中に入り込みたいとふと思う。そこには忍がいるし、望み得る最高の関係を築くこともできるだろう。そこへと私を誘い込むためにこそこれは書かれたのではないかと次いで美佳は思い、まさかと否定する。

それでもテキストそのものになってしまいたいとそう美佳は思う。いや、最初から私はテキストそのものではなかったろうか。忍がそう記しているように、総てはフィクションなのではないだろうか。ここはだからすでにテキスト内部なのかもしれない。いや、そうに違いない。というより外部などどこにもなく、そんなものは最初からなかったのだ。


そのように美佳はダイジェストの文を閉じると、幾度か読み返して誤字脱字をチェックしたのちバックアップを取って大切に保管し、参照したファイルは今もそのままにしてある。つまり忍自身のテキストと美佳によって変奏されたテキストと二種のテキストが存在することになる。物語風に纏めようと試みながら途中で無理と放棄したことを美佳はいくらか悔やまないでもないが、美佳にとっての現実と忍にとっての現実がイコールで結ばれることはないのだから自身の現実に引き寄せて纏めることはできないし、抑もそのようなものに仕立て上げられることを忍も望んではいないだろう。これは飽くまで忍のテキストなのだから。美佳というキャラクターもその中でのみ存在できるのだ。

折角文字として封印したものを声として聞いてしまったことが何より忍には耐えがたいだろうと詫びる気持ちがずっとあって、だからもう一度それを美佳自身の手で文字として封印し直さなければならなかったのだ。総てのテキストを読み尽くしたわけではいないからこれはまだ草稿というにすぎないし、前後の脈絡を補う美佳の文章が多く挿入されてもいる。これを純粋に忍のテキストと呼ぶことはだからまだできない。そのためには多くを削り、多くを補わなければならない。

巧く封印し得たかどうか美佳には分からないだろう。忍には尚更分からない。

─了─

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