忍のことを何も知らなかったとひとつひとつのファイルが美佳に告げているようだった。咎めるふうではしかしなく、順々とやさしく教え諭すようにしてその関係をリライトしていくように思えた。最初は教える立場だったのがいつか逆転して忍に調教されたように、それらテキストは少しずつ美佳を縛る。いや、縛っているのは忍かもしれない。
世界は声に満ちている。無気味な声が、死を唆す声が犇めいていて全然落ち着かない。
その中で自室以外に落ち着ける場所があるとすれば、美佳の住む部屋をおいて他になく、その誘いを断る理由はだから忍にはなかった。そこまでの道のりがどれほど困難を窮めるものでも、それに見合う慰安なり愉楽なりを確実に美佳は齎してくれると忍は信じている。別に急ぐ必要はないのだが不安だからどうしても早足になり、二回段差のないところで蹴躓いて転けそうになる。それでも何とか階段を無事に一階まで降りると、エントランスを忍は一気に駆け抜け、通りに出ると視線を前方一メートルくらいの路面に落として駅に向かう。こうすれば誰か知った人と擦れ違うという危機に直面したとしても、直前まで気づかずにいられる。自分より他に人間など存在しないという顔で歩くこと、そう自身に命じながら次の一歩を踏みだしていく。美佳に手を引かれ、アイラーに背押されて忍は前に進む。
駅までの所要十五分は忍には長かった。いや、商店街を迂回する順路だからもう少し掛かる。美佳に逢える歓びとは裏腹に気分がだんだん重く沈んでいくのは、アイラーを楯にしているとはいえ外が危険なことに変わりはないからだ。密林よりもサバンナよりも都市はずっと危険なのだ。危険なのはしかし人だの車だのじゃなくて声それ自体で、いや、もちろんそれらも相応に危険には違いないが声の氾濫が何より怖ろしく、ちょっとでも取り扱いを間違えると偉いことになる。確実に命を落とすだろう。だから極力聞かないようにしなければならないのだが、嫌でも耳に入ってきてしまう。丸腰ではだからとても外は歩けないと忍は思い、同意を示すようにアイラーが唸る。
駅と言わず至るところで流れているアナウンスにまず注意しなければならない。一見無害なように思えるが、そこに落とし穴がある。掲示板や案内板でもう充分なのに、ダメ押しにアナウンスを流したりするから却って混乱を招くのだ。というのもそこには必ずと言っていいほど理不尽な指令がセットになってついているからで、例えば駅のホームからの飛び込み自殺も一〇〇%(パー)それが原因なのだ。そのせいでダイヤが乱れたと賠償請求されたとしても、抑もそれを唆しているのがアナウンスなのだから非は鉄道会社にあるはずなのだ。幾度か忍も唆されそうになったが、その都度アイラーに助けられ、テイラーに助けられ、コルトレーンに助けられた。意志の強い人や鈍感な人は気にもとめないのだろうが、その指令を拒否することは非常に難しく、真面にやり合って敵う相手じゃない。誰の差し金だか知らないが、その巧妙なやり口に憤りを覚えて密かに罵ることもあり、輪を掛けた攻撃にしかし曝されるから無視したほうが無難だ。
線路を挟んで両サイドがホームになっているより線路に挟まれる形のホームのほうが危険度は高く、細心の注意を要する。その点ここは上下線が別ホームになっているからいくらか安心で、それでも何が起きるか予測できないから階段脇で忍は待機する。見るかぎりホームに人影はないから前の電車は出たばかりなのだろう。アイラーに耳傾けながら壁面に掛けられた路線図を忍は見つめ、そこに記された駅名を読みながら待つ。時どきその横の時刻表にも眼を向ける。
不意に警告するように一際高くアイラーが唸りを上げ、次の瞬間電車の到着を告げるアナウンスが忍を襲う。油断していてその声を聞いてしまい、恐怖に忍は身を竦める。階段口から上り電車が飛び込んでくるから黄色い線の向こうへ避難してくださいとそれは警告していて、慌てて忍は線路のほうに駆けだすが、忍が線路に退避するより早く電車が入ってきた。減速する車輛を見つめながらなぜ線路上をそれは走ってきたのか、一瞬忍は不可解に思う。騙されたことへの怒りよりも助かったことの安堵のほうが大きく、額の汗をシャツの袖口で拭いながら恐る恐る車輛に乗り込む。美佳が待っているというそれだけが原動力だった。ディスクが一巡して再度〈ゴースツ:ファースト・ヴァージョン〉をアイラーが吹くころ忍は車輛から降りる。流れに逆らうと却って攻撃に曝されるから敢えて混雑する中に忍は割り込んでいき、その際MDのボリュームを少し上げて防壁を高くする。注意はされないが迷惑がられているのは分かる。
改札を通過する際自身の刻印された乗車券を奪われるのは少し寂しい。紛れもなくそれは忍自身に他ならないから、このような形でなりと手放すべきものじゃないのだが、それと引き替えでなければ身柄は解放されないのだから仕方がない。とはいえ拘束されることそれ自体は少しも苦じゃない。理不尽な要求を強いられるのでないかぎりそれは余計な負担を掛けないで済むから案外楽なのだ。
抑もその生を自分のものではないと忍は思っていた節があり、単に隷属性とのみそれを見做すのは容易(たやす)いが、いくらか違うように美佳は思うのだった。忍のテキストに触れてはじめてそう思った。時どき乱暴に振舞ったのもそれへの抵抗だったのか、そのように抵抗することで自身の生を取り戻そうとしていたのか、美佳にそれは分からないだろうと忍は思うが、それをこそ知りたいと美佳はテキストを読み続けているのだった。無為に死へと引き込まれる忍ではなく、最後までそれに抗い続ける忍をこそ見出したいと美佳は思い、悉く奪われてしまっていることへの苛立ちなのかどうかそれは分からないが、何らかそういうものを抱えていたことは確かで、その辺りを同定するにはもっと精緻にテキストを読みこなさなければならないが、そうなると所期の目的から外れてしまうから将来的な課題として検討するにしても、とりあえず今は措く。舗道の端っこを美佳の許へと急ぐ忍を追うのが先だ。指先を油塗れにしてチーズ風味のカールを食みながらテキストを食む美佳のその視線を頭上に感じて忍は心強く、そのナビに従って目的地を目指して直進む。
最難関の過密地域を無事に突破し、駅周辺をも離れて不穏な声から遠離(とおざか)るにつれて徐々にだが忍は周囲を窺う余裕ができ、路面を見据える基本姿勢は変わらないながらチラチラと眼を配って歩く。
自分ひとり余計な手続きを必要としていることに時どきひどく苛立つことがある。それは殺意だ、自分自身への。
販売精算支払いの自動化機械化が忍を生かしていると言っていい。何か買うにしても一言も言葉を発することなく済むから安心なのだ。そのように機械化されたシステムは忍には延命装置に等しいが、単純にそれを喜ぶべきか忍にも判断はつかない。不意に何か訊かれたりすると全然答えられないし、そうして生き長らえたところで虚しいような気がするのも事実だ。死ぬべき存在をも生かしてしまうオートメーションシステムは最早総てを掌握していて、そこから脱落させられることはないから自らの意志で降りることが必要になる。そのほうがむしろ健全じゃないかとさえ忍は思う。自殺こそが最も崇高な行為で、人が人として死ねる死に方はそれより他ないんじゃないかと忍は思う。なぜ生きているのか? なぜ死なないのか? 不毛な問いだが、切実な問いでもある。いつか返済すべきそれは負債なのだと忍は思い、そんな理不尽な負債など聞いたことがないと美佳は思う。
忍の悲痛な声に美佳はその先を読むことができず、アプリケーションを終了させてしまう。デフォルトのグレーのデスクトップ画面が空虚に照り映え、モニタの調子が悪いのか画面の端が赤くなったり青くなったりしている。忍の不安をそっくり再現しているような気がして美佳はちょっとうろたえ、〈F・は〉と〈J・ま〉のキー中央にある指を置く印の突起を両人差し指の腹で愛撫するように摩りながらどう宥めたらいいのか困じてしまう。美佳のその身振りを拒むかに尚も画面は不規則に揺らいで安定しない。いや、これは忍の不安などではなく、モニタが変なだけだと美佳は頭を振り、モニタ下端にあるボタンを操作して消磁を試みる。ブブワンという低い唸りとともに何か苦痛に顔を歪めてでもいるように画面全体が波紋のように揺らめく。酔って胃の中のものを吐くときのような嗚咽のようにもそれは聞こえ、苦しげな忍の顔が覗けたようにも思う。半固形状の未消化物がキーボードの上に置かれた美佳の両手にぶちまけられ、瞬間掌を返して受けとめた温かいドロリとしたソレを舌先でちょっと嘗めてみる。酸味の効いた苦い味が口内に拡がることはしかしなく、汗ばんだ掌の塩分が微かにするだけでほとんどそれは無味だった。何の味もしないのはそれが幻にすぎないからだが、忍がテキストを介さず直に何か訴えようとしているのだとそう美佳は思い、不安というよりそれは苛立ちのように感じる。父や母や美佳にさえその怒りを真面にぶつけたことのない忍の秘めたる怒りを垣間見たような気がし、なぜか知らないが胸のうちでゴメンねゴメンねと美佳は詫びているのだった。