友方=Hの垂れ流し ホーム

07

風呂から上がった孝裕がのっぺりと白い腹を曝しているのにふと眼をやるが、すぐに逸らす。病弱げなその白さが忍に酷似していることに気づいたからで、油断しきった中年の不健康な肉体にすぎないと否定してもダメで、孝裕の生っ白(ちろ)い腹に美佳は忍を幻視する。そのペニスの如何にも若々しい張りをも幻視してしまい、こんなときに何をと振り払おうとするが、釘づけされたようにそこから眼を離せない。幻視の元を絶たなければと美佳は思い、視線を僅かに右のほうにズラしてテレビを眺めるふうを装いながら「なんか着てよ」と注意するが、聞こえなかったのか「何? 風呂いいの?」と見当違いなことを言って微妙に腹を震わせる。それでふと視線が流れて真面にそれを眼にしてしまい、瞬間忍の表情のない顔がその中心に浮かびあがったように思って息を呑む。動揺を隠すように「そうじゃなくてパジャマとか」着ないと風邪をひくと尤もらしいことを言って顎で示すと、示された自身の腹を怪訝そうに眺めてから今それに気づいたというように生っ白い腹を右手で孝裕は摩りながら「えっ、ああ、うん」と素直に従い、淡い空色のパジャマを羽織る。そのままだらしなくソファに身を凭せ掛けると、開けた裾からまだちょっと白いのが覗いているが、そこまでは美佳も指摘し得ないから我慢する他なかった。


媚びるような丁寧な口調で「どうする? 先風呂入っていいか?」と訊きながら、その裏にはおまえの体から出る毒素に殺られるのはご免だからながハッキリと覗けるし、「今日何食べたい?」には言えるものなら言ってみろとの含みが透けて見えるのだった。そうやってたまに探るような言葉を掛けてくるのには閉口するし、それらが悉く機能しないことがなぜ分からないのかとも思うが、放逐するでもなく生かしておいてくれる親に忍は感謝しないでもない。とはいえそれが忍を苦しめているということに気づかないことには苛立ちを覚えもする。

ただその寛容にも限界はあるらしく、その無言の圧迫は日々強く感じていることも事実で、深い意味などなかったのかもしれないが「たまには外に食べ行かないか? 寿司とか、いや別に何でもいいけど」と不意に訊かれて忍はうろたえ戸惑い言葉を失う。それに輪を掛けて動揺する父と母だが、それを前にしてさらに忍は動揺する。死を唆すに等しいそれら責め苦に耐えられず、青褪めた顔を伏せて自室へと避難する。最初っからそれを見越していたのだろう、いくらか安堵したように父と母は二人して出掛ける。耳内に反響して鳴り止まない父の声を意識から閉めだそうとしながらベッドの縁に忍は背を密着させて踞り、真面に働かない思考で大学とは何だろうとふと思う。

今思うとなぜそんなところに行こうとしていたのかが分からない。美佳のあとを追おうとしていたとも考えられるが、大勢に流されていただけのようにも思う。いや、恐らくそうなのだろう。結局行かなかった、っていうかどこにも受からなかったはずだ。受けたかどうかも定かじゃない。そのまま済し崩しに引き籠もって二年になるが、どっちみち自分には馴染まない場所だろうから進学する気はすでにない、といって就職するということも同様に難しい。その狭間に落ち込んで藻掻いているといえば聞こえはいいが、そのような世間並の苦しみとは少し違う気が忍にはするのだった。馴染めないというよりは馴染もうとする意志に欠けるのだった。とはいえ忍が世界を拒絶しているのではなく、世界が忍を拒絶しているのだ。為すべきことなどだからもう何もない。結果孤立して破綻するならそれでもいい、いや、むしろそうなるべきなのだと忍は思い、そのような地点へと忍を追いやってしまったのは他ならぬ私なのだと美佳は自分を責める。

常に空腹であること。不純物を体内に溜め込まないこと。

夕飯の膳を前にしてそう忍は胸中で唱える。外からの声にそれら不純物が内側から忍の意に反して反応してしまうということに気づいて以来、摂取量を最低限に抑えることを義務づけている。自身を純粋形態に昇華させることができれば、反応もできなくなるのではないかと単純に思ったのだ。そこで純粋形態とは何かということが鍵になってくるが、声を反射する鏡のようなものとか、声を透過するガラスのようなものとか何か鉱物的な硬質なイメージを忍は懐き、代謝はそれを著しく阻害すると最終的に自身に課した禁則が食べないということだった。何も摂らないことが理想だが、それは無理だろうからギリギリの状態に保つことを心掛け、徐々に摂取量を減らしていったのだった。その延長には死が横たわっているが、そうなればなったで構わないし回避しようとも思わず、むしろ死と結託してこそ生は拓かれると忍は思い、常に死を射程内に入れておくことで緊張を保持しようとしていた。すぐ出せるよう掌にジョーカーを忍ばせておくようなものかとも思う。

出だしはそこそこ順調で体重も少しずつ減少していき、今では急に立ち上がったりすると眩暈するほどに体力も落ちているし、麻痺したように指先にも力が入らない。そのあまりの力無さに思わず忍は笑ってしまうが、それさえ鼻息だけの微かなもので噎せているようにしか聞こえない。

食事は自室へと搬送される。膳を持って母は部屋に来るが決して中には入らず、ドア脇に膳を置くと軽くノックしてすぐその場を離れる。直接の受け渡しを忍が拒んだため、そのような方法が採られたのだった。自室が安全とは言えないにしても監視の眼から逃れるにはそれしかなく、頃合いを見て忍は膳を取る。すぐにはしかし食べず、完全に冷めるまでおくのは少しでも不味くしようとの配慮で、これは見事に図に当って二口ほど手をつけるだけでその大半を残してしまう。器物に臭いの染みつくのを心配しながら膳をまた部屋の隅に押しやり、深夜両親が寝静まった午前三時〜四時ごろに忍はそれを速やかにキッチンへと運んで廃棄し、丁寧に洗ったのち自身の痕跡を一切残さないよう布巾で丹念に拭きとる。指紋のひとつも残してはならず、ちょっとでも痕跡を残すとそこからキノコが生えてくるし、次の日の膳に必ずそれが饗されるからだ。

家(うち)では食べられないのに、美佳のところに来ると箍が外れてしまうのか必要以上に食べてしまってプラマイゼロで、食事制限は結局成功しなかった。とはいえ美佳の作るものに悪意のあろうはずはないから美佳を責めても仕方がない。そういうことだったのかと美佳はその事実をはじめて知り、それならもっとたくさん作ってあげればよかったと悔やみ、毎日でも家に招いていたらあのようなことにはならなかったかもしれないと思うと全部私のせいだと落ち込み項垂れるが、それは違う美佳に非はないと忍は否定する。それを知らせるためにこそ今美佳のところに向かっているのではないかと忍は思い、アイラーの煽りを受けてか知らないが非常な切迫を感じもして美佳の元へと急ぐが、足が縺れて転けそうになるし二度も道を間違えるしで、辿り着けるのかどうか不安になってくる。

断片ばかりじゃなく、作品と呼べるものをせめてひとつくらいは残しておかなければと思いはじめたのがいつごろなのか定かじゃないが、創作意欲といえるほどそれは熱いものじゃ全然なくて、ただ垂れ流しているだけじゃ息してるのと変わりないじゃないかと何となくそう思ったのだ。息してるだけでもいいようなものだが、何かそれじゃいけないような気がしたのだった。とはいえそれが強力な動因になることはなかったからずっと冷めきっていたし何の期待も懐いてはいなかった。というのも巧拙の如何に関係なく発表は不可能だからだ。読まれるということは自分が解体されてしまうということを意味し、それを思うだけで忍は卒倒しそうになる。それだけでも相当怖ろしいがそれ以上に怖ろしいのはテキストが世に出れば必然的に何某かの言葉を求められるということで、言葉として発する何ものも忍は持っていないのだ。何ひとつそれに応える術がない。それが絶対的に避けられ得ないとすればそれに答えることは忍にできないのだから総ては閉ざされていると言ってよく、運よく何か提示できたとしてもそれはすぐに捉えられていびつに歪められ、烙印を押され、挙げ句棄てられる。つまり罠なのだ。その罠を回避する手が見出せないかぎり発表はできないと忍は思うが、自分をその罠に陥れるためだけにこの世界はあるとの思いが一方で拭えず、つまり決定的にそれは不可能ということなのだった。

どれほど書き溜めたとしてもだから総てはお蔵入りを余儀なくされている。それを前提に書くしかないのだが、書いても書いてもどこにも届けられることはないだろう。それらはだから無に等しい。書くことは廃棄することと同義になり、最初から死を刻印されたドキュメントとして規定される。そのいずれもが決定的に世に出ることのできないものとして刻印されてしまったと忍は思う。そうじゃない、自ら封じてしまうのだ。封じるしかないのだった。ここに〈山本可奈子との交際とその突然の破局について〉と題された一群のファイルがある。小説のプロットか何かのようだが、事実なのか事実を元にしたフィクションなのか、あるいは全くのフィクションなのか美佳には分からない。あちこちに分散しているからその全体像は全然掴めないし、それを決定づけるファイルもいまだ見当たらない。

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