Effluents from Tomokata=H

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05

それは家の中だけで起きる現象で、家を一歩出てしまえばそんなことは全く起きなかった。その夜も祖父は現れては消えた。切れ掛かった電球がチカチカと点滅するように点いたり消えたりを繰り返していた。何かを訴えようとしているふうでもなく、ただいるというだけなので特に気になることはなかったものの、ふとしたときに突然現れたりなどするとやはり驚いてしまう。ふとその点いたり消えたりはモールス信号みたいに言語に変換できる類いの何か意味を成すものかとも思ったが、そうでもないらしかった。

ただ見ているうちに少しずつその前兆が分かるようになってきた。あの千変万化する捉えどころのない臭いがするとそのあとに必ず現れるということが分かったのだった。臭いは一端消えたのだが、祖父が現れだすとまた臭い始めていたのだった。臭いと祖父は間違いなく連動していた。臭いがしてから祖父が現れるまでの時間を計ってみると、最短が二秒で最長が十三分半とかなりの幅があって一定ではなかったが、予兆としての臭いは必ずあった。臭いがしなければ祖父は絶対に現れなかった。覚悟しているのとそうでないのとでは随分違い、そろそろ来るなと思っていれば、現れても余裕を持って「やあ来たね」くらいのことは言え、少なくとも驚かされることはない。なかなか現れないときなどは「遅いじゃないか、待ちくたびれたよ」と言ってみたりもする。それで相手が反応するわけではなく私の言葉は放たれたきりで応えはないのだが、却ってその方がよく、返事をされても困る。どこかでそれを期待しているところもあるかもしれないが、応えがないので好き勝手なことを言えるということに爽快感を感じ、それを些か楽しんでもいた。

「何だか独り言が増えたわね」と妻は言い、「お父さんに似てきたわよ」とも言い、「やっぱり親子ね、血は争えない」と最後に付け加えた。

父もよく独り言を言っていた。例のモゴモゴした籠り気味の声でひとり呟いているのだった。長いときには一時間近くひとりで何事か喋っていることもあった。それを聞いて誰か来ているのかと妻が茶菓子を持っていくと、虚空に向かってひとりで喋っていただけだったということが何度かあったそうだ。二人分の茶菓子を食いながら、尚も父は喋り続けるのだそうだ。それで思い当たった。確証はないが恐らくそうに違いない。父の言葉と照らし合わせてみると、父と私とではその受け止め方に多少の違いはあるものの概ね納得がいく。父のように達観していない私には、それを面白いなどということはことは到底できそうになかったし、それが頻々と起き、延々と続くなら帰宅恐怖症にでもなるに違いないと思い、世に言う帰宅恐怖症というものの真の原因はこれじゃないかと思ったりした。恐怖を感じないというのが唯一の救いだった。夜な夜な出てきて恨み辛みなどを言われ続けた日には堪ったものではない。

それも祖父かと思ったがそうではなかった。似ていなくもなかったが、無表情さが原因して似ているように見えただけで、よく見ると服装も違ったし背恰好も違っていたので別人だということが分かった。一時間近く籠ってようやくひり出してトイレから出てきた丁度そのとき、その人物と鉢合せになったのだった。ひどくむさ苦しい恰好をした小汚い年寄りが玄関の方から音もなく滑るように私に向かって歩いてき、咎めようとしたが動作が不自然で生気もなく表情も読み取れなかったので例の奴だと思い、反射的に祖父だと思ってしまったのだった。その人物も祖父と同じように現れては消えるということを繰り返すだけで私には何の危害も加えることはなかった。ただ困るのは現れるときの予兆の臭いに違いがなく、祖父が現れるときもその人物が現れるときも同じく千変万化する臭いだったのでどっちが出るか予測できないことだった。しかしすぐに現れる場所が違うことに気づいた。主に茶の間から台所にかけて現れるのが祖父で、玄関から風呂場までの廊下に現れ徘徊するのがその人物だった。しかし必ずしもそうではなく二人同時に同じ場所に出ることもなくはなかったが、そのようなことは稀で、大概別の場所に出てきたしそれぞれに好みもあるようで、好みの場所に出てきたときは心做しか動きが活発になるようにも見えた。

そのすぐあと立て続けに三人目と四人目が仏間に現れた。ひとりは仏壇に向かって正座し空の一点を無表情に見据えて動かず、ただ口だけがパクパクと動いていて何事か呟いている様子なのだが、声は全く聞こえなかった。もうひとりは仏間の隅にうずくまり、電灯の辺りをこれも無表情に眺めて動かなかった。これにはもう驚かなかった。乗り込もうとしたエレベーターの中に先客がいたというくらいにしか感じられず、むしろいて当然だと思った。五人目辺りから髷を結った者が現れ始めた。最初は禿げているのかと思っていたがよく見るとそうではなく、頭頂部に申し訳程度に小さな髷がちょこんと乗っているのが見えた。いかにも江戸時代の百姓然とした風貌だった。更によく見てみるとそれらの人々はどことなく祖父に似ており父にも似ており、はっきりした証拠があるわけではないので何とも言えないが、どうやら御先祖であるらしいことが分かってきた。全く無関係の者が出てきているわけではないことにいくらか安堵した。私に分かったのはしかしそれくらいで、その目的がどこにあるのか、どうすれば消えてくれるのかまでは分からなかった。

ふと生者と関わりを持たない霊というものが存在するのだろうかとの疑問が湧いた。霊というのはこの世の人間をあるいは護りあるいは取り憑き殺すもので、善かれ悪しかれその関係の中でだけ成立するものなので、何もしない霊というものが存在する余地などあるはずもなく、それは存在していないのと同じだ。護るものであれ取り殺すものであれ生者との関係性がその存在の根本条件であるならば、一切生者との関係を持たないらしい御先祖たちの存在はどう説明すればいいのだろう。御先祖を眼の前にしてそのことをずっと考えていたが、答えは出なかった。私には何も分からなかった。

本妻には黙っていた。一日の殆どを家で過ごす妻に見えもしない同居人を紹介したところで変に怖がらせてしまうだけなのは分かり切っていたし、この上妻にまで迷惑を掛けるのもどうかと思ったからだ。文

そのうち御先祖は引っ切りなしに現れだした。どれも江戸時代の御先祖だった。着物を着て髷を結った年寄りばかりだった。時代が遡るにつれてその姿は貧素になり窶れていき、江戸の社会を根本的に支え、士農工商と武士の次の階級に置かれていたものの、その実最も搾取され隷属させられていた農民の姿をまざまざと見せられる思いだった。それぞれの御先祖は勝手に現れては消え、そこには御先祖同士の連絡などもないらしかった。物理的な被害のないことが分かっているとは言え、御先祖は次第にその数を増していき私の行く先々にまるで先廻りでもするかのように現れるので鬱陶しく、どうにもやり切れなかった。各部屋に一人や二人は必ずいて、立ったり坐ったり揺れたり彷徨ったりしていた。中にはヒクヒクと痙攣している者もいて、見ていて気持ちのいいものではなかったので、そういうのは避けるようにしていた。日曜日ともなると家にいる限り御先祖と顔を合わさずにはいられないのだった。そのためどこに行っても例の臭いがついて廻り家中その臭いが充満してしまい、これには堪らなかった。御先祖そのものよりも臭いの方に参ってしまい、昼飯を食うまでは辛うじて我慢していたが、飯を食うと早々に家を飛びだし、昔農道だった溝川沿いのくねくねと曲がりくねった道を駅の方に歩きだした。一歩家を出てしまえば御先祖は臭いと同じでついて来れないらしく、無理して家にいることはなかったと思った。駅までは二十分ほどある。空気が堪らなくうまかった。普段この溝川沿いを歩くとその臭いが気になり近所でも埋め立てろという声が次第に大きくなりつつあったが、あのわけの分からない臭いに較べれば香水のようにいい香りに思え、埋め立てる必要などあるものかと、思い切りその空気を吸い込んだ。溝川の甘い匂いが肺一杯に浸透した。

午後の強烈な日を浴び、その暑さに耐え兼ねていたこともあり、涼みがてら今後の対策を練ろうと車の往来がないのを確認してから赤信号の横断歩道を渡って駅横の喫茶店に私は入り、日の当たらない店の奥の方に坐り、アイスコーヒーを注文しおしぼりで手を拭いてやっと御先祖と臭いに解放されたと思い、寛いだ気分になれた。浅くソファーに掛けて頭を背凭れに凭れ掛けぐるりと店内を見廻す。客は疎らで静かだった。冷房の効き過ぎのせいかウエイトレスはくしゃみを連発し、「ごめんなさい」と言いながらアイスコーヒーをテーブルに置くと、半袖の制服から出ている鳥肌立った華奢な腕をこすりながら戻っていき、そのあとも頻りにくしゃみをしているのが聞えた。

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