イングリッシュ・ブレッド
〈1.5斤分〉
ハルユタカ──────370g
グラニュー糖─────18.5g
食塩─────────7.4g
脱脂粉乳───────7.4g
顆粒ドライイースト──4.44g
バター────────22.2g
水──────────251.6g
仕上げ用バター────適量
ミキシング───ストレート法
捏ね上げ温度──27度
ハルユタカにグラニュー糖、食塩、脱脂粉乳、顆粒ドライイーストを加えて軽く混ぜ、そこへ計算式に則って算出した温度に温めた水を投入して手で掴むように混ぜ、粉気がなくなったらテーブルに移してまず擦りつけるようにしてグイグイ捏ねつけ、生地が纏まってきたら思いきりテーブルに叩きつけては巻き込み叩きつけては巻き込みを繰り返し、様子を見て生地の端っこを両人差し指と中指で下から支えながら互い違いに前後にフルフルと震わせて伸ばし、薄い膜ができるようになったらバターを混ぜ込む。バターが入ると生地は再びダレて緩むので擦りつけるようにしてグイグイ捏ねつけ、再びひとつに纏まってきたらバシバシと叩きつける。腕の力が適切に生地に伝わるとバシという重厚な音が小気味好く響くのだが、タイミングがズレたり力が殺がれたりするとベチャという情けない音になる。リズミカルに体が動けば巧いことバシとなるのだが、このとき渉はなぜか巧くリズムに乗ることができず、妙にベチャが響くのに焦りを感じて立て直そうと焦るが、焦ると余計混乱して動作がぎこちなくなってベチャという音が次第に多くなり、遂にはベチャとしか響かなくなって妙に力が入らないと思ったら左腕が全然利かないのだった。まるで自分の腕ではないようで、筋をおかしくしたのか筋肉疲労のせいか判然としないが、腕を振り上げるまではいいのだが振り下ろそうと筋肉を収縮させると肘から二の腕にかけての体側側やや肘寄りのところが変に騒ぐのだった。振り上げ振り下ろすときにひねりが加わるため余計に響くのかもしれず、といって右腕に替えても腕の力が生地に適切に伝播されずコントロールも悪く一定のところに打ちつけることすらできないのだ。不審に思った渉が左腕をつくづく眺めると所々腐れ爛れているうえ腐敗臭さえ発していて壊疽したような状態で真面に動かすことさえできないと思えるほどに壊れている。このような状態でミキシングなどできるはずもないが、生地はしかし待ってはくれずこうしている間にもイースト菌はブドウ糖・果糖を食って二酸化炭素を排泄するという発酵活動を続けており、一刻も猶予はならないと無視して渉は捏ね続けるが一向に捗らず、そのうち左腕からブチブチと弾けるような音がして限界が近いのを感じるが構うものかと更に続行すると肘関節辺りからとろけた巨神兵のようにグズグズと崩れだし、腕を振り上げても生地がテーブルにあるのでおかしいと見ると肘から下の部分が生地を掴んだままテーブルの上にある。すでに原形をとどめてもいないドロドロの塊となって転がっていて、テーブルに広がる黒い血膿が何か模様のように見え、次第に形を成してくるそれは顔のようだが誰のものか大方予想はついていて、浮かびあがったのは予想通り稔の顔のようだった。その血膿に浮かびあがった稔の顔らしきものの口の辺りが微動し蠢いているのは何か言っているためらしいが渉にはよく聞きとれず、聞きとれないながらも聞こえるままを表現すると「はっはこインチキね来るっ」となるがまるで意味不明で、更に幾度も幾度も繰り返して聞いてはみるもののついに解読はできず、というより割り込むように耳に入ってきた店員の声に促される形でレジ前に引き戻された渉は泳いでいた視線をデジタル表示画面に向ける。次いでそこに焦点を合わせて表示された金額を支払い、一歩踏みだすごとに擦れてカサコソと鳴るポリ袋を提げて来た道と同じ道を逆戻って渉は家に帰るとすぐに作業を再開し、細心の注意を払ったため今度はどうにかそれらしい仕上がりにすることができるが、それでも生地は幾分堅めで流動性がなく掲載写真にあるようにはトロトロと流れていかず、ゴム箆で掬っては落とし掬っては落として型に入れて表面を均す。配合から間違えているのかもしれず、だとすれば一から計算し直さねばならないが、これから計算し直して作り直すという時間も気力もすでにないし、かといって眼前のものを中途で見捨ててしまうことも渉にはできず、とにかくこれを完成させねばならない。完成と見做せるかはともかくとしてできるだけのことはせねばならないと、原因究明はあとにして「それでいいのかよ」と詰り「何だそれ」と嘲る稔を無視して何とも情けない出来のバヴァロア・ア・ラ・ヴァニーユに封印でもするようにシロップをたっぷり含ませたビスキュイ・ア・ラ・キュイエールを被せて蓋をし、冷蔵庫に入れて冷やす。その扉の閉まり際どこからか「ヘッヒー」という笑い声が高らかに響き、僅かに眉根を寄せた渉の顔が不快にゆがむ。
もう一種バヴァロア・オ・テ・ヴェールを作らねばならないのだが、今の「ヘッヒー」を耳にして途端に気力が失せてしまうし腰部に弱電流でも流れるような微かな刺激を感じもして疲労も頂点に達しつつあるとはいえ、このまま放ったらかしてもおけないので無理にも奮い立たせて渉は材料を計量し、水溶きの抹茶を加えた抹茶のアングレーズを作り、祈るように生クリームを泡立て縋るように抹茶のアングレーズと合わせていく。ホイッパーで円を描くようにゆっくりと混ぜていくと抹茶色のアングレーズと真白いクレーム・フェテとがホイッパーのワイヤーで分断されて筋模様になり、更に溶け合い混じり合って次第に淡い草緑色に変じていくのを渉は息を詰めて眺める。三度目ということもあって僅かずつだが状態はよくなってはいるもののそれでも納得のいくものでは決してなく、菓子の奥深さ底知れなさを渉は思い知り、いや、三年やそこらでその深奥を窮め尽すことなど出来ようはずはなく、まだまだとば口表玄関でその敷居に蹴躓き三和土の広さにうろたえて右往左往している程度にしか過ぎない。しかも減量の割合が間違っていたようで、つまり勘が外れて僅かだがバヴァロアが足りず、セルクル上部の数ミリほど下にまでしか達しないのだった。まだ上掛けのグラサージュが残っているが、本来なら峠は越したと幾分気が楽になって余裕を持って対峙できるはずだがこの有りさまでは落ち込むばかりで楽になどなれるわけもなく、稔の攻撃がそれに拍車を掛けもするし、しかも防戦すら儘ならないのだった。
生クリームは泡立てた時点でちょうどよくても型に流して捏ねくり廻しているうちにもその衝撃振動で固く締まっていくため作業は慎重を期さねばならず、冷水に当てながらホイッパーでとろみがつく程度にごく軽く泡立てて水溶きの抹茶を加え混ぜて型の表面に流し、残りの生クリームを同様に軽く泡立ててごく少量の抹茶を加えてグラサージュ・オ・テ・ヴェールの上にコルネで平行線状に絞りだし、竹串でその平行線と直角に互い違いに筋を引いて模様をつける。これを冷蔵庫で冷やし固めれば一応完成だと、そこでやっと一段落ついた渉は生クリームの油脂のこってり付着したボールゴム箆等を丹念に洗浄して乾燥機にぶち込むと、自室に戻って少し横になり、グラサージュが固まる頃合いを見計らってケーキナイフと包装用のアルミカップ八号とセロファンを抱えて自室を出て確認するがまだ固まっていない。仕方なく自室にとって返して待機するが二時間経っても三時間経っても表面のグラサージュ・オ・テ・ヴェールは固まらず、つまり泡立てが足りなかったらしく、傾けると傾いたほうにグラサージュが流れていく。それでも一昼夜そのまま冷蔵庫に入れておけば固まりはするだろうがそんなには待てないし、焦りから冷凍庫で急冷するという頭も働かず、何としてもその日の夕飯のデザートに饗せねばとの思いから已むなくカットする。レンジで一分四〇秒温めた濡れタオルをセルクル周囲に巻きつけてセルクルに密着した部分のバヴァロアを溶かして外すが、外した途端にセルクルで堰き止められていたグラサージュ・オ・テ・ヴェールが自重で流れ落ちていき、必然表面の模様も流れ崩れてしまう。途端に背後で「ギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハギャヘッヒヘッヒー」とけたたましい笑いが起きる。これを切るのがまた骨で、薬缶で沸かした湯を注いで温めた三〇センチ長のケーキナイフの先端をバヴァロアに斜めに宛ってそのまま押し気味にまず両断し、ナイフに付着したバヴァロアをその都度湯で流し且つ温めながら順次中心部を手前にして縁から中心に向けてナイフを入れて八等分するのだが、下端まで入れたナイフを開いて切断面を離すとやはりグラサージュが流れ落ちてビスキュイで隔てられた真白いバヴァロア・ア・ラ・ヴァニーユと草緑色のバヴァロア・オ・テ・ヴェールの層を覆い隠してしまう。総て切り終わったときには上面のグラサージュのほとんどが流れ落ちてグズグズの状態で、どうしようもなく無惨な仕上がりだが捨てるに捨てられず、屈辱感に苛まれつつも皿に盛りつけて出す。食べている間ずっと耳元で「食えたもんじゃねえ」だの「ゴミだなこりゃ」だのと嘲る声がするため、父真雄母芳枝の「味はいい」という慰めは何の気休めにもならず、食べ終わって皿を洗っているときも自室に戻ってモカ一〇〇%傍らに全体の反省並びにレシピの再考をしているときも「お前なんかに何ができる」だの「これがお前の限界だ」だのという声がずっと耳元でしているのだった。
家にひとりになってから、つまり父真雄も母芳枝も仕事に出掛けて家内から人の気配が失われて家内が完全に静寂に包囲されてから渉がその準備に取り掛かるのは、時間の流れの停滞したようでいてどことなく張り詰めた緊迫を感じもするその静寂が如何にもそれに相応しいように思えるからだし、どうしようもなく孤独を感じることに被虐的な愉楽を見出してもいるからで、その無時間的時間のたゆたいを損なわぬよう渉は極力静かに襖を開けて玄関脇の自室を出てまた極力静かに襖を閉め、スリッパもバタペタさせぬよう摺り足気味に歩き、ものの一分で万端用意を整えて実行に移る前に階段向かって右手にある果実乾麺缶ビールの山と積まれたカートに阻まれて半分しか開かないドアの隙間から台所に行き、渉専用のマグカップをグラス立てから静かに引き抜き、コーヒーメーカーのガラス容器の目盛りにちょうど三の辺りまで水を入れてコーヒーメーカー本体に注ぎ入れ、無漂白の淡茶色のコーヒーフィルターを底部と側面の糊しろ部分を折り返して嵌めてモカ一〇〇%を専用の匙で二杯弱入れ、マグカップにポットの湯を注いで温めてからスイッチを入れると渉は階段へ戻り、いつも通りまず階段に正対して一拍おいてから右足を踏みだして右左右左と四段上がって廻れ右をし、向き直った目線の上方にある輪っかに懸垂をして持っていった首をゆっくりと渉は差し入れる。
─了─