Effluents from Tomokata=H

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03

朝目が覚めた途端、意識が自己の覚醒を意識しはじめたその瞬間に渉がまず思うのはまだ生きているということだが、その認識は決して積極的な意味での生の歓喜を意味するものではなく、まだ死んでいないという消極的な、つまりすでに死んでいなければならないという含みのあるまだ生きているという認識でしかなく、その時点から渉はすでに憂鬱な思いに囚われている。睡眠が死のアナロジーとすれば覚醒によってほんのついさっきまで陥っていた睡眠へと意識が向くことで必然そのアナロジーとしての死をも想起せざるを得ず、すでに固く決意しているし毎日の儀式=予行演習に余念がないにも拘らずズルズルと延引して実行できずにいる自身の不甲斐なさを顧みて渉はまず憂鬱になり、加えて前日に解消しきれなかった憂鬱の残滓が夢の作用によっても癒されることなく残っていて、いや、却って増殖でもしたように全身隈なく覆い尽されて飽和状態に近いのを知覚して更にも憂鬱になるのだった。覚醒と同時にそれらが綯い交ぜになって押し寄せ滲みだし、挙げ句蒲団にまで染み込むのか二倍にも三倍にも重くなったように感じて妙に息苦しく、その二重の重苦しさから逃れようと蒲団から体をベリベリと引き剥がすようにして起きあがるその余勢で立ち上がり、鼻先に垂れ下がっている紐をカチリと引いて点けた蛍光灯が自室をクッキリ照らしだしても憂鬱が消し飛ぶわけではないもののそこではじめて一心地つけるのだった。魘されることはないが心地よい目覚めもなく、そのような目覚めをかれこれ十年近く渉は繰り返している。

睡眠中膀胱に溜まった尿の排出のため起きるとまず階段左脇のトイレに渉は直行する。食前食後はもちろん起きているあいだはその手元にマグカップなみなみのコーヒーを欠かしたことがないのでトイレは近いほうだが、冬場は特に発汗も少ないため頻繁にトイレに立つ。ドアには円柱状ではなく終端がほんの少し下部に湾曲している平角棒状のノブがついているが、この種のノブは押し下げて開けるため常に下向きに負荷が掛かって上部蝶番が弛んでドアがノブのついている側に傾げてしまい、開閉のたびに枠に引っ掛かってクキキと擦れる嫌な音が鳴るため渉はなるべく負荷を掛けないようにノブを廻して引き開けるのだが、それでもやはりクキと擦れてしまうのを如何ともしがたく、弛んだ蝶番の螺子を締め直すかあるいは蝶番ごと新しいものと取り替えてしまったほうがいいかなどと思いつつ入ろうとして見上げていた視線を下ろすと先客がいる。慌ててドアを閉めたためギギリギギと猛烈な擦過音を立ててしまい、家内が静かなだけに余計そのギギリギギが際立って聞こえ、その分不快さも増したように思えて渉は首を竦めるが、父真雄も出勤し母芳枝も出勤して家には未就労の渉ひとりなので先客などいるはずもないし、いるとすれば泥棒か何かの侵入者ということになるがそのような気配も何もなく、しかし便器に向かって立っている何者かの背中が確かに見えた。そのドアの軋みの不快が不審へと直結しているのか不審が刻々増大していくのを渉は感じ、しばらく中の様子を窺うがやはり気配はないし音も聞こえず、出てくる様子も一向にないので意を決して静かにゆっくりと細目に開けたドアの縦長の隙間から差し覗くとそこには誰もいないのだった。正面小窓外のサッシも破壊されてはいないのでそこから逃亡した可能性もなく、つまり最初から誰もいなかったということだ。不審に思いつつも尿意が去ることはないのでとにかく排尿を済ませ、便器周りに撥ねた尿滴を拭うことも怠りなく自身の尿と拭ったトイレットペーパーのみ流れ去る音を背に、流れることのなかった不審を常にある残尿感とともに抱えて渉はトイレを出てくる。ドッペルゲンガーと一応の解答を出すことで自己を説得しようとするものの胡麻化しに過ぎないと分かってもいるためどこか釈然としない。

自身の背中でないとすればでは誰の背中かと想像するに、渉同様長身痩躯の父真雄とは明らかに背恰好が異なるし母芳枝が立って用を足すことはあり得ず、一頃頻繁に現前して渉を煩わせたコルトレーン擬きのおっさんという可能性もなくはなかったが、禁コルトレーンの許にその呼び水となったCDを封印することによってコルトレーン擬きのおっさんとは完全に切れているし背格好もやはり異なるのでその可能性はあり得ず、その着膨れたような角のない真ん丸い輪郭は紛れもなく稔のものだ。この手で葬り去ったあの稔に間違いないと渉は思い、そう思った途端にすでに幾度も再現されて擦り切れボロボロになっていびつに変容している記憶が現前してエンドレスで再現され、ただでさえ憂鬱なのが更にも憂鬱になる。

一階リビングにおいて午後九時四七分から翌午前〇時二六分に掛けて第一次三者会議が行われたと渉は記憶するが、無理を言って召集を掛けた手前、父真雄と渉の実質三杯分になるUCCモカブレンド二杯分と母芳枝のFAUCHIONのアールグレイを渉自ら入れる。三年越しの願いが叶って張り替えたばかりの毛並みも艶やかな淡茶色のソファセットの南面窓際肘掛け椅子にまず父真雄が着き、それに続いて南面窓際肘掛け椅子向かいの揺り椅子に母芳枝が着き、父真雄のコーヒーカップ渉のマグカップ母芳枝のティーカップを固く絞った濡れ布巾とともに角盆に乗せて運び、テーブル上にそれぞれ配置してから二椅子向かいの西面壁際長椅子左端に渉がゆっくりと腰掛ける。父真雄も母芳枝もすでに寝る体勢で寝巻きにガウン姿だが、一方渉は寝るときと起きているときの着衣の別はなく常にトレーナーにスウェットで通しているため寝巻きとも部屋着とも判然とせず、自身自堕落とは思いつつその利便性を考えるとやめられないのだった。発話の切っ掛けを掴めぬままその無言の空白を埋めるように各自カップを手にするが、口元に運んだカップを傾けつつ互いに様子を窺い窺いするのみで誰も口を利こうとせず、対象が対象だけに気が重いのは皆の一致するところとはいえ、このまま沈黙を続けていても一向埒は開かず、それでは何のための三者会議かと渉はたまりかねたように「許せない」と口を開くが、初っ端の発言としてこれは適当ではないとすぐに後悔するもののすでに遅く、父真雄も母芳枝も渉のその発言に僅かだが不快に顔を歪める。渉にもそれは察せられ、忽ち気を削がれて発言の後悔から召集それ自体の後悔へと傾き掛けるのをぐっと怺えて次の言葉を賢明に探すのだった。

議題は当然稔の権力主義的差別主義の標榜あるいはその実践としての暴力についてということだが、出だしの第一声をしくじったためか渉の訴えに父真雄も母芳枝もどこか懐疑的で終始沈黙し続け、時折口にする言辞も要領を得るものではなく、現象確認に終始するだけで進展らしい進展のないまま気がつけば二時間近くが経過しており、一口目で口腔上部の皮膚を剥離させたUCCモカブレンドもすっかり冷たくなって苦味よりも酸味が強く感じられるのだった。模範的親性を示したいためか「悪意あってのことでもないだろう」と好意的見解に終始する父真雄と母芳枝だが、その実体をどれほど把握しているか知らないが稔に悪意がないわけはなく、その稔の戦略に易々と欺かれてしまっている二人を肯かせることの困難に渉は絶望し掛けるが、あるいは危険の身に及ぶことを怖れて欺かれた振りをしているだけなのかもしれないと思い、そうだとすれば画策次第では二人を味方につけることも可能だといくらか前向きになる。しかしUCCモカブレンドを一口静かに啜り込んだ父真雄が「確かに自分の思い通りにならないと気が済まないということはあるかもしれないな」と幾分苛ついた口調で言うと、それに被せるように「でもそれは昔っからだから、今さらどうにもなるもんじゃ」と母芳枝の諦念の一言が続く。父真雄母芳枝のその無気力な諦念に対する渉の不審を感じとったのか父真雄がその垂れ下がった薄い眉を殊更吊り上げるようにして眼光鋭く渉を睨むが、それは一瞬ですぐに穏やかなというより無感情の眼つきになり、「それよりお前のほうだ問題は。いつまでブラブラしてんだ、もう三〇だろう」と急に鉾先を渉に向け、「お前がそんなんだからやられるんじゃないのか?」とまるで稔の暴力性から何から総ての原因が渉にあるかのように言い、しかしそこを突かれて返す言葉もない渉が伏し目がちに黙してしまうと、その沈黙に勢いづけられた父真雄はそれからはもう渉のことしか言及せず、「お前のほうが分からんよ」と言い放った挙げ句総ては渉の被害妄想と決めつけるのだったが、被害妄想はむしろ稔のほうだと言ったところで聞き入れられず、それ以上食い下がることもできないため已むなくそれでお開きとせざるを得ず、何の進展もなく、いやむしろ後退気味に第一次三者会議は終わり、蟠りを抱え込んだまま渉は蒲団に入ることになり、震えるほど冷たい蒲団に加えてUCCモカブレンドのカフェインも手伝って極めて浅い眠りをしか眠れない。本人不在の議論に益がないのは端から分かっていたが何もせずにはいられず、結託の必要があり互いの意思の確認の必要を感じていたからこその会議召集だったのだが、父真雄と母芳枝はしかし稔の術中にすでに嵌ってしまっているらしく何某かの決断を迫るのは無理と渉は判断する。稔の孤立化を図るつもりが逆に渉のほうが孤立する形となってしまった。決断せねばならないのは渉なのだった。ただその決断を告げることはできず、いずれ実行するのだから告げてしまってもよさそうなものだし公正を期するなら告げるべきとも渉は思うのだが、そうなれば父真雄と母芳枝は当然説得妨害の挙に出るだろうから殺りにくくなるだけなのでやはりできないし、その実行のためにも新たな悶着不和の発生は極力避けねばならず、いや、抑も渉には公正を帰するつもりなどなく、殺ること自体が公正を食み出しているのだから殺るのに公正も糞もあるかと得手勝手な理屈で自身を胡麻化しつつ当面は大人しくしてなりを潜めていたほうがいいと断じ、そこまで考えたところでようやく睡眠へと傾きはじめたのを意識して渉は思考を停止させる。

とはいえその実行が極めて困難だということも確かで、外的状況においてはもちろん内的状況においても同様で、「殺す殺す殺す殺す殺す」と口に出して唱えてみても今ひとつ現実感がなく、包丁を手にして振り廻したり眼前に敵を想定して猛烈な突きを入れてもみるが殺意も沸いてはこない。憎しみを抱いてはいるものの殺したいというほどにまでは至っていないらしく、法を犯すという現実的側面も当然加味されて相殺されてしまい、つまりはそれをも凌駕するほどの強烈な殺意が沸いてくるまで渉は待たねばならなかったが、時間ならたっぷりとある。いや、時間などなく、今殺らねばあとになっても殺らず、というより殺れなくなるに違いなく、この隷属状態から脱するためにはそれより他ないのだと鼓舞し続けて自らを殺人マシーンに仕立て上げようとしたのだった。

確か涙をボロボロ流しながら晩のコロッケにする玉葱を微塵切っていたときと渉は記憶するが、その誇示するような足音を立てて稔が現れたのだった。階段からすぐのドアからではなく玄関よりのリビングのドアから一旦リビングに出てリビングの様子を窺いつつ台所へと現れたのだった。大概その経路を通ってくるのは包丁を握っていることでいくらか心理的優位にある渉が何某かの攻撃を仕掛けると予想し警戒してのことなのかとも思え、台所における稔が常以上に尊大且つ攻撃的に振る舞うことがそのことを端的に示しているように思えるが、単にその肥満体では邪魔なカートに阻まれて半分しか開かないドアからは腹がつかえて通れないというだけなのかもしれず、確かに稔がそこから出入りするのを渉は一度も見たことがない。包丁の先端部を俎に固定するように左手人差し指中指の二本を軽く添え、そこを支点として柄を握った右手を上下させて荒微塵にした玉葱を更に細かくサクサクと切り刻んでいた渉には、ただその存在を知らしめる「ンフ」という鼻息が洩れるのが聞こえただけで何がどうということもないはずなのだが、次の瞬間予告なしに背に玉葱の貼りついた包丁をその咽喉首に突きつけていた。相当殺気立ってもの凄い形相だったのか稔は一瞬怯んだようにビクリと痙攣して身を引いたが、すぐに怒りを露わにして身を乗りだしてくる。たるんだ脂肪の滑稽な揺らぎとは明らかに異なるその引き攣ったような顔面の皮膚の一瞬の動きに殺れると渉は思い、猛烈な殺意に突き動かされてというのではだからなく、殺人マシーンとしての極めて冷静な判断だった。挑発によって逆にこっちの気を削ごうとのことだろう、「殺れるもんなら殺ってみい」と凄んで「殺れよほら殺ってみろよ」と尚も稔は前進してくるがその声は幾分掠れ震えていて動揺が明らかに見てとれ、その「殺れよほら殺ってみろよ」にだから渉が動じることは少しもなかったが一声高く発せられた「ヘッヒー」という笑い声に渉の神経は分断され、その「ヘッヒー」が決定的な引き金となって肉にうずもれて定かではないその咽喉首目掛けて渉は包丁を突き立てたのだった。仕損じることのないよう狙い定めて慎重に且つ素早く突き立てる。とはいえよけるだけの敏捷性が稔にないことは念頭にあるため焦ることなく過つことなく正確に的に突き立て、グイと押し込むとその背に貼りついた玉葱が剥がれ落ちるのを幾分滑稽に思いつつ更に深々と押し込んでガリと骨に当たる感触を感じても尚奥へ奥へと押し込んで、勢いよく鮮血が噴出して辺り一面血の海となり、不様にのたうち廻る稔の姿を渉は期待していたが、咽喉首からは期待に反して濁りきってドロドロした異臭を発する血とは言いがたい粘性の強い液が間欠的にビュッビュッと流れ落ちる程度にしか過ぎず、血の海になることもだからなく、些か拍子抜ける。二の太刀三の太刀をだから今度はその膨れた豚腹に浴びせ、その豚腹に開けた穴を九まで数えたところでようやく「ううう」という呻きのような声を稔は洩らし、もっと呻けとばかり更にブスブスと突き刺してまるでタルト生地にピケでもするように穴を開けていき、それでも生来の鈍重性に変わりなくひどくゆっくりした動作でそれは蠢くだけなのを渉は何か物足りなく思うのだった。分厚く体を被覆している脂肪が死への移行をひどく緩慢にさせているらしく稔はなかなか死に至らず、その苦痛の延長を意味する緩慢な死への移行自体は申し分ないのだが、今ひとつ面白味に欠けるとそのとき不意に渉は思ったのだった。

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