Effluents from Tomokata=H

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それより他に言葉が見つからないのをもどかしく思いながら待ってますよと仁美がくり返すと「いつも私のほうが待ってるから」心配してるかなおばちゃんと関口さんは笑い、その不快に響く笑い声を打ち消そうとするかに違います奥さんですとまた声を荒げると、不思議そうな面持ちで何か心配ごとでもあるのかと訊かれてしばらく仁美は声もなく、所在なげに挫いた左足首を摩ったりしながらやり過ごすと膝元辺りに視線を落としたまま「待ってますよ、奥さん」とようやくそれだけを言い、次いで反応を窺うように関口さんのほうへと視線を向ければゆっくりと首を捻って見返してくる関口さんは「そう言えば鮭、食べ損ねました」とひどく残念そうに言うのだった。うちに帰ればいくらでも奥さんが焼いてくれるしキャットフードの比じゃないと食べもので釣ろうとしていることにいくらか仁美は抵抗を覚えるがこの際仕方ないとその線で押し、魚と聞いて色めき立つ関口さんの短絡にこれなら何とか切り崩せそうと僅かながら希望を懐いてさらに押せば、急にそわそわと落ち着かなげに立ったり坐ったりする。

じっとそれを見つめる仁美の視線から逃れるように関口さんは日の射し込んでくる空のほうを眺めやると「待ってるかな?」と呟き、旦那が行方不明で塞がぬ人がどこにいますか「待ってます、ずっと」と返せば、ハッハッハッと大仰に笑ったからこれには仁美も腹を立て、そこはしかしぐっと怺えて「笑いごとじゃ、ないです」と控えめに言ったつもりが怒気の表出は免れ得ず、気圧されたように関口さんは首を竦めると「確かに笑いごとじゃ」ないと詫び、「でもまあ、ずいぶん気の長いことで」としかしまるで他人事なのだった。それよりこっちのほうが重大とでもいうかに塚本のおばちゃん来てしまいますよと立ち上がると「どうします? 奥さん、ご一緒しまんか?」とまた言うのでそれだけはと固く辞し、とにかく居所だけは突き止めたのだから根気よく説得をつづければ心変わりもしようと仁美は思い、挫いた左足首が熱を持ってズキズキと痛んできたこともあってこれ以上長居もできないと暇(いとま)を告げるとゆっくりと立ち上がり、無理して普通に歩きながら通りへ出て、場所の確認も怠りなく帰途に就いたのだった。その帰りしな関口さんの居所を教えてくれたあの若い雄に礼を言わねばと思うが名前さえ訊いていなかったと自身の失態を仁美はひどく悔やみ、万治と面識があるというそれだけが唯一の手掛かりで、後日万治に訊いてみたがそんな猫は知らないと言われた。

自宅に戻るとすぐに仁美は挫いた左足首に湿布するが痛みは相当なもので、ソファに腰掛けてしまうともうひとりで立ち上がることも困難だった。テレビでも観るより他ないと仁美は卓上にあるリモコンでテレビを点けるが音量は絞って膝に雑誌を広げ、ブラウン管の明滅を視野の隅に捉えつつ雑誌を眺めて漫然と時間を潰し、和之の帰宅とともに近所の蕎麦屋から出前を取った。仁美の頼んだのは月見蕎麦だがその中央に浮かぶ黄身を箸で崩して麺に絡めながら啜りつつ「いたよ関口さん。見つけた」と仁美が告げると、こちらは山菜蕎麦をこれは薇(ぜんまい)これは蕨(わらび)これは木耳(きくらげ)とひとつひとつ確認するようにして摘みながら啜りつつ「そう」と和之は答えた。当然そのあとがつづくものと待ち構えていたがそれきり何の言葉もなく、あれほど可愛がっていたのにずいぶん薄情だと仁美は思うが何か自身の手柄をひけらかしているような気もしたからそれ以上問うこともしなかった。二人して黙々と蕎麦を啜りつづけて和之がその丼を洗い片づけたのだが、連日の緊張から解放されたせいか一挙に疲労が噴出して仁美はグッタリと眼も虚ろで、風呂に入るとそれが眠気へと変じて延々十二時間近く眠り、目醒めたときにはもう昼過ぎだった。

よく寝たから疲れは大分取れたが、関口さんの説得は何だか気が進まなくて止してしまい、その日仁美はずっと居室で茫としていた。長い午睡から醒めても買い物にも行かず、だらしなくソファに撓垂(しなだ)れた恰好で冷蔵庫に有り合わせのもので何とかなるかと虚ろに考えていると和之から電話があり、会社で何かトラブルがあったらしくて遅くなるとのことで、仕方なく仁美はひとり夕飯を済ませて風呂に入り、待つでもなくリヴィングのソファに浅く掛けてテレビを眺めていた。もう日付の変わるころになって帰宅した和之は猫だった。それを目の当たりにしても仁美はさして驚いたようでもなく、むしろ妙に納得されるような気がしたから自身不思議に思うが、夕方の電話の「トラブル」との言葉に何か予感めいたものがあったようにも思え、常なら先に寝ているところを起きていたということでもそれは窺えた。とはいえ現象それ自体にある種の戸惑いを感じていることは確かで、関口さんのこともそれは絡んでいるが、和之までもがどこかへ消えてしまうのではないかとの漠然とした不安が自身の思考を緩慢にしている原因だろうと仁美は思う。

銜えていた鞄をソファ脇に置くとひらりと軽い身熟しで和之は飛び上がり、仁美の膝のうえに乗って「疲れた」と洩らすが、和之のそのあまりに自然な動作に仁美は不思議な感覚に捉えられた。というのも猫としてそれがいくら自然な動作でも和之の所作としてはあまりに不自然だからで、そんなふうに甘えるように膝の上に乗ってきたことなど今まで一度だってなかったからひどく驚いて身を固くし、とはいえ自身の膝にいるのは猫なのでそれが和之なのか猫なのか瞬間分からなくなり、パニクるというほどでもないがいくらか仁美は恐怖を感じて身動きとれずに硬直してしまう。あとから思えば頭を撫でるなり咽喉を摩るなりすればよかったのだろうが、自身の膝の上で気持ちよさそうに丸まっている猫は何か得体のしれない生き物という印象を仁美に与え、どうにもしようがなかったのだ。仁美の困惑など知らぬげに「いやね困ったよ」と言いながらしかし大して困ったふうでもなく和之は言い、絞りだすように返した「何が?」との仁美の問いにうんとひとつ頷いてから得意先の人が猫嫌いとかでせっかく纏まり掛けていた契約がダメになりそうになったのだとか言う。

そんなバカな話があるかと仁美は憤慨するが営業なんてのは大概そんなものと和之はいくらか投げやりに言い、上司に慰められもしたらしいがやっぱ凹むよなあとやはり他人事のように呟くと、仕事もやりにくくなると零したりするものの困った様子では全然ないのだった。夕飯は済ませたのか訊くとゴタゴタでやはりそれどころではなかったらしく「まだ」と言うので仁美は仕度に掛かり、仕度といってレンジでチンするだけだが、そうして温め直したひじきときんぴらとホットミルクトとグリルで焼いた冷凍の鰺の開きとをご飯と海苔の佃煮とともに盆に載せて戻り、卓にゆっくりと並べ置く。箸は使えそうになかったが一応常のとおりに添えておいた。

ソファから卓に飛び移った和之はまず真っ先に香ばしい香りを放つ鰺に鼻先を近づけるが「熱いな」と言って冷めるまでホットミルクを嘗め、冷めてから鰺にかぶりつく。猫だけあって美味しそうに魚を食べると仁美は思いながら「お義母さん、なんて言うかな」と溜息まじりに呟くと、チラと視線を向けてからにゃあと一際感慨深く猫は啼いた。そのにゃあがいったい何を意味するにゃあなのか仁美には分からないが再度訊く気にもなれず、食べ終わるまでただ茫と眺めていた。ご飯は鰺とともにほんの少し食べたがひじきときんぴらと佃煮には全然手をつけず、たかが猫の分際で何様のつもりかお高くとまって鼻持ちならないと義母は常から猫への嫌悪を露にしていたから、今のこの和之を見たらなんと思うだろうと仁美は思い、いや、どう思ったって別にいいとも思う。盆に食器を片しながら風呂はと言い掛けて入るわけないかと曖昧な笑みに紛らしてキッチンへ立つと、思いきり蛇口を捻って水を流す。

その後も仕事のトラブルは頻出したらしいが恐れていた転属なり転勤なりの憂き目に遭うことはなく、あるいは解雇が検討されているかもしれないとの不安もないではなかったが和之が気にしている様子はなく、むしろ社内では結構人気とのことで、仕事それ自体も徐々にトラブルは減ってそれなり順調らしいからいくらか仁美も安堵する。ひとつ難を言えば和之の実家から送られたコシヒカリが置き場もないままキッチンの三分の一ほどを占領しているということで、それが和之のせいじゃないと分かっていながら「ひとりじゃこんなに」食べ切れないと愚痴めいた物言いになるのを抑えることができず、「そだね」と和之はしかし全然気にもしていないらしく、そうなるとあなたの母親なんだからあなたが何とか言ってくれたっていいじゃないかと仁美は口走りそうになるのを怺えて溜息でやり過ごすが、日に日にコシヒカリに占拠されていく我がキッチンに立つうち、脅威にさえ思うようになった。ひとりじゃ抱え持つこともできないその十キロの米袋から五〇〇mlカップで少しずつ米櫃に移し替えているとき、仁美はひとつの事実に逢着した。私は猫が嫌いなのだとの事実に、改めて気づいたのだった。その瞬間手元が狂ってコシヒカリを床に零してしまい、「ああ」と嘆息を洩らしながらしかししばらく拾うこともできずにいた。コシヒカリが白く眩しかった。

─了─

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