Effluents from Tomokata=H

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謝辞

午睡のあとで

01

和之の買ってきた崎陽軒のシュウマイと、仁美がコンビニで調達したひじきの煮物ほか数種の惣菜に漬け物、それとこれは常備の即席の味噌汁とがペットボトルのミネラルウォーターとよく冷えたビールとともに小さな食卓に並んでいるのを眺めて、ずいぶん貧相だと仁美は思う。このような食事がもう四、五日つづいているのに文句ひとつ言わぬ和之にむしろ感謝しているが、食事が貧相だからといって炊事が苦手なわけじゃなく、腕を振えばそれなりちゃんとしたものができはすると内心仁美は弁解しつつ一掬いしたひじきを口に入れるとゆっくりと咀嚼する。比較的海草類は好んで食べるが、それ以前に食べるということへのこだわりがなく、腹に入れば皆同じとの味気ない考えだから作る意欲もあまり湧かないし栄養バランスなり安全性なりの点に於いていくらか気になりはするもののそれが常態と化してしまえば易きに流れてしまうのは道理で、そんなふうにして徐々に皿の数が減るとともに出来合いの率が上がり、そのことに和之も気づいているはずだが、何も言わずにただ出されたものを食べるし取り立てて不平不満もないことからいつかそれが定着してしまったのだった。

その点について主婦としての後ろめたさなど微塵も感じていないといえば嘘になるが、和之も仁美も食が細いため普通に作ってもその大半が残ってしまい、何日も同じものを食べ続ける羽目になっていい加減飽きてしまうし食欲減退の誘因ともなるとそれはなかば言い訳にすぎないが、残ることを思えば作る気が失せるのも事実だった。たまに外食してコース料理など頼んでもだから半分も食べられず、不味くて残してるとか思われてるんだろうなどと変に気を廻したりするし、畏縮してさらにも食事が咽喉を通らなくなるしで全然食べた気がせず、却って疲れてしまうから今では二人きりでの外食は何か特別な記念日でもないかぎりほとんどないし、別段小洒落たレストランでディナーという柄でもないからそれをどうとも思わず、和之とても同様だろうとこれは仁美の勝手な解釈だった。それでもご飯だけは三合炊いて、しかも新米のずいぶんと値も張るだろうコシヒカリなのは、おかずに比して一点豪華主義を狙って奮発しているわけでは全然なく、和之の実家が新潟の米農家で毎年食べきれぬくらいの米を送ってくれるからで、確かに米は美味しいと仁美も思うしそれなり食も進むし経済的に非常に助かりもするのだが、減反政策とかでずいぶんと厳しいらしいと和之から聞きもしているから何だか悪いような気がし、何より我が家の食卓にはそぐわないようにも仁美は思うから、夫とともに帰省した折や、電話などあった折など婉曲に断わりもするのだが、「あんたが心配することないよ」と空笑みというのでもなく笑って義母は言うのだった。

箸で真二つに両断したシュウマイの片方を摘んで芥子醤油に軽く浸しながらふと思い出したというように和之が顔をあげるのを、飲もうとしていた味噌汁椀の縁越しに「何?」と眼だけで仁美が訊ねると「うん、ほら」と箸をではなく口のほうを箸に近づけて醤油滴るシュウマイを頬張ると、ゆっくりと咀嚼し嚥下してからしかし和之は妙なことを言ったのだった。

仁美ら夫婦の借りているマンション三階の隣の角部屋には関口さんというもう二人とも還暦は過ぎただろう熟年の夫婦が住んでいて、折々お邪魔して茶菓などご馳走になったり晩のおかずを頂いたりとずいぶん世話になっている。二人いた娘さんが他家へ嫁して「世話焼けるのがいなくなって清々したわ」と関口さんの奥さんは口では言うものの、どうかするとコンビニ弁当で済まそうとする仁美に「そんなモノばっかり食べてちゃダメ」と食べ切れぬほどのおかずを分けてくれたりするのは自分を娘とダブらせているからだと思うと仁美は可笑しくなる。

その隣の関口さんの奥さんではなく旦那のほうが猫だと和之は言うのだった。その風貌が猫に似ているとか猫的性格だとか身振りが猫を思わせるとか無類の猫好きとかいうような比喩としてのそれじゃなく、猫そのものだとの意で「猫なんだよ」と真剣な眼差しで言うのを仁美は「ふうん」と受け流したものの、内心ひどく動揺していた。というよりしばらくして自身の動揺に気づいたというのが正しく、白菜の漬物をシュウマイの芥子醤油につけて知らずに食べているのにふと気づいて、その動揺が相当なものと知ったのだった。ズズと汚らしい音させてビールを啜りながら「咽喉とか摩るとさ、ゴロゴロ言うんだから間違いない」とひとり頷く和之を横目で仁美は窺いながら、どことなくショーン・コネリーに似ていなくもない関口さんの咽喉を和之が摩っている場面を想像してちょっと笑いそうになるが、笑って済ませられるほどこれは他愛ないことなのかと思い、何やらまだ関口さんについて言及している和之をなかば意識から遠ざけて内省しはじめた。

生真面目な和之が冗談など言わぬことは結婚して六年、知り合ってから数えれば七年、いや八年ともなれば分かり切っていて、冗談でないとすればではその発言の真意はどこにあるのかと仁美は思惟を巡らせ、常にないその饒舌が何か疾しいことのある証左と言えなくもなく、何か他のことを隠そうとしているとすれば、その筆頭に挙げられるのは浮気というのがごく一般的な見解だろうから仁美もまずそこへと疑念が集中する。直感的にしかし浮気の線は薄いと仁美は思い、そうなるとやはり本気か、冗談かという二択になり、冗談など言えぬ人だから本気と結論せざるを得ない。得ないがしかし本気でそんなことを言うのも絶対におかしいし、そもそもなぜ関口さんを猫と思うに至ったかその根拠が仁美には分からず、いや誰だって分かろうはずはなく、その意味不明な言動はだから却って疑わしさを助長する体のもので、とはいえそんなこと和之にしても分からぬはずはないから、そうとすればやはり本心からそう思っているのだろうかと堂々巡りで埒も開かず、深く考えれば考えるほどわけが分からなくなって頭が痛くなる。

あるいはそのように自分を混乱させることが目的なのかもと仁美は思い、関口さんの猫っ振りは実に見事なもので容易に真似できるものじゃないなどと感心している和之の言動居措のうちに何らか嘘臭さをでも見出せないかと今一度観察を試みるが、生真面目な和之の生真面目さが見てとれるだけで疑念が晴れることもなく、そのせいか常と変わらぬ食卓の風景さえ何か異様な圧迫感で身に迫りくるように思え、まだその圧迫されるような異和の若干残るなか、それがリアリティーを齎すだろうことを期待しつつ事の顛末を告げて「どう思う?」と恐る恐る訊けば「どうも何も冗談に決まってるじゃないの、そんなの」と早智子は呆れ顔で、そんなことくらいで呼びだしたのかとさっきから口元で停滞していたティーカップを勢いよく受け皿に戻しおいたから皿が割れやしないかと仁美は少し慌てた。なかば予想はしていたもののひとり抱え込んでいるとどうにかなりそうだったから重大な話があると仁美は早智子を呼びだしたのだった。そうでも言わなければ出てきそうにもなかったからだが、重大とは確かに言いがたく、いや、それでも自分にはそれなり重大に違いないと仁美は自身を鼓舞しつつ「でも知ってるでしょううちの人」と真剣な眼差しで食い下がる。常から冗談など言わぬ人があんなことを口にするからにはその裏に何かなければおかしいと仁美の言うのに「じゃ気がふれたのよ」としかしもうまともに早智子は答えてくれず、ティーカップを脇へ除けて灰皿を手許に引き寄せると忙しなく煙草を吸いはじめ、その少し苛ついた身振りからそれが内に潜む奔流の噴出する前触れなのを仁美は知っているし、一旦それが溢れ出てしまったら再度自身のほうへと話頭を転じることが難しいのも承知しているから気が気じゃなかった。

その困惑した様子にいくらか気が引けたのか「その後はどうなのよ?」と視線は逸らしながらも聞くだけは聞いてあげるという素振りの早智子に「どうって?」と問い返すと、何かおかしなこと口走ったりはしないかと早智子は言い、別に普段と変わった様子はないと仁美がそれに答えると、「じゃいいじゃない」何が不満なのかと早智子は煙とともに吐く。確かに何が不満というのでもないのだが、どこか釈然としないのも確かで「なんかね、違うのよ」と身に纏わりつく異和について仁美は説明しようとするが、いざ言葉にしようとするとそれを言語化することの困難に改めて突き当たり、なんか違うとしか言い得ぬ自分に気を揉み、「なんかって何よ?」と突っ込まれても答えられないのがもどかしく、「ありもしないことで悩んでるうちはまだ可愛いもんね」と両断するような物言いで早智子は煙草を揉み消すと二本目を点けながら「うちの旦那なんかね」ともう後戻りはできなかった。

その旦那というのはかなりの美形だがもうそれ自体死語と化している往年の銀幕スターとでもいうような形容が似合いの古風な顔立ちで、妖しげなオーラを発しているのが仁美にはどうにも馴染めなくて苦手な部類だが、好む向きにはたまらないらしくこれまでにもその浮いた噂を早智子から聞かされているからまたかと仁美はうんざりし、今回のそれはしかしずいぶんとハードな内容で「興信所に頼もうかとも思うんだけど」と早智子の言うように相談に乗るという次元ではすでになく、それをどうしろと仁美には言えないし早智子も求めてなどいないだろうが、結果を見るのが恐くて今一歩踏み切れないと溜息まじりに言う早智子のそれに較べたら自分などどうってことないのかも知れず、叩いてホコリの出ぬ男などいないと早智子は断じるが、冗談ともつかぬことをたった一言口にしただけで他に和之に関してそのようなホコリめいた何ひとつを仁美は見つけたこともなかったから、やはりあれは冗談だったのだ、馴れぬ冗談など口にするから変に勘ぐってしまったのだとそう思い、自身にそう言い聞かせるうち忘れてしまった。

日曜日、朝からの好天気に誘われたという体で昼食のあとふらっと出掛けた和之だが、まだ仁美が食器の片づけも済まさぬうちに帰ってきたので濡れた手をシンクに残したまま半身を捻って「なあに、忘れ物?」と廊下のほうを窺えば、そこには猫を抱いた和之がいた。見ると虎毛の精悍な成猫で、見目整った顔だちに凛々しさの窺えるずいぶんと立派な猫だと仁美は思うが首輪のないところからして野良らしく、人なつこい性格なのかしかし嫌がりもせず抱かれている。動物好きというほどでもない和之が猫を連れ帰ってきたことの意外性よりもペット不可という規則に仁美はいくらか慌てて「ちょっと何? 管理人さんに叱られるよ」と言うと、抱きかかえている猫の咽喉元を優しく摩りながら「違うってほら関口さん」と斜(はす)に構えてよく見てみろと促すように心持ち上に掲げ、その言いようから冗談だろうと「またそんなこと言って」と濡れた手で肩辺りを軽く小突くが「でもほら関口さん」と苦笑混じりに和之は言い、和之のその苦笑に忘れていた疑念の塊が迫り上がってくる予感とともに何か不協和的な耳鳴りめいた響きが遠近く聞こえくるような気もしていくらか仁美が目眩を覚えたのは、和之のその苦笑が己が発言に絶対の自信を持っているときに仄見せるそれに他ならないと理解しているからだった。

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