Effluents from Tomokata=H

戻る  

01  02  03  04  05 


02

その直後自身の発した「も止してよ」とのいくらか上擦った調子の声に仁美はさらにも疑念のほうへと引き寄せられ、気まずい沈黙が一室に緊迫した空気を漲らせるなか、それを遮るかに「やあ奥さん」と猫が言い、つづけて「ご無沙汰してます」と挨拶するその言いようは全体間延びしていていくらか緊迫を緩和させたが、ふと降ろした視線の先にいる和之の胸に抱かれたその猫の眼をしばらく仁美は見つめていて、いやこれは和之の腹話術だと頭(かぶり)を振る。何年だか前に忘年会の余興で一刻堂ばりの芸を見せたとそれは和之の言で、確か二ヶ月も前から練習に余念がなかったのを仁美も記憶していたから今のは間違いなく和之だと結論し、それで自身の動揺を拭い切れたわけではないにしろいくらかは平静になれたし現況を概観するだけの余裕もでき、一歩下がってシンクに凭れる恰好で今一度事態を客観的に眺めれば悪びれた様子もなく猫の咽喉を撫でながら赤ん坊でもあやしているかに和之はヘラヘラと相好を崩していて、何が面白いのか知らないがずいぶんと質の悪い冗談だと仁美はちょっと腹を立てた。

これはもう何か一言言わねば気が済まないと濡れた手を拭くのもそこそこに再度仁美が和之のほうへ歩み寄ると、その殺気に気づいたかして逃げるようにその腕からひらり飛び下りて「ウチのやつ最近妙に塞いでてね、居心地悪くて困ってるんです」と関口さんの口調で猫が言い、その声とその口の動きとにアフレコめいた妙なズレもなく、CGかなんかのように流暢に日本語を喋るのを聞きながらこれをも和之の腹話術に帰すのはやはり無理があると思わざるを得ず、妙に納得させられて関口さんは猫なんだと何か事実確認でもするように仁美は思い、とはいえ関口さんが猫になったのか、もともと関口さんが猫だったのか、その辺のところがもひとつ仁美には分からないが、訊くのも失礼かと詮索的な視線を僅かに向けたのみでそそくさとキッチンへ引っ込み、洗い物をつづける仁美の口許はいつか緩んで笑みが洩れているが、端的に和之への疑念の晴れたらしいことに安堵した笑みというには程遠いそれは笑みだった。

猫の関口さんはそれからちょくちょく訪ねてきた。その際どうやって玄関のチャイムを押すのだか不思議で、あるいは押すまでは人の形をしていて仁美が玄関へ向かう間に猫へと変じるのかもしれず、そうとすれば不用意に開けたりしたら人でもなく猫でもないその中間の物体に出会わしてしまうのではといつだったかテレビで観た物体Xを仁美は思い出していくらか恐くなり、充分な間をとってドアを開けると足元で「やあ奥さん」と声が掛かり、仁美の脛(すね)辺りに体を擦りつけながら猫の関口さんは入ってくるのだった。何か用があるわけでもなく、日がな窓際のソファで寝転んでいるだけだが、日当たりだけから言えば角部屋の関口さんちのほうが断然いいはずなのに、奥さんが塞いでいるとか言っていたからそれで気詰まりなのかとも仁美は思うが、向こうが言わぬ先から問うのもどうかとそれについては黙していた。ぬるいホットミルクより他持て成すものとてないが、案外好みらしく美味しそうに関口さんはそれを飲みながらソファでゴロゴロして過ごし、日の暮れ掛かるころになって「それじゃ奥さん、失礼します」と告げて玄関へ向かうのを送りだすというのがパターンで、それでもたまに和之の帰宅するまで寝込んでいることもあって無理に起こすのも悪いと思うし関口さんひとり増えたところで高が知れていると一緒に夕飯を食べることになる。それはいいとしてひとつ気になることが仁美にはあり、普段和之とは食卓を挟んで食事するのだがそこへ関口さんが加わるとすれば両サイドのいずれかに就くのが順当のはずで、そのようにセッティングしたのだがそこが気に入ったのらしく関口さんは和之の膝の上に乗るのだった。その和之の膝の上で如何にも猫然としている関口さんとそれを平然と受け入れている和之とを交々(こもごも)仁美は眺めつつ、そこに見られる光景それ自体に何ら不自然なところはないのだが、それが関口さんなんだと思えば異和は拭い切れないし妙に居心地も悪く、というよりそのような状況下にあって普通にご飯を食べていられる和之をこそ仁美は不思議に思い、さらには取り分けたカマスの開きなんかを掌に乗せて関口さんにあげている様など見るとそれを関口さんとよりは単に猫としか思っていないようで、何だか失礼なような気もして食事中仁美はそのことばかり気に掛けていたから二度までもカマスの骨が咽喉に閊(つか)えそうになった。

食事が済んでも関口さんは帰る様子もなくまたソファで寛(くつろ)ぐふうで、その横に腰掛けた和之も同様寛ぐふうなのを横目に見ながら仁美はキッチンへと食器を運び、洗い物を終えて戻ってくると「猫はいいよ奥さん」世界がまるで違って見えると感慨深げに関口さんが言うのだった。どう違って見えるのかとの仁美の問いに「一口じゃ言えないが、なんていうか」世界が広くなったと関口さんは答え、それはあなたが小さくなったからじゃないのかと腹の底で突っ込みながら曖昧に頷き返すと、何かそれが物凄い発見でもあるかに「何より魚が旨い」と関口さんは笑い、猫が笑うというのも変だが笑っているとしか思えぬ表情だし実際関口さんはよく笑う人だったから笑っているのだろうと仁美が笑みを返すと、釣られて和之も笑みを浮かべるがこれをしも団欒というのだろうかとふと仁美は思う。その笑いの余韻の残るなか、心地よげに横になっている関口さんを眺めながら「なんか、いいですね」と和之が呟くと、後肢で耳を掻きながら「うん、いいよ」と関口さんは答え、「どう? 君も、気持ちいいぞ」と如何にも気持ちよさそうに言うのを羨ましげに和之は眺めていた。

関口さんの来訪に備えてというのでもないがそれから昼は焼き魚を仁美は食べつづけ、来たら半分を取り分けてあげるが毎日というわけじゃないから仁美ひとりだと肉厚の切身は食べ切れず、いつもなら残した半分ほどをラップして冷蔵庫に仕舞うのにそのときは残さず食べてしまって「苦しい」とソファに倒れ込むとジーンズのボタンを仁美は外した。消化が進んでいくらか楽になったころ玄関のチャイムが鳴って迎えたのだが、猫ながらイブニングだか燕尾服だかを着た関口さんは紳士然と直立していて、相当笑いを誘うだろうそれは光景なのだが相対した仁美の意識には笑いの欠片もなく、ひどく緊張した面持ちで足の運びもぎこちないのは自身それに見合ったドレスを身に纏っていたからで、つまりはダンスしなければならないからなのだった。

エスコートする関口さんの至極真面目な面持ちに仁美はさらにも緊張して胃痛をさえ覚えるが「鮭、あとで頂きます」と真剣な眼差しで言われていくらか破顔し、フロアと化した自宅リヴィングへ戻ればしかし忽ち胃に穴があく。十倍ほどにも広がったそこはもう自宅リヴィングとは言えぬほど豪華に装飾されたダンスフロアで、関口さんのみか遠近く影絵のように踊る他のペアも皆猫らしく、踊れぬ自分を仁美はただ恥ずかしく思うのみで他のことに注意を払う余裕さえなかったが、踊りながら関口さんが何か言い、それに自分も答えていたのは記憶にあり、交わした会話の内容はしかし全然記憶になく、その会話の内容を思い出そうとしていた矢先のチャイムにひどく緩慢な返事を返しつつ仁美は玄関に立ったのだった。猫だから気など遣わなくて済みそうなものだがいればそれなり気は遣うのだろう、しばらく訪ねてこないのをどうしたのかと訝りながらも誰の眼も気にせずひとり午睡のできる気楽さから仁美はさして気にも留めず、関口さんの奥さんの話をだからいくらか後ろめたい思いとともに受け止めたのだが、午睡のあとのまだ微睡(まどろ)みから抜け切らぬ茫とした頭に玄関のチャイムが響いたので関口さんかと思ったのだった。

いや、一概に微睡み状態のせいのみには帰せられぬ妙な現実感が伴っていたことも確かで、関口さんと結ばれていた手にその柔らかな肉球の感触が僅かながら残っているような気がし、うっすらと浮かぶ掌の汗粒を仁美はジーンズの尻で拭うと静かに立ち上がって「はあい」と応えつつ玄関に向かったのだが、頃合いを見計らってドアを開ければそこにいたのは関口さんではなく奥さんで、「うちの旦那来てない?」と訊くので「ええ最近見えませんけど? どうかしました?」と返すと「変ねえ、三日も帰らないのよ」と頻りに首を傾げながら細めに開けたドアの隙間を奥さんはするりと通り抜け、白い毛並みも艶やかに毛足の長い尻尾を優雅に振りながらスリッパを飛び越えると鉤の手に曲がった廊下の奥に消えた。そのあとを追うように仁美がつづくとそろそろ日も傾きかけてなかば陰になっているソファに横たわっている奥さんはことさら旦那を気に掛けるでもなく、欠伸などして寛ぐ様子が仁美にはどうにも解せなかった。以前からおっとりしていたが全体深刻さに欠けると苛立ちさえ覚え、他人事とも思えぬから「いんですか? 捜しに行かなくても」と問い掛けるが「いいのいいの」お腹空いたら帰ってくるわよと暢気なもので、これでは関口さんが可哀想だと内心仁美は嘆くとともに連日うちに入り浸っていたのも頷けると独り言ちる。

三日も家を留守にして連絡さえないというのはやはり唯ごとじゃないと奥さんが気に掛けない分仁美のほうが心配で落ち着かず、奥さんが寝てしまったのを機に仁美はひとり関口さんを捜しに出掛けることにし、起こさぬよう気配を殺してそっと立ち上がるがリヴィングを出ぬうちに「あらどこ行くの?」と呼び止められ、「ちょっと出掛けてきます」と濁すがちょっととはどこかと執念く奥さんは問い質し、わざとじゃないかと仁美は訝りながらもちょっとちょっとと胡麻化して買い物にでも行く態で部屋を出ていくその背に「行ってらっしゃい」と言う奥さんの声が妙に爽やかに響く。

捜すといって当てなどまるでなく、それでも以前の関口さんなら三町先の喫茶店「カラマンジー」に買い物で通りかかった折など大概カウンターの端っこにちんまりと坐っているのを見ることができたが、猫の関口さんがそこにいるかどうかは怪しく、他にしかし当てはないし猫だろうと人だろうとその行動パターンが急に変わるということもないだろうととりあえず仁美はそこへ向かい、店の外から中の様子を窺うとカウンター席に丸まっている一匹の猫を見つけるが、これは関口さんではなくこの店の看板ともいえる店主の飼い猫の万治で、他に猫の姿は見当たらない。ここがダメならもう他にどこを探せばいいのか、ただ闇雲に猫の姿を追うだけでは見つけることなどできないとなかば諦めながらも建物の隙き間だとかゴミ集積所だとか猫の集まりそうなところを仁美は捜して廻り、いるのはしかし近所の野良ばかりだった。

ふと猫の中には関口さんの知り合いもいるかもしれないから訊けば手掛かりくらい掴めるかもと仁美は思い、あるいは捜すのを手伝ってくれるかもしれないとそっと一匹の野良に近寄って「あのすいません」と声掛けると、背中辺りに僅かに虎毛の混じったほとんど黒に近い茶毛のその猫は目脂だらけの眼で訝しげに仁美を見つめていくらか警戒しているようで、それ以上の接近を諦めてその場に仁美はしゃがむと「えとあの、関口さん、てゆうか虎毛でこう眼のクリクリした大人の雄猫なんですけど、見ませんでした?」と訊ねた。むっつりした表情を崩さず仁美を見据えるだけで猫は何とも答えず、一旦怯むが踏み留まって「いえあの怪しい者じゃないです、ただ人を、じゃなくて猫を捜してるだけで」と問いを重ねても答えはなく、関口さんの奥さんもそうだが、猫とはこれほどまでに薄情なのかと仁美は悲しくなり、「お忙しいところお邪魔してすいません、他を当たってみます」と立ち上がると驚いたのか猫は逃げてしまう。その背を眼で追いながら「逃げなくたって」と溜息をつくと、逃げた猫の入り込んだ建物の狭い隙き間の奥をしばらく覗き込み、再度溜息をついてその場を仁美は離れた。

01  02  03  04  05 

戻る  


トップ | インフォ | プロフィール | 小説 | イラスト | レシピ | 雑記 | 掲示板 | 送信 | 履歴

コピーライト