その岡本のなかば無意識の期待に答えるかに変化が訪れたのだった。食卓にも使う座卓の中央やや左寄りに、それ一枚きりのハンカチを敷いたうえに箱は安置されていたが、その周囲に丸こい小さな灰色の粒が点々とあるのを岡本は発見し、糞とそれを把握するまでただの埃と思っていたが日ごとに数が増しているのに気づいて埃じゃないと瞠目し、卓上スタンドを点灯して引きよせ見ればそれはたしかに何かの糞らしくも見え、箱を中心にして放射状にそれが点在してるとなればその箱が排泄したと短絡したのではないが、状況から鑑みてそう考えるよりほかないと岡本は独りごち、尚しばらくその粒状の糞めいた塊を眺めていた。逡巡ののち粒のひとつを右手人差し指の指腹で押さえると何の抵抗もなくそれは潰れて跡形なく、固く絞った濡れ布巾で丁寧にそれを拭いとるが、布巾は少しも汚れなかった。偶然の重なりがこのようにも不可解な痕跡として残されたのかもと一点疑念を残しつつ、それが生あるものか生なきものか箱を前に小一時間ほど岡本は黙考していたが、何ら結論は見出せなかった。
この期に及んで何の用があるのか岡本にはまるで理解できないが、週末になると決まってゆかりは岡本の部屋を訪れるようになり、夜中遅くまでひとり喋りつづけて飽くことを知らず、事前に問いを封じてしまうそれは饒舌といっていいが、頷き相槌を打ちながら機を窺ってなぜこんな遅い時間ばかり選んでくるのかと岡本が問うたのに対してだってこんな時間しかあいてないんだもん知ってるでしょとゆかりは答えたのだった。それ以上に問いたかった問いは尚幾時間かの経過を待つまで機を見出せなかったが、ゆかりの饒舌にのみそれは帰せられず、端的に岡本のためらいがズルズルと先延ばしにしていたのだが、意を決して箱はどうしたかと訊けば、ほら見てとバッグの中から出して常に携帯していることをゆかりは示した。お守りじゃあるまいしバカげてると内心そう評しつつもどこか儀式めいた箱の眺めやりということに自身執心していることを顧みて大差ないかと岡本はほくそ笑み、改めてゆかりの掌にある黄白い箱を覗き込むと、その表面全体が微細な粒々に覆われいて鳥肌立ったような感じでなんだか気色悪い。手入れが行き届いていないからだと直感して毎日拭いてるかと訊けば、光るくらいに磨いてるとゆかりは自慢げだが、違う違うそうじゃなくてと岡本自身よくは分からぬながらその正しいと思われる手入れの仕方を説明すれば、ふうんそうなのとゆかりは訝しげに岡本を見やり、ついで手の中の箱に視線を下ろして箱に問いかけるかにそうなのと再度呟くと忙しげに箱を仕舞い込み、チラと岡本のほうを見て「帰る」と言うより早く立ち上がっていた。
ゆかりにしたその説明が間違っているとは思わないが、きちんとした手入れの仕方を聞いておかなかったのがひどく悔やまれ、いや、それだけじゃなくこの箱の正体についてそれとなく探りを入れることも含めて今一度あの仏具屋へ行こうと岡本は思い立ち、再びアパート裏の狭暗い路地を入ったのだったが、あれから幾日も経ってないのに綺麗に鋪装しなおされて猫の足跡も消えてなくなっていたからズブズブと路面に靴の沈み込む幻触もなく、舗装道路とはかくあるべきと快適に歩みを進めて時折吹く強風に舞い飛ぶ埃に眼を細め、口元をシャツの袖口で覆いながらてくてく岡本は仏具屋を目指したが、すぐに変だと気づいたのだった。辺り一帯なんだか場末の裏町めいて全体寂れた印象に変わり果てていて、あの祭のような賑わいはもうどこにもなく、目当ての仏具屋もどこだったかまるで分からない始末で、通りを行ったり来たりして幾度も岡本は確認するが脳の片隅に追いやられた曖昧な記憶を掬いあげることはついに叶わず、日の暮れまではそれでも粘ったが暗くなってしまうと点々としか灯らぬ街灯のせいか吹き荒ぶ強風のせいか舞い飛ぶ塵埃(じんあい)のせいか一帯はさらにも寂れ果てた様相となり、月もないから尚暗く寂しく、風のみしかし強く吹いてフラフラとなぶられつつ廃墟めいたその佇まいに岡本はなんだかまた迷ってしまいそうな気がしたため已むなく自室に引きあげたのだったが、箱のひとつくらいどうにでもなる清潔にしておけばそれでいいのだろうと高を括っていたそのせいかどうかは岡本にも分からないが、箱の維持管理は相応に困難なのだということをずいぶんあとになって思い知るのだった。
たしかその翌月曜の日の暮れ近く、もう暗くなりかかっているころだったと岡本は記憶するがまたもゆかりが訪ねてきた。週末を待たずしての再訪に何ごとかと戸惑いながら出迎えると、いつもならズカズカと上がり込むところを妙に控えめな態度で佇んでいるから「何? どうしたの」と訝り訊けば、べつにと身じろぐゆかりの背後で不意に気配が立ち、岡本のわずかな訝りはそこで一挙に疑念へと膨らんでついにヤクザなおっさんのお出ましかと腰が退けてしまうが、微かな衣擦れの音とともに姿を現したのはいかついヤクザなおっさんではなく生気のない優男で、身構えた途端岡本は拍子抜けする。誰と眼顔で訊ねたのに対しノブくんとの答えが返ってきてしかし再度身構えるふうだったのは、岡本の許へ通い詰めのゆかりとの関係を終らせようとの腹に違いないからで、これはこれでまた厄介な問題だと岡本は項垂れる。とはいえゆかりが岡本の許へ来るのは岡本の執拗な誘いを断りきれず仕方なくということではなくて純粋にゆかりの意思なのだから、それは誤解に基づく早計というもので問われる筋のものじゃないだろうと自己防衛的な思惟を巡らせつつ岡本は二人を部屋へと導き入れたが、これから展開するだろう修羅場を想像せずにはいられないし巧いこと回避できるかどうかも疑問で、端っから戦意を喪失して茫と框(かまち)に突っ立ったまま二人を見ていた。二人ともしかしなんだか普通で、殊にノブくんは初の訪問に所在なげなぎこちなさをあらわにしていて何らか底意のあるようには見受けられず、いくらか警戒を解いた岡本が座に着くと、あのさあちょっとコレのことで訊いてきたいんだけどと取りだした箱を大事そうに抱きかかえながらゆかりが告げた。店の場所を教えてくれとつまりはそれが目的なのらしく、前日のことがあったばかりで過たず行けるかどうか岡本にも疑問だが、アパート裏の路地を抜けて駅方面へ向かって出た街道沿いの左っ側にあると教えると、岡本の言葉を反芻するかに幾度か頷いたのち待っててねと言いおいて左左と呟きながら初対面の男二人を残してひとりゆかりは出ていってしまった。
これといった会話もないまましばらく二人は卓越しに対峙していたが、それにも限界があってどちらからともなく歩みよるふうに身じろぎしたりもするのだが端緒を得るには至らず、ただ無為にゆかりの帰りを待つのみで退屈だった。退屈凌ぎにといっては悪いがはじめて見るノブくんを仔細に観察したところ、線の細い風貌からして他人の懐へ強引に捩じ込んでいくような人物とは思えず、その屈託なげな眼差しを見るかぎり岡本への憎悪なり嫌悪なりも微塵も感じられなかった。とはいえ居心地の悪さは否めず、ノブくんと差し向いで坐りながらなぜこうなってしまったのか不思議でならないが、ゆかりからさんざんノブくんの滑稽譚を聞かされてもいたために初対面との感覚はあまりなく、そこにある種の策略めいたものを感じて自分を出汁にノブくんを焚きつけて関係改善しようとの腹かと思わぬでもなかったが、穿(うが)ちすぎとそれを岡本は斥ける。鉢合わせした間男同士みたいな妙にバツ悪げな苦笑に終始するのみで取り立てて悪感情の湧くこともなく、意気投合というわけには行かないにしろゆかりを巡って泥試合を繰り広げるということにはなりそうにない雰囲気だったのが救いといえば救いだった。
しばらくしてノブくんは卓に置かれた箱に気づいたらしく、というより眼のつくところにあるのだから気づかないほうがおかしいくらいで、ノブくんの反応はだからむしろ遅いくらいだが「あ」と小さく吐息の洩れるのが岡本の耳にも届き、徐ろに視線を向けると怪訝な眼差しで「コレ、ですか?」とそれに近づくというよりはむしろ遠ざかるように上体を仰け反らせてノブくんの問うたのに「です」と岡本は短く答えたが、つづく言葉を期待しているらしくノブくんは岡本へ視線を向けたままで、何か言わねばならないと岡本は言葉を探すが「遅いなゆかり」とはぐらかすようなことしか言えず、それでも律儀に「そうすね」と答えるノブくんは思慮深い視線を岡本に向けると、黄白い箱を指差してゆかりもこれと似たようなのを持ってるが全体これは何ですかといきなり核心を突くような問いを発したから「うん、まあ、箱ですよ、ただの」と取り繕いようもなく動転しているのを岡本は露呈させてしまう。
その問いひとつで優位に立ったノブくんにさらにも問うような眼差しを向けられて心底困り果てた岡本は箱を手にして眺め入る素振りに紛らそうとするが、尚も関心を寄せるかにノブくんは身を乗りだしてきたから視線も上げられず、無言で箱を眺めつづけていた。背後で急にあがった「ただいまあ」との声にだから救われた思いがし、箱を戻し置いて「あ、お帰りい」と笑みを向けるとひどく不機嫌そうに「ただいま」と再度ゆかりは呟き、最初のもそうだったが今ひとつその声に張りがないのを訝ってどうだったかとまずその首尾を訊けば、どうもこうもないよとやはり不首尾だったらしく、いくらか期待していただけに少しく落胆して店潰れちゃったのかなと呟くと違うとゆかりは首を振り、店はあったし説明も聞いてきたと言うのだった。どうもこうもないとはそれじゃあどういうことかと重ねて岡本が問えば、わけ分かんないよと苛立ちをあらわにゆかりは座につき、「で、なんて?」と急かす岡本を押しとどめてノブくんのではなく岡本のコーヒーをゆかりは一息に飲み干すと「わけ分かんない」と再度吐き棄てるように言う。
その説明によると二十二度から二十五度のぬるま湯に十五分漬けて丁寧に水気を拭きとり十五分おいて再度ぬるま湯に漬けて拭きとり、これをワンセットとして一日八セットくり返すということで何の意味があるのか全然分かんないよとゆかりは首傾げ、第一そんな時間もないしとそれに従う気も全然ないらしく、だってそれがあなたの身の安全を保証するすべてですなんて真剣に言うんだから気味悪くって「もういいですって」途中で遮って帰ってきたのだという。わたしはわたしのやり方でやるからとゆかりは息巻いて電灯に箱を翳して眺め入るが、ただの箱とも思えないからここは従っておいたほうが良かないかと岡本が懸念を示すと、人のこと言えないじゃんとゆかりは岡本の箱を指差し示す。気づいたときにはすでにそうなっていたのだが、ゆかりのそれほどではないにしろ撫で下ろす指腹にザラつく感触は否めず、艶やかな肌合いとはだから決して言いがたくなってしまったその状態を指摘されて岡本は返す言葉もなかった。
なんかムカついてきたあの店員とゆかりは次第に熱くなっていき、それをノブくんとふたりで宥め透かすが苛立ちは治まらぬらしく「お酒とかないの? ねビール」買ってきてと岡本に命じ、もう遅いし仕事にも障るからと断るのをいいから買ってきなさいと有無を言わせず、仕方なく近くのコンビニへ買いに走りながら妙な展開になってしまったと内心岡本は懸念していたが、飲みはじめればさして不愉快ではない酒で、飲みつけぬ酒をだからずいぶんと飲んでしまっていつか岡本は眠りに落ちていた。
小説/literary fictions