足元を心地良い微風が流れ漂っていた。庭の木が微かに揺れ、葉もそれに合わせて揺れていた。ふと眼の前の盆栽がなかば枯れ掛けているのに気づき、水をあげなければと思って立ち上がった。立ち上がるとき羽目板がみしみしと音を立てて鳴り、それが一瞬父の苦悶の声のように聞こえ、振り返って覗き見ると、ポカンとした痴呆的とも言える他の御先祖同様の無表情で坐っているだけだった。「脅かしやがって」とひとりごちた。
ジョウロに水を入れようと蛇口に手を掛けようとして、水を張ってあるポリバケツの中にセンチコガネがプカプカ浮いているのに気づいた。六本の脚を頻りにバタバタさせてセンチコガネは蜿いていた。水面が小さく波立ち、波紋を描いていた。手で掬い上げるとセンチコガネは私の皮膚をがっちりと掴えた。やがて掌の上をしっかりした足取りで動き始めた。そっと地面に置いた。ジョウロの口を宛がって蛇口を目一杯開いて口から溢れるほど一杯に水を満たした。蛇口を固く閉め、地面を振り返ると、センチコガネはすでにいなかった。ジョウロを右手に持ち、ポタポタと零れ落ちて地面に印しをつける水滴を血痕のようだと思いながら盆栽の前まで来て見返ると、水道から私の足元まで水の血痕が真っ直ぐに続いていて、まるで自分の体から流れ出た血の跡のように思え、蚊が腕や脚や首筋を目掛けて飛んできたのは、その血の臭いを嗅ぎつけたからだと思った。手で払い脚も盛んに動かしていたが、それでも何箇所か刺された。そんなはずはないが父に見られているとそのとき感じた。この盆栽もう駄目だ、枯れると思い、そう父に言おうとして振り返った自分が妙に可笑しくて笑った。御先祖の列に加わった父は縁側にひとりぽつんといつものように坐っていた。蚊に刺されるのも構わず私は水を撒き続けた。父がそれを見ていた。
ふと水を撒いていることが馬鹿らしくなり、ジョウロを投げ捨てた。ドボドボという小気味良い音を立てて水が零れ、乾いた地面にみるみる吸い込まれていった。横倒しになり殆ど水の流れ切ったジョウロを右足で蹴り上げた。ジョウロはコロコロ転がっていった。ちらと父の方を窺い見ると御先祖特有の無表情で真っ直ぐ前を向き、瞬きもせずじっと大人しく坐っていた。私は父を無視して家の裏に廻った。父はついて来なかったが蚊がついて来た。赤く腫れ上がったところを掻き毟り爪を思い切り押し立てて十字に跡をつけながら、しばらく裏山を見上げていた。小さくこぢんまりとした山だが、黒く大きく聳えて見えた。登ろうと思って足を掛けるが急にしんどくなって止めた。庭に引き返し、ジョウロとその脇の水を吸い込んで黒くなった地面を横眼に眺めつつ庭を横切りそのままふらりと表へ出た。垣根越しに庭をそっと差し覗くと、ビリケン頭がひょこひょこと動いているのが見えた。それを振り切るようにして家をあとにし、溝川を覗き込みながらぶらぶら歩いた。道の両側には家が建ち並び、それが駅までずっと続いていて、昔の面影は片鱗もなくどこか知らない土地のように一瞬見えた。溝川の臭いが急に濃くなったように臭いだして鼻を突いた。風がないため臭いは淀んだ。どんどん濃密になっていった。埋め立てるべきだと思った。いつの間にか左斜め後ろの溝川の縁ギリギリの辺りを父がつかず離れず歩いているのに気づいたが、無視して私は歩き続けた。日は暮れ掛けていて、西の空は赤く染まり東の空からは夜が迫っている。蜩の鳴き声が勢力を増していた。私が立ち止まると父も立ち止まり、私が歩きだすと父も歩きだす。まるで私の影のようにつき従っていた。日が落ちて暗くなってから家に帰った。後ろに楚々と控えている父を無視して勢いよく玄関の戸を閉めたが、靴を脱いで上がって振り返ると音もなく入ってきていて、同じように楚々と控えていた。
「また止まっちゃった」私を見るなり妻は言い、眼顔で合図した。
「またか」と私は言ってつかつかとその前に行き、見上げた。「もう駄目かな、こいつも」故障する周期がだんだん短くなってきている。古いと言っても昭和の始めか大正の終わり頃のものでデザイン的にも特に優れているようには見えず、骨董的価値があるとも思えなかった。二、三度揺さぶったり叩いたりしてみたがうんともすんとも言わなかった。重々しくぶら下がっている振り子は凍りついたように動かなかった。埃で指が汚れただけだった。諦めて私は坐り、「今まで動いてたのが不思議なくらいだよ」と小さく呟いた。「えっ、何?」と妻が言って私の顔を覗き込む。「もう駄目だな」と私が言うと、何か大切なものを失ったとでもいうような悲しげな顔をして、「そう」と言ってそれを見上げた。その前に父が立っていた。
膳の上に夕刊を広げて両肘をついて見ながら、「貴雄と昭彦は?」と私は訊いた。
「いるわよ、二階に」
「えらい静かだな」聞き耳を立てるが物音ひとつしなかった。
「そう言えばそうね」今始めて気づいたというように妻は言って天井を見た。
「大人しく勉強でもしてるのかね」
「だといいけど」
「益々似てきた」唐突に妻が言った。見ると私の方を妻は見ていた。一瞬言葉の意味が掴めず訊き返した。「何が?」そう言ったときにはしかしその意味をほぼ理解していた。
「だから、お父さんに」
「親父に?」言いつつ父のほうをちらりと見た。
「うん」
「おれが?」またちらりと見た。
「うん」
何度となくその言葉は妻の口から発せられていた。にも拘らず始めて耳にしたかのような気がした。以前のようにその言葉自体に突き刺さるような違和感はなかった。ちらりと父を見た。ぼうっと佇んでいた。
「見てた?」
「見てた」
「そんなに似てる?」
「そっくり」
「そうかな」
「そうよ」
「嫌か?」
「別に嫌じゃないけど……」
自分では似ているなどとは微塵も思っていないのだが、以前のように否定はしなかったし、そんな気もまるでなかった。それが不思議だった。
「新しいの、買わなきゃな」言いつつなにげに見上げると、当然だがさっきと同じ時刻を指していた。何か頑なに動くのを拒否しているような、そんな気がした。
「でもそれ捨てないでね」透かさず妻が言った。何故か妻はそれをえらく気に入っていたのだった。何度か捨てようとしたのをその度に反対したのだった。見上げるとそれはすでに変貌していた。完全にインテリアとして機能し始めていた。
「飯にしよう」私は言った。
子供たちが下りてきた。途端に騒がしくなった。
翌朝、眼が覚めると枕元に夢枕に立ったというような恰好で祖父が立ち竦んでいた。私を見るでもなく虚空を見据え、ただぼうっと立ち竦んでいた。風に揺れるというようにほんの少し揺れていた。何とはなしにその姿をしばらく見ていた。相変らず無表情だった。
「おはよう」と私は呟いていた。
─了─
小説/literary fictions