Effluents from Tomokata=H

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妻の言が正しいことは分かっているがそれを肯定することはできない。それは私の敗北を認めるようなものだったし、それを認めてしまうと何もかも崩れ去ってしまいそうに思い、これだけは絶対に死守しなければと思うのだった。妻のためというよりも自分自身のために。とは言え父のように守り切れるかどうかは甚だ疑問だった。

「実はね……」と私は切りだした。年来の業績の悪化で今うちの会社はひどくヤバい状態なのらしく、近く大幅な人員削減が敢行されるということで、それに伴ってシステムも一新するらしくその適性のない者から削減の対象になるらしいとのことと急に思いついて言ってみたのだが、口にしてみると思ったより尤もらしく感じた。事実半年ほど前にそんな噂があったのは確かで、しかしそのときは曖昧なまま立ち消えになったのだった。

「リストラ、されるの?」訝しげに妻は言った。

ここぞとばかりに私はうちの会社の経営不振について知ってる限りの事実を挙げ、周囲で巻き起こっている動揺などを事細かに些か嘘も交えて説明した。必死になって弁じ立てた。十五分近く喋り続けていたが、その間妻は一言も口を挟まずに黙って私の話を聞いていた。喋るうちにその妻の聞き振りに誘われるようにして嘘の割合が少しずつ増えていった。自己防衛的な嘘で塗り固めていった。気がつくと嘘ばかり喋ってい、慌てて話を切り上げた。尤もらしく肩を項垂れて仕事に疲れたとでもいうようにハアと溜息をついた。妻は私を見ていた。ハアとまた溜息をついた。いくらか疑念が晴れたようで、妻は私の心労を慰め労いなどしてくれた。子供たちがまた、笑った。

眼の前を名も知らぬ古代魚の群れがゆっくり横切って妻の方へ向かって行き、再び箸を取った妻の体を通り抜けていった。別の奴が妻の顔面からぬっと現れた。何匹もの御先祖が妻の体を出たり入ったりした。ただそれを見ていた。しまいに妻は見えなくなった。完全に御先祖に埋もれてしまった。不意に何もかも言ってしまいたくなった。今言ったのは全部嘘で実は御先祖の霊が見えるのだと、祖父が見え曾祖父が見え江戸人が見え弥生人が見え縄文人が見え新人が見え旧人が見え原人が見え猿人が見え、あらゆる絶滅した化石生物が見えるのだと言いたかった。見たくもない進化の歴史が見えるのだと。妻は黙々と箸を口に運びゆっくりと咀嚼していた。箸は食器と口との往復運動を絶え間なく規則正しく繰り返していた。妻の単調な咀嚼音だけが耳に入ってきた。その咀嚼音に釣られて私は口を開こうとしていた。喉元まで出掛かっていた。そのとき、父の「他言は無用」が私を阻み、私の口を噤ませた。私は我に返ったように箸を動かして無心に食い、危うく吐き出しそうになったその言葉を押し戻した。

御先祖との意思の疎通が不可能なことが私にとって不幸なのか幸運なのか分からなかった。めまぐるしく立ち現れる御先祖たちを快く受け入れたとしてもそこには何のコミュニケーションも成立せず、まるで絵に描いた餅に等しく、延々と続く歴史映画を無理やり見せられているようなものだった。逆に頑なに否定しても現前とそれが現れてくることに変わりはなく、これでもかこれでもかと執拗に攻め立ててくる。殆ど拷問に近かったが、いつしかそれにも神経が麻痺するように無感覚になっていくのだろうか。しかしそれは自我を外界の刺戟から遮断するに等しく、殆ど自閉症と変わらない。そう言えば父も稀にだが自閉的な状態になることがあった。話し掛けても何も答えず一点を凝視して微動だにしなかったが、そのくせ眼球だけはヒクヒクと盛んに動いていた。今まで私は父に対して何の尊敬も威厳も感じてはいず、尊敬する人はと訊かれて迷わず父と答えるような奴を不思議に思っていたが、このような事態に見舞われて一向に動じなかったらしい父には学ぶべき何かがあるような気がした。私の知っている父はそんなことはおくびにも出さず平然としていた。少なくとも私にはそう見えた。

父はいつも縁側に腰掛け、時々刻々移りゆく外の景色を漫然と眺めているふうだった。いかにも楽隠居然とした感じだった。今から思えばその姿は泰然として何某かの威厳のようなものが漂っていたような気がしないでもなかった。今でも父の部屋という雰囲気を損なってはいないその部屋に私は入った。父の匂いがした。いや気のせいだった。父の匂いなどしていない。御先祖の隙間から父の顔が覗けるような気が一瞬した。床の間に掛けてあった軸はなかった。妻が片づけたのだろう。スタスタと縁側に行き、父の坐っていた隣の辺りに腰掛けてみた。羽目板がみしみしと音を立てて軋んだ。庭を眺めた。それでどうということはないし父のようになれるわけでもなく、ただそこに坐って一時的に御先祖を追い払って外を眺めていた。

そこからは何が見えるわけでもなく、ごく有り触れたどこにでもある光景が展開されているだけだ。風が吹いて雲が流れているだけだった。糞面白くもなかった。そこからは退屈しか眺められなかった。めまぐるしく繰り広げられる御先祖の歴史を今度はじっくりと眺めてみた。歴史の講義でも受けている学生にでもなったつもりになって、それを眺めてみた。そうしてみるとそれらの光景も満更ではなかった。少なくとも眼の前の退屈な眺めよりは見応えがあった。僅かな遺伝的変化が膨大な時間の流れの中で自然選択という磨きを掛けられて蓄積し、生物を進化させて来たのだと分かるのだった。もっと知りたい、もっと見せろと思う瞬間が確かにあった。リンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したというニュートンのように、ダーウィンやラマルクはこれを見て進化論を思いついたんじゃないかとふと思った。そんな発想が浮かんだことに可笑しくなり、笑った。

どれくらい縁側に坐っていたのか分からないが、その間体力の消耗を殆ど感じていなかったことに気づいた。意思の力を要せずに御先祖の数が極端に減っていることにも気づいた。それが場所の力らしいのは縁側を離れると御先祖がまた大量に押し寄せたことで分かった。父の家と土地に対する執着や縁側に居っ放しだった理由がそれで解けた。動じなかったわけではなく泰然としていたわけでもなかったのだということが分かり、父の障壁がほんの少し剥がれたような気がした。

逃げ廻るばかりじゃなく、こっちから積極的に関わることで幾分煩わしさを紛らすことができるのだった。何もしないでいると途端に群がり集まり攻め入られ、身の内にまで入り込まれて脳髄をも冒されそうに思えてきて不安を感じもするのだが、見るという意思を以て見つめていると不思議と攻められるという気はしなくなるのだった。だから見ていた。観察し続けた。時代は恐らくオルドヴィス紀、4億3900万年~5億1000万年前辺りだろう。ピカイアとかいうなめくじみたいなのが現れ、クネクネと身をくねらせて泳ぎ廻っていた。二本の触角だか目玉だかが頭から突き出ていた。この脊索を持ったピカイアというのが脊椎動物の祖先だということらしかった。これがヘミキクラスピスとかプテリゴレピスとかプテラスピスとかいう甲皮魚類を生みだしたらしい。この辺りの御先祖はかなり小型化しているので観察は困難かと思われたのだがそんなことはなく、小さくても私の眼にはしっかりと見え、一匹一匹の動きまで手に取るように分かるのだった。しかし、ピカイアのような奴を追って家中をうろうろ歩き廻ったりすると家族の眼につきやすいので余程注意しなければならず、急に方向転換などしたりもするので自然に振る舞うのには苦労する。裏山で観察できるのは休日くらいなのでそれ以外はじっくり観察もできず、特に家では家族の隙を窺いながらの観察でその振る舞いは不自然にならざるを得ない。しかし家族もそんな私を少しずつではあるが容認し始め、遂には見て見ぬ振りをするようになったが、だからといって大っぴらに観察するようなことはせず、極力自然に振る舞うよう努力した。私は狂人ではないのだしそんな眼で見られるのもやり切りれない。仕方なく家の中では一匹一匹を追うのは止めて定点観測に切り替えた。それでも不自然な眼球の動きを誤魔化すには相当の努力が必要だった。

家では極めて日常的な一家団欒が、毎日当り前のように繰り広げられていた。眼の前に浮かぶ御先祖さえいなければ私もその一員のはずだった。御先祖がいるために私だけその一家団欒から投げ出されているように感じるのだった。御先祖が私を日常から剥ぎ取り隔離しているのだった。私は隔離されていた。御先祖に隔離されていた。一家団欒の最も近くにいながら一家団欒から最も遠く離されてしまっていた。その構成要素でありながらそれを構成できずにいた。同じ空間に存在していながらその間には大きな隔たりがあった。それは埋めようとしても埋め尽くせないほどの隔たりに思えた。

そんなことにはお構いなしに御先祖は次々現れ、変化を続けるのだった。ピカイアのような無顎類から腸鰓類、翼鰓類へと変化し、脊椎動物の原形と言われる海鞘のような固着性の生物になっていった。時代はカンブリア紀、5億1000万年~5億7000万年前辺り。この頃に生物は爆発的に多様化し始めたらしく、多くの異形の絶滅種が発見されているらしい。更に組織はどんどん単純になり細胞の数も減り、遂には肉眼では捉え難いミジンコほどの大きさにまでなってしまったのだが、不思議と私には顕微鏡でも覗いているかのようにそれがはっきりと見えるのだった。鞭毛一本一本の微妙な動きから体液の流れ、果ては代謝や細胞内の蛋白質合成の営みまで細大漏らさず見えてしまうのだった。下手をするとアミノ酸配列から遺伝子の塩基配列まで見えてしまうので、倍率調整をして細胞レベルまで上げなければならないのだが、顕微鏡のように簡単にレンズを換えるというわけにもいかず、それに掛かる労力は並大抵のものではなかった。微生物御先祖は世代交代が早いためか爆発的に増えてすぐに私の周りを覆い尽くしてしまい、しかもそれらはチカチカと眼の前を浮遊し靄のように視界全体を覆ってしまうので極端に視野を狭め歩行を困難にした。箪笥の角には足の小指をぶつけ、道路の段差には足を取られ、擦れ違う人とは衝突し、二度ほど車に轢かれそうになった。文字を読むのも一苦労で新聞などは殆ど見出しくらいしか判読できなくなり、人の顔もモザイク越しに見ているようでかなり近づかないと誰が誰やら分からなくなってしまった。御先祖制御に一層労力を注がなければならなかったが、それでも全然追いつかず、遂には危なくて外にも出られないような状態となり、当然会社にも行けず欠勤が続いた。止むを得ない措置とは言え、家での悶々とした日々は私には不安以外の何物でもなかった。することと言えば御先祖観察くらいしかなく、朝から晩まで御先祖を眺めていた。疲れると縁側に行って休んだ。縁側に行く回数は日増しに増えた。

家にいる私を子供たちはしばらく訝っていたが、子供特有の優れた順応性を発揮してすぐに馴れ何かと纏わりつくようになったものの、一々それに相手などしていられる状況ではなく適当にあしらっていたが、子供のことで限度を知らずその勢いは増していった。が、私にも限界があった。気がつくと今まで抑えていたものを一気に吐きだすようにして怒りをぶちまけていた。もう少しで手を上げるところだったが、叩くには少し距離があったお陰で辛うじてそれは押しとどめた。しかし子供たちにしてみれば不意の出来事で、理解できず理不尽に思いもしただろう。あとになって狭量な自分に腹が立ち、申し訳ないと思った。以来子供たちは以前にも増して私と距離を置くようになった。

御先祖の現れ方はスピードを増し、先カンブリア時代の20数億年という膨大な時間をめまぐるしく駆け巡っていったが、そのビデオの早送りのような現象を私は的確に捉え観察することができた。細胞の数は極端に減り、多細胞から単細胞になった。これが約6億年前のことらしい。それ以前の30億年はずっと単細胞生物の世界で、その単調な世界は果てしもなく延々と続くように思えた。そして動物だか植物だかも分からなくなり、遂には核膜を持たない原核生物も現れた。15億年ほど前らしい。生命の歴史の35億年のうち、半分以上が原核生物の世界なのだった。それらはDNAが剥き出しの頼りなげな細胞に過ぎず、真核生物に較べても遥かに小さかった。細菌のようなそれらは濃い霧のように立ち籠めて視界を覆い尽した。それらはDNAを繙きRNAに転写し酵素を合成して頻りに代謝を繰り返していた。酵素をコードする遺伝子の重複とそのコピーの分散が、特異的酵素を生みだし代謝を複雑にしていったのだった。

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