新作小説
2023年11月25日
一ヶ月前のことになるが、長らく書いていた小説が完成したらしい。らしいというのはそれが本当に完成しているのか完成していないのか、完成したと言っていいのかどうか、つまり完成とは何か、何を以てして完成と言えるのか、等々について確かなことが言えないからで、さしあたりこれ以上書き足すことがなくなったということ、それを完成と見做すことは必ずしもできないにせよそれ以外に理由が見出せないのも確かで、とにかくテクストの増殖は止まったのであり、増殖が止まったわけだからそこで筆を置くのが妥当ではないかとそう考えたのだろう。
そんなわけでHTMLファイルとDLファイルを作成してサーバにupしたが、エンタメではないので読まれることはほぼないだろう。一ヶ月経過してもアクセスはほとんどない。そんなことより次は何を書くかということのほうが気になるが、これから書こうとするものを事前に分かっていた試しはないので、それは書きはじめなければ分からない。尤も書きはじめることができればの話だが。
CDを買う
2023年07月25日
ずっと古いジャズばかり聴いていたが、というか今も聴いているが、少しずつ現役のアーティストも聴くようになってはいて、それは何より情報を入手しやすくなったことが大きく、SNSやYouTubeでこちらから探しにいかなくても目に入るようになったからだろう。演奏を聴いて気に入ればアルバムも聴いてみたくなるが、ジャズだからなのかCD自体が売れないからなのか、検索しても品切れが多いし国内版はおろか輸入版の国内販売もないというようなことも結構あって、そうなると余計ほしくなり、取り寄せ可能であれば取り寄せるということになる。
ダウンロード販売もないことはないが、データで買うと作曲者情報がないものがあるのでちょっと困る。というのはiTunesで楽曲を管理しているからで、スタンダードなら検索すれば分かるが、オリジナルは調べようがなく、データだからCDDBにもアクセスできないし、検索してもサブスクの情報しか出てこない。何か実害があるとかそういうことではないのだが、どこか釈然としない。CD販売がなければデータで買うしかないがCDで買えるならCDを選択する。充実したライナーノーツを求めているわけではなく最低限の楽曲情報がほしいだけだ。収納スペースが限界を越えているからデータにすべきなのだが。
ただCDも書籍と同様、買ってもすぐに消費することができないし、必ずしも買った順番に聴くわけでもないから未開封のまま何年も経ってしまうこともしばしばで、以下の三作にしても開封したのは『Good Spirits』だけで残る二作は未開封。『Good Spirits』でピアノを弾いているジュリアス・ロドリゲスが恐ろしく巧くて驚いたが、録音時21〜22歳と知ってさらに驚いた。1曲目の「Inner Glimpse」からマッコイ・タイナー張りに激しい演奏で圧倒される。自身のリーダーアルバムも出ていてちょっと気になっている。
それはともかく、三作はいずれもニコール・グラヴァー(ts)の参加しているアルバムで、なかば彼女目当てと言ってもいい。
More Powerful(ジョージ・コリガン/2017)
ジョージ・コリガン(p)
ニコール・グラヴァー(ts)
リンダ・メイ・ハン・オー(b)
ルディ・ロイストン(ds)
WHIRLWIND / EAN 4055388386303
Good Spirits(アレクサンダー・クラフィ/2021)
アレクサンダー・クラフィ(b)
ニコール・グラヴァー(ts)
ベニー・ベナック三世(tp)
ジュリアス・ロドリゲス(p)
ジョー・ファンズワース(ds)
CELLAR LIVE / EAN 0875531020946
Quarantine Dream(ケイリ・オドエリー/2022)
ケイリ・オドエリー(p)
ニコール・グラヴァー(ts)
タミル・シュマーリング(b)
コリー・コックス(ds, per)
POSI-TONE / EAN 0768707823321
ところで長らく書いているというか書き倦ねている小説だが、まったく終わりが見えない。
欲望は螺旋を描く
2023年05月26日
欲望とは他者の欲望であり、他なる欲望であり、それは欠如に於いて不在に於いて作用するというようなことを言っていたのはラカンだったか。そして抑圧した欲望は回帰するのだったか。
ロラン・バルト『小説の準備―コレージュ・ド・フランス講義ノート I・II』はバルトの生前最後の講義のために書かれた講義ノートで、『いかにしてともに生きるか』『“中性”ついて』につづくロラン・バルト講義集成の最終巻になる。
最初の講義(1978年12月2日)で「人生の道の半ば」とダンテを引用しながら、新たな生についてバルトは語りだす。書くこと、エクリチュールを生業とする者としての新たな試み、それは「文学の道に入ること」つまり小説を書くことだと。書かれるべき作品が必ずしも小説とはかぎらないようだが、広い意味で文学作品ではあるようだ。
とはいえなぜ小説なのか。批評家としてのバルトがそれまで書いていなかったジャンルだからといえばそれまでだが、現在の仕事をつづけることにうんざりしていた様子ではあり、その退屈さ単調さを嘆いている。さらに喪の苦しみが重なったことも大きいようだ。そこで選択を迫られることになる、隠遁するか、新たな生へ向かうかという選択を。隠遁については“中性”についての講義で取り上げられていて、その可能性もあったことが窺えるが、バルトは後者を選ぶ。一切の講義をやめて小説執筆に専念しようともしたらしいが、それは断念したらしい。講義はつづけるが、大計画のために“中性”ついての講義の出版を諦めると言っていて、実際生前に講義が出版されることはなかった。
講義は小説を書くということがテーマで、書く主体について、主体は如何にして書く主体となるのか、如何にしてそれを維持するのかについて、ある種の欲望を巡って、フロベール、プルースト、カフカ、シャトーブリアン、ランボー、トルストイ、バルザック等を参照しながら語られる。といって小説の書き方講座ではなく「作家たちがその小説の準備をするために用いてきた技法に関する情報を収集しようというのでもない」、作家の生態というか、物書きあるあるとでも言ったらいいのか。道具への拘りとか、書くための場所、時間、書くことを邪魔する訪問者、騒音などの外的な要因、不安、怠惰などの内的な要因等を取り上げていて、少しでも創作に興味があり、志したことがあり、実際に創作しているなら、身に覚えのあることも少なくないだろう。
シミュレーションとも言っているが、バルト自身を例に挙げながら、書く主体が直面する試練を取り上げてゆく。三つの試練を挙げているが、バルトにとってはそれ以上に困難な試練があり、それは「嘘」ということになるだろう。
嘘がつけないから小説が書けないとバルトは言う。小説とは虚構なのだから小説を書くということは当然嘘を、尤もらしいものにせよ如何にもなものにせよ、嘘をつくということになる。そこに嘘がなければ小説ではない。これは本質的な問題でこれが解決されなければ作品は完成しないというか、書きはじめることさえできない。書かれるべき作品が小説であるにせよ小説ではないにせよと常に留保しているのだが、結局バルトはそれを解決できたのかどうか。
そして最後の講義(1980年2月23日)「講義を終えるにあたって」に至ってもなおそれは不明のまま残っている。二年に亘る講義の結論は書かれるべき作品それ自体となるはずなのだが、その時点で作品は書かれていない。
バルトが欲望する作品とは如何なるものか。「望まれた作品は、単純で、血統的で、欲望されうるものでなければならない」と言い、単純さの第二の条件として「作品が、作品についての作品の言説であることをやめること」と言う。ブランショを忌避するようにとも言っていて、メタ的な構成や現代文学的なものとはべつの方向性を示している。共生や中性に於いてはブランショと通底する面があるが、小説はそうではないようで、講義で例に挙げる作品群を「広い意味でのロマン主義的な作品」と呼んでいることからも分かるが、バルトが欲望していたのは古典的な小説なのだろう。
さらに「マラルメの書物の概念に立ち戻って」と言っているが、書物が「一冊の欲望されうる書物へ」至らなければならないというそのスローガンは消えてしまったので、それをべつの場所へ呼び戻すと言う、「螺旋を描くようにして」。そうとすれば単なる古典回帰というわけでもないだろう。つまり古典的な作品を志向しながらそれとはべつの地点を目指すということになる。
マラルメの絶対的な書物という概念はそれ自体不可能な試みだが、バルトの望んだ作品もかかる書物の不可能性に劣らず不可能な試みと言っていいのではないか。作品が不在であることがその不可能性を表しているが、不可能な試みであるからこそ欲望するのでもあり、その意味でバルトの小説の準備は終わりなき準備ということになるほかない。そうとすればその行き着く先は書物の不在ということになりはしないか。
書かれなかった作品について何を言ったところで虚しいが、それもまた欲望されうるものなのだとすればそれはそれでいいのかもしれない。
ロラン・バルト著 石井洋二郎訳『小説の準備―コレージュ・ド・フランス講義ノート I・II』 筑摩書房刊2006年