あっちの本棚
2009年06月30日
マンガはすらすら読めるが哲学思想系はなかなか読み進められない。だからこちらの棚にはまだいくらか余裕がある。
一冊抜けているのはジャック・デリダ『哲学の余白』下で現在読書中。ちょうど「繋辞の代補」を読み終えたところ。
言語学者バンヴェニストの『一般言語学の諸問題』内の「思考のカテゴリーと言語のカテゴリー」における分析を繙きながら、言語と哲学の、あるいは言語学と哲学の微妙な関係について分析している。
バンヴェニストはその分析に際していくつかの哲学概念を利用しているのだが、分析主体が用いるそれら哲学概念も、元を辿ればそこで分析対象となっているアリストテレスにまで行き着く。つまり分析対象が生みだした概念を用いて当の分析対象を分析するということになるわけで、そのかぎりにおいて、分析には慎重にならねばならないとデリダは言うのだ。そうした事態によって「一切の権威が奪われるというわけではない」(※1)としてはいるものの。
分析はさらに精緻になされるが、さしあたり本棚を晒すのが目的で本を紹介するのが目的ではないので、この辺でやめておく。こちらの浅薄な理解を露呈させて墓穴を掘るのもアレだし。興味のある方はご一読を。上下ともに3,990円で、合わせて7,980円。
※1 ジャック・デリダ 藤本一勇訳『哲学の余白』(下) 法政大学出版局 2008年2月25日/34頁
向かいの本棚
2009年06月22日
とはいえ少女マンガの情報にはまだまだ疎いので、幅広く読んでいるわけではない。アニメ化されたりドラマ化されたりすれば、そうしたものは比較的目につきやすいが、そうでないものはなかなか目に入らないというか、情報として届きにくいのだ。
そんなわけで面白そうなものがあったら躊躇わず読むようにはしているが、取りこぼしも多々あることだろう。というのも面白いかどうかは読んでみなければ分からないわけで、店頭でビニールに包まれたものを透視できない以上、その絵柄だけで判断することも難しく、手に取るまでに至らないことが多いからだ。巷で話題になっているからといってもそんなものは当てにならないし。然りとて数多ある雑誌に一通り目を通すことなどできるわけもない。どうしたものか。
因みにマンガは読書のうちには入れていない。
捨てられない。
2009年06月17日
以前に較べて本を読む量が減っている。集中力が落ちたのか、体力の問題か、読みたい本があまりないということもある。比較的難解なものが増えてすらすら読めないということもある。それでも少しずつ読んではいて、読み終われば当然書棚へ仕舞うことになるわけだが、すでに書棚は一杯で、収納するスペースがない。まったくない。隙間という隙間は埋まってしまっているのだ。
それでも納めようとすれば古いものを取りださなければならず、溢れたものはダンボールへ待避させることになるが、四箱あるそれももはや一杯だ。
新たに書棚を買ったところでそれを置くスペースもない。思い切って処分してしまえばいいのだが、それはなかなかできない。
とはいえ、これまでに一冊も処分していないのかといえば、もちろんそんなことはなく、幾冊かは処分しているのだが、全体からすればほんの僅かな量にすぎない。
まあそれでも一室本で埋まっているわけではないし、ダンボールもまだ四箱で済んでいるのだから、今のところさして気にすることでもないのかもしれない。そうなったらそうなったで、そうなったときに考えよう。
テレビ
2009年06月07日
うちのテレビはまだアナログ。しかも液晶でもプラズマでもなく、ブラウン管。それでも見るのには何の支障もないので、買い換えるつもりはない。多少ゴーストが出るが、それはテレビのせいではないし。デジタルにすればゴーストは出ないかもしれないが。
とにかくテレビを買い換える気はないのでアナログ放送終了に伴い、チューナーを設置するほかないわけだが、問題はどのタイミングで買うかだ。ギリギリでも構わないと言えば構わないのだが、アナログ放送の終了間際だと同じように直前になって購入しようとする人が殺到して品切れなどということにもなりそうなので、いくらか早めに用意したいところ。
まあ終了までにはまだ二年あるわけだから、それは来年になってから考えるとするか。
ところでクローゼットでダニが大量発生している。目下ダニシートで応戦中。
【お知らせ】
いつからか分からないが、しばらくレシピのページがアクセス不能になっていたらしい。メールにて知らせて頂いて気づいた次第。どうやらFTPで作業中にうっかりフォルダごとディレクトリを移動させてしまっていたらしい。そのためレシピ関係のファイルでURLが変わってしまい、エラーになったということだ。
大変ご迷惑をお掛け致しました。お知らせ下さった方には、この場を借りてお礼申し上げます。
ケーキなど作っている場合ではない!
2009年05月19日
なかなか小説が捗らない。というか全然書けない。ストーリーはなく支離滅裂で、事件など起きないし出来事らしい出来事もこれといってなく、今のところ会話らしい会話もない。時系列もめちゃくちゃだし場面展開も唐突で脈絡がない。だからどのように語を継いでゆけばいいのかまったく分からないし、先の展開もまるで予測がつかない。今にも切れそうな糸を手繰り寄せるような感じで何とももどかしい。そんなわけで一日数行しか書けないこともしばしば。
だからケーキなど作っている場合ではないのだ。いや作るけど。
ところで買ってから何年も放置していた岩波文庫の『椿説弓張月』をやっと読みはじめた。2001年に復刊されたものだが版はそのままらしく、漢字も旧字体なのでちょっと読みづらそうだと敬遠していたのだ。とはいえ馬琴の文体は漢文書下し調というか、分節の区切りが短く、七五調的なリズムもあり、馴れれば教科書で習うような和文体よりは余ほど読みやすい。弓の名手だという鎮西八郎源為朝が主人公だが、内容的には荒唐無稽も甚だしいエンタテインメントで、その序にも「事はその時代を考(かんがふ)るといへども、文はなほ山林の口氣を脱(まぬ(原文ママ))れず。これ婦幼の耳目に解し易からんが為なり。」(※1)とある通り。以下を読めばそれは一目瞭然だ(原文の文の区切りはすべて句点だが、一部を読点に変更し、漢字も大部分常用漢字に変更した)。
かくて式成(のりしげ)弓に矢つがい、満月のごとく引きしぼり、矢声をかけて切って發(はな)つを、為朝雌手(めて)に丁と取る。程もあらせず、則員(のりかず)がはなつ矢胸下(むなもと)ちかく飛来るを、是をも雄手(ゆんで)に受けとめたり。こは射損ぜし朽をしさよ、縦(たとひ)射ころすまでに至らずとも、やはこの度は取られじと、両人斉(ひと)しく引しぼり、しばし透間を窺て、よつ引票(弓偏に票)と發(はな)つ矢を、一條(ひとすじ)は袍(ほう)の袖に縫留めさせ、又一條は取るに間(いとま)なければ、口もて楚(しか)と食留めしか、忽地(たちまち)鏃(やじり)を噛碎(かみくだ)きつ。その疾(とき)こと陽炎(かぎろひ)の登るがごとく、雷電(いなづま)の閃(ひらめく)に似て、人間技ともおぼえねば、これを見るもの醉(え)へるがごとく、嘆賞あまりて声だに得揚(えあげ)ず。(※2)
このとき為朝十三歳。とはいえ恐らく数えだろうから、満で十二歳。矢を手で受け止めるどころか口で受け止めるという離れ技、第一回にしてこのハッタリだ。つづく第二回では二頭の子供の狼を手もなく手懐けてしまう。さらに第三回では早くも一頭が殺されてしまうのだが、切られた首が木に登り、主を狙う大蛇に食らいつくという、これはもうマンガとしか言いようがない。
『八犬伝』もそうだが、それほど敷居の高いものではなく、気楽に読める娯楽小説なのだ。そのわりにあまり読まれていないのは、上にも書いたように文章の問題があるのだろう。さらには現代風に翻案される機会が少なくなっているということもあるかもしれない。そうとすれば残念なことだ。
それでも馬琴などは一般に流通していて比較的入手も容易だからいい。人気の戯作者でもう一人忘れてはならないのが柳亭種彦だが、こちらのほうはその代表作『偐紫田舎源氏』が岩波文庫で出ているが、長く版が絶えている。そのため図書館か古書店で探すか、あるいは高額な古典文学全集などでしか目にすることができないという有り様だ。これはどうにかならないものか。
とここまで書いてから岩波書店のサイトを覗いてみたら『椿説弓張月』も品切重版未定になっていた。
※1 曲亭馬琴作・和田万吉校訂『椿説弓張月』(上巻)岩波文庫 2001年2月22日第10刷発行/13頁
※2 同上/20〜21頁
ゾウセツ……
2009年04月29日
ようやく新しい内臓HDDを購入して取りつけた。外付けでも良かったのだが、設置スペースがないので内臓にした。とはいえすでに2台内臓しているので電源がなく、已むを得ず内臓MOの電源を使用することにした。MOはもうほとんど使用していないし、バックアップデバイスとしても用を為さなくなったので、外してしまっても問題はない。前のような凡ミスをせぬよう取りつけ作業には細心の注意を払った。
それを機にOSのほうもMac OS X10.3.9から最新の10.5.6にすることにした。ローカルで使用している分には10.3.9でもまったく困らないのだが、ネット環境で不便を感じることが増えてきて、ネットをやめることはできないので、以前から購入を考えてはいたのだ。
とはいえ、10.4を飛び越えてのバージョンアップになるので、これまで使用していたアプリが使用できるかどうか、いくらか不安だった。それはしかし杞憂だったらしく、ほとんどのアプリは正常に動作している様子なのでとりあえず安堵した。一部対応していないものはあるが、それらは追々新しいのに替えてゆくつもり。
ところで小説のほうだが、やっと五十枚くらい。──以下抜粋。
見馴れた光景に息を呑むとはしかし面妖で、それでもまるで見も知らぬ女の寝姿とそれは映り、規則正しいその寝息に引き込まれるようにそちらのほうへ寝返り打つと、いけません、と寝息の奥からいやにはっきりと、寝言とも思えぬほどの口吻で、もちろん寝言に違いないのだが、いけません、ともう一度、それが妙に艶(なまめ)かしく、とはいえそうきっぱりと拒絶されてしまえばそれ以上手も出せず、もとよりそのつもりはないにせよ禁止や拒絶の身振りが却ってその侵犯へと誘うということもあり、妙な斑気(むらき)に動かされて首を擡げると、いけません、とこれには拍子抜けして、というかツボに填り、一頻り声のない笑いが一室を満たすが、そのちょっとした空気の震えを感じたのかして、笑いごとじゃありません、と叱責の口調になり、そこに生真面目な気質が表れているようで、笑ってはいけないと思えば益々笑いが高じて怺えきれず声が洩れ、それにはしかし反応はなく、掠れた笑い声が如何にも弱々しく響きそして消えゆくなか、前より以上に際立ってくる寝息に包まれてまた微睡みのほうへ、というかここはすでに微睡みの内か、さっきまでベンチにいたはずなのに、そこで尻と膝との鬩ぎ合いが演じられていたのに、それはすでに遠く、つまりベンチのほうが微睡みの内なのか、どうもそうらしい、違うかもしれないが、まあ違っていようが違っていまいが四囲の様子に変化はなく、それを眺めるこちらの眼差しが変化したということか、翳ってもいないのにさっきより一段と暗さが勝り、静けさも一段と増した様子で、そうした要素は、暗いとか静かだとかいった、どちらかというと負の性質を帯びやすい要素は、この場を離れる切っ掛けとしては申し分ないのだが、勢いが足りないのか、すり鉢状に窪んだその際深部で、いやもうすり鉢状に窪んではいないが、見通しの利く、視界を遮るものもない広場の端で、何もない広場の端にあるベンチで、何を見ているのか何が見えるのか、というか何を見ているわけでもないし何が見えるのでもないが、それでも眼を開けている以上何かが見えてはいるわけで、その見えている何かが何なのか、それによって微睡みの内か否かも分かるのだろうか、分かったためしがあっただろうか、とにかく見えているものが何なのか、さしあたりそれをはっきりさせなければ、と見えているものを捉えようと凝らしたり眇(すが)めたり見開いたり瞬(まばた)いたり、をくり返しているうちに視界を横切る影が、眼球の動きに連動して動くそれはゴミのように目の前を浮遊して見ることを妨げ、決して焦点の合わない常にピンぼけのそれは右と左とでそれぞれ数個ずつ、日によって増減することもなく常に一定の数だけ存在しているが正確にいくつあるのかは分からず、というのも数えようと追い掛けると逃げてゆくからで、そうしてちぐはぐな動きでこちらを撹乱しつづけ、だから見えているものが何なのか、見えないものを見ようとしているとすればそれを見ることは叶わないのか、それでも尚見ようとするのはいったい誰の差し金か、(後略)
とまあ、こんな調子で延々つづいてゆくのだ。