葉亜駄芽大
2007年12月29日
小説難航中。まあいつだって難航してるわけだが、予定の100枚には達しているのに終わる気配がない。そこに確固たるストーリーでもあればどうにか結構をつけて終わらせることもできようが、それがあるようでないようなものとなると、終わるに終われないわけだ。小説を書きはじめるのは比較的容易だが、小説を終わらせるのは至難の業ということだ。
抑も小説にそれ自身の内在的な終わりは見出しにくい、というか見出し得ないのではないか。それを終わらせようとするから無理が生じる。結果、嘘臭くなる。とはいえ、終わらないからといって、延々書きつづけるわけにもいかない。どうにかして終わらせなきゃならない。
でも年内には無理っぽい。葉亜駄芽大。
マイペース
2007年10月31日
小説をチビチビと書いている毎日。いや毎日というか、一日置きか二日置きくらい。以前に較べて全然書けなくなっている。単に怠けているだけと言えなくもないが。少しずつでも毎日書いていればもっと早くできあがるのに、分かっていてもなかなか思うようには進まない。
今度のは前作よりセンテンスを短めにしている。それでも一般的なものに較べたら長いかもしれないので、読みやすくなっているかどうかは分からない。改行は相変わらず少ないし。抑も読みやすさを考慮しているわけでもないし。それにどうせ誰も読まないからそんなことを気にしても仕方がない。
年内には書き終えたいところだが、どうなることか。
公私混淆
2007年09月13日
最近、公共意識や規範意識の低下が言われているらしい。どこにでも坐り込んだり、電車内で化粧したり、そうした若者が増えているせいか。思うにそれは携帯電話の普及が多分に影響しているのではないか。ほかにも携帯音楽プレーヤーとかノート型パソコンなんかも影響しているだろうが、携帯電話がその最たるものではないか。
抑も携帯電話というのは、プライベートなコミュニケーションを行うツールなのだ。社用で使用しているとしても、周囲にはプライベートな行為として映るわけで、つまり携帯電話を使うということは、使用する人にとってその場所が瞬時にしてプライベートな空間になるということなのだ。パブリックな空間にプライベートな空間を開いてしまうというか。そしてプライベートな空間にいる者にとって公共意識や規範意識が薄れてしまうのはなかば必然と言っていい。たとえば自分の部屋にいる者が他人の視線など気にするだろうか。
要するに携帯電話というツールは、パブリックな空間とプライベートな空間を決然と分かつことを不可能にしてしまうのだ。パブリックな空間にいながら同時にプライベートな空間にもいるということをそれは意味していて、もはや避けられない現実だろう。とはいえこうした話は今にはじまったことではなく、携帯電話が出てきた当初から言われていることだ。
ところで規律訓練型権力から環境管理型権力への移行ということも、最近言われているわけだが、上記の状況から見るとよく分かる。つまり規律訓練型権力が機能する場としてのパブリックな空間が、個々のプライベートな空間によって虫食いのような状態になっているということだ。
抑も規律訓練型権力において、公共意識や規範意識というものは、他者の視線を内在化させることで得られるものだ。ところが、常にプライベートな空間を纏っているとそうした他者の視線を意識することが困難になり、それを獲得すること自体が困難になるわけだ。その結果、そうした他者の視線を内在化することができない人が増えているということか。公私混同ならぬ公私混淆と言えよう。
そして、他者の視線を内在化できないのなら外在化させればいいという発想で、最近増加しているのが監視カメラだ。そうしたなかで公共意識や規範意識を高めるには、プライベートな空間を身に纏うことを、つまり携帯電話等の使用を、全面的に禁止するしかない。しかしそんなことは不可能だし現実的でもない。もはや携帯電話のない生活なんてあり得ないからだ。だから公共意識や規範意識の低下というよりは、公共意識や規範意識の変化と言ったほうがいい。自己責任という言葉に象徴的だが、自己決定権の増大もそうしたことと相即の関係にあるだろうし、ポストモダンな状況に適応した結果とも言えるだろう。
そうとすれば、上記のようなどこにでも坐り込むとか、電車内で化粧するとか、そうした行為にしても、単純にそれだけを切り取ってマナーが悪いと非難することもできなくなる。というのも、そういったマナーを犯す者が一方にいて、それを快く思わない者が一方にいるわけだが、両者は同じ空間に身を置きながら、同じカテゴリーに属していないからだ。片やプライベートな空間に身を置いていて、片やパブリックな空間に身を置いている。そしてそうした行為が非難されても、非難された者は非難されたことを快く思わない。なぜなら、プライバシーを侵されたと認識するからだ。ここにはコミュニケーションの断絶があり、この溝はなかなか越えがたい。
一方でプライベートな空間を身に纏うことを許され、一方でパブリックな空間にいることを求められる、つまりはプライベートな空間を身に纏うことを禁じられるという、ダブルバインドの状況に否応なしに置かれているということなのだ、私たちは。パブリックな空間にありながらプライベートな空間に没入してしまう私たちには、もはや監視カメラはなくてはならないものなのだろうか? テロ対策等考えると、已むを得ないという気もするが、なんだか前世紀のSF的な管理社会に近づいている気がしてならない。
電気の力
2007年07月12日
「空気を抜くのが和菓子、空気を含ませるのが洋菓子」といつだったかパティシエの辻口博啓氏が言っているのをテレビで見たが、蓋し卓見と言っていい。洋菓子作りに於いてはあらゆる面で空気を含ませることが重要だからだ。スポンジ然り、生クリーム然りで、生地中、クリーム中に、いかに多くの気泡を含ませ、そしてそれを維持するかに、あるいは各個に求められる最適の気泡量に調整するかに、すべてが掛かっていると言っても過言ではない。
そしてクリームや生地や卵などに空気を含ませるのに必要なのが、泡立てるという作業だ。泡立てるのに何を使うかといえば、一般的にはハンドミキサーだろう。ところが私は専ら泡立て器(ホイッパー)で、つまり手で泡立てている。別段それに不便を感じてもいないが、腕力に自信はないから疲れることは疲れる。それでも、わざわざハンドミキサーを買うことはないとずっと思っていた。大量に仕込まねばならぬわけでもないのに、そこまで電力に頼る必要があるのかと。
ただ、手立てだとやはり時間が掛かる。特に全卵の泡立ては大変で、さらには夏場のキッチンともなると蒸し風呂のごとく高温になるから、そこでの手立ては過酷だ。共立てに較べて別立ての生地は相対的にずっと楽で、メレンゲは手立てでもまったく問題ないし、ムース系のものには別立て生地のほうが相性がいいということもある。そのため、これまで共立て生地は作るのを回避する傾向にあった。
とはいえ、共立て生地を使ったケーキをもっと作りたいとの思いもあるし、そうした需要が増えているといった事情も少なからずある。また、生クリームにしてもあまり時間を掛けていたら温度も上がってくるだろうし、抱き込む気泡の量も変わってくるかもしれない。そうした作業効率も併せ考えるとやはり導入することは避けられないのかもしれない。
そこで、已むなくというか、試しにというか、ハンドミキサーを購入することにした。一万円を越えるようなものを買う気にはしかしならない。然りとてあまりに安いのもなんか嫌だ。ということで、三千円くらいの手頃なヤツをヨドバシで購入した。
買ってみたが出番はまだない。
新作らしい
2007年07月03日
新作小説がupできた模様。400字詰め原稿用紙で換算して約122枚だから、一般的に短編の部類だが、ネットではなぜか中編と見做されるらしい。多分にそれはモニタでの長時間の閲読が眼を疲れさせるからで、つまり活字で読む場合よりも相対的に長く感じられるということからくるのだろう。
とはいえそれは端的に主観の問題で、小説それ自体がかかる違いを引き起こしているわけではなく、つまり短編が中編になるわけではないのだから、短編を中編と言い換える必要もまたそこには存しないと思うのだ。媒体が変われば受ける印象も異なるということも分からないではないが、何となく解せないのだ。そこには水増しして長く見せようというような、そうした意識が働いているように思えてならない。
ネットの慣例に従うつもりはだからなく、100枚前後のものであれば短編としてupする。これまでもそうしてきたし、これからもそうするだろう。
それはさておき当の新作小説だが、一行が、ワンセンテンスが、つまり「。」が出てくるまでが、3〜4ページくらいの長さだから読み辛いことこの上ないだろう。まあ活字ならそうでもなかろうが、いや人によってはそれでも長いと感じるかもしれないが、モニタで横書きだと尚さらそうだろう。ただそうした文体は私に馴染みのものというか癖みたいなもので、自然とそうなってしまうのだから仕方がない。他の小説も似たり寄ったりだ。意識的に短くしようとしたときには短くなるが、あまりそういう気もないから必然的に長くなる。
つまり内容的にも形式的にも超マイナーということで、読まれないのも無理はない。実際的に読まれているのか読まれていないのかは定かじゃないが。ただそうしたものを好む向きもあるかもしれないとも思うのだ、というかそうでも思わねばやってられない。
とにかく新作をupしたということで、それが言いたかったのだ。