できたかもしれない
2007年06月30日
小説ができたかもしれない。少なくとも形にはなったようで、いやなってないかもしれないが、これ以上書き加えることはないようにも思えるから、その意味ではできたと言えそうだし、何がなし達成感めいたものを感じないでもない。
といって誰も待ち望んでなどいないだろうけど。なぜといって自分で読み返してもかなり疲れる文章で、前にも書いたが、そんなものを好き好んで読む人はいないだろうからだ。面白いから読めとはだから言えない。それがどうにも辛いというかやり切れないが、最初から万人受けするものを狙っていないのだから仕方がない。
とはいえここは小説サイトなのだから、レシピサイトとしてのアクセスはそれなりにあるものの小説サイトとしてのアクセスはなきに等しいといはえ、それでもここは小説サイトなのだから、そういうことになっているのだから、小説をupしないことにははじまらない。
とにかく小説ができたかもしれないので、そのうちupすることになるだろう。まあ、上記のようなことをここに書いたからとて読み手が現れるものでもなかろうが。
もう少し?
2007年06月20日
小説ができそうでできない。あともう少しで終わるはずなのにうまく纏められない。異様に長いセンテンスと無内容な文章の羅列というような、そんな小説。登場人物もほとんどいないし語るべき筋もなく、だから恐らく誰も読まない、というか読めないだろう、そんな小説。一般的な意味での小説の規範からすればとても小説とは言えないような、書くことについて書いている、そんな小説。といって殊更新しい試みでもないのだが。というのも、近代小説が誕生したそのときから、小説というものが、小説についての小説だったという意味で言えば、それが小説であるかぎり、少なからず自己言及的な指向性を内に含んでいるだろうからだ。
それはともかく、集中力が足りないのか、意欲に欠けるのか、遅々として筆は進まない。梅雨が明ける前には書き終えたいところだが、どうなることか。
一段落
2007年06月11日
前々からやめようと考えてはいたのだが、なかなか踏ん切りがつかなかったフレーム。といって、殊更やめる必要を感じていたわけじゃなく、SEOがどうのとか、アクセシビリティがどうのとか、検索に掛かりにくいとか何とか、そうしたこともどうでもよかったのだ。
アクセス数が気にならないといえば嘘になるが、大量に訪問されても何だか気味が悪いし、細々とマイペースにやってゆければそれでいいくらいに考えていたからで、いや今もその考えに変わりはない。だからある意味フレームによるアクセス制限ということでもあったわけだ。フレームがアクセスアップを阻害するという巷間言われている言説を信じるとしての話だが。
ただ何となく居心地が悪くなったというような、そんな感じがしていたことはたしかで、そういう感じを抱えたままやってゆくのはやはり落ち着かないということで、やめることにしたわけだ。
まあ有り体に言って気分の問題で、とくに深い意味はだからないし、前へ出ようという気もあまりない。というか、人のいないほういないほうへと赴く傾向にあるくらいだから、前へ出るなんてことはあり得ない。
その割に訪問が少ないとそれはそれで憂鬱になったりするのだから矛盾している。
とにかくフレームはやめにしたわけだ。まだ削除せねばならないファイルは残っているが、とりあえず、作業的には一段落した。
とはいえ、比較的短期間に手作業で作成したこともあって、リンク切れや、誤りもあるかもしれない。そんなわけで、もし誤り等ありましたらご指摘頂けると幸いです。
あれもペクチン、これもペクチン
2007年05月27日
ムースやタルトのデコには艶出しの上掛けとして透明なナパージュを使う。市販のものもあるが、添加物等が気になるので自作している。保存はあまり効かないが、何かと重宝していて、市販品を買う必要は今のところ感じていない。
そのレシピは当サイトにもupされているが、先日そのレシピでナパージュを作ったという方からメールを頂いた。それによると、レシピの通りに作ったもののまったく固まらなかったということだ。作り方自体は難しいものじゃないから、失敗するということはまずないと思うのだが、何度やってもうまく行かないというのだ。
どうも使用したペクチンが異なるようで、その方は『MCPペクチンパウダー』という製品を使用したとのこと。ところが私の使用しているのは小倉食品化工株式会社の『ペクチン』。と言ってもペクチンはペクチンで、製品によってそれほど違いが出るものかと不思議で仕方がない。これまでうちのレシピでナパージュを作ったという声は二、三あるが、失敗したというのは聞かない。
とはいえ、レシピ通りに作って作れないとなると、それはこちらの不備とも言える。今後同様のことが起きないともかぎらないし、何か対策を立てねばなるまい。それには『MCPペクチンパウダー』がいかなるものかを知るに如くはない。そこで、当該製品を使用してナパージュを作ってみることにした。そしたらなるほど固まらない。ペクチンの量が足りないのかと量を増やしてみてもやはり固まらない。ということはやはり製品自体の違いが関係しているらしい。
そこで、両製品の成分がどうなっているのか見てみると、以下のようになっていた。
若干の違いはあるものの、何が決定的な違いなのかはよく分からない。
ところで、ペクチンがゲル化するには条件がある。ただ砂糖といっしょに煮詰めればいいというものではない。きちんと条件を満たしていなければゲル化はしないのだ。その条件というのは、pH2.7〜3.5、糖分55〜80%、というもの。
固まらない、つまりゲル化しないということは、上記ゲル化の条件を満たしていない可能性があるということだ。ということは、抑もレシピ自体に問題があるということも考えられる。そこで計算してみると、糖濃度が32%程度しかないことが分かった。ゲル化しなかったのは恐らくそのせいだ。
ではなぜ、小倉のペクチンではゲル化するのかというと、何らかゲル化を助ける働きが作用していたということで、成分を見るとそれが分かる。『MCPペクチンパウダー』にはなく、小倉の製品にあるもの、そう、乳酸カルシウムだ。 調べてみると、乳酸カルシウムにはペクチンを架橋させてゲル化を促進する働きがあるということだ。
これで問題の所在はほぼ明らかになったと言っていい。つまり糖濃度が低かったことと、そのうえゲル化を促進する乳酸カルシウムが含まれていなかったこと、それがゲル化しなかった原因だ。ということは、糖濃度を高くすればいいわけだ。そして条件に合致するように分量を調整して再度試作してみたところ、きちんとゲル化した。
ただ、糖濃度が高くなった分、甘みも強くなってしまい、ナパージュとしての使用はちょっと厳しいかもしれない。酸味を足すなどして調整する必要があるだろう。
レシピには、いちいち製品名まで明示していないが、製品によってはでき上がりに違いが出てしまったり、あるいはちゃんと作ることさえできなかったりすることもあるのだと知り、勉強になった。また、メールを頂いた方には大変感謝している。とはいえすべてのレシピにおいて製品名を明らかにするのも、宣伝めいてためらわれる。かといって事前にすべての製品で検証することも難しい。
ただ、こればかりは垂れ流しだからなどと済ましてもいられないので、ご指摘頂ければ、それについては誠意を以て対応する所存だ。
尚、メールを頂いた方は、その後小倉のペクチンでちゃんと作れたということだが、一応今回の検証結果は報告させて頂いた。
右から左へ受け流す
2007年05月14日
「右から左へ受け流すの歌」が面白い。ただ右から来たものを左へ受け流すと言っているだけで、何の意味もない。その無意味さに、不条理に、笑ってしまう。最初に見たのは「ガキの使い」だったが、それからジワジワと浸透してきてる感じで最近よく目にする。
ほかにも「上から落ちてきたものをただ見てるの歌」とか「数字の6に5を足してみたの歌」とか「後頭部に違和感があるの歌」とか、ヴァリアントはいくつかあるが、曲自体は同じだし構造的にも同じ性質のものだ。ただ、「後頭部」の歌はほかの歌に較べて不条理感が著しく減衰していて、不条理というよりはあるあるネタ的なものになってしまっている。
ふと思ったのだが、自分の小説を一言で喩えるなら、このムーディ勝山の「右から左へ受け流すの歌」みたいなものではないだろうか。フリだけがあってオチがないというか、内容らしい内容がないというか、そうした有りようがどこか似ているような気がするのだ。尤も私の小説を読んでもほとんど笑いは生じないが。
そしてこの面白さは、ある意味ベケット的でもあるなと思うのだ。中心が不在で中心から逸脱する様だけが描かれているという点で、あるいは意味を無意味へと変えてゆき、それが笑いを誘うという点で、サミュエル・ベケットにも通ずるものがあるかもしれない。
ということは、「右から左へ受け流すの歌」を面白いと感じるセンスがあるなら、ベケットも面白く読めるんじゃないか。そんなふうに思う。とはいえ、ベケットはムーディ勝山のようには広く受け入れられないだろう。ベケットの徹底した不条理は、ムーディの不条理を遥かに凌いでいるだろうからだ。
因みにベケットが意味ゼロの地点を指向していたとすれば、その対極にいるのがジェイムズ・ジョイスと言えよう。ジョイスのほうは言葉に多様な意味を込めていたわけだから、意味無限大を指向していたってことになるか。だからジョイスを楽しむには注釈が必要なのだが、ベケットには注釈は不要なのだ。
そのうち何とかなるだろう。
2007年05月11日
現在猛烈に小説を執筆中、一心不乱に書きまくり中、脇目も振らずにキーを叩きまくり中、夜の目も寝ずに書斎に籠もり中、というのは嘘で、全然書けてない。いや全然ってことはないが、筆が進んでいるという感じではない。イベント※も終わったことだし、そろそろ小説に専念できるだろうと思ったがそうすんなりと事は運ばないらしい。いったい、いつになったら書き終わるのだろう。まあいつかは書き終わるだろうが、今のところは何とも言えない。暢気(のんき)に構えているわけではないが、焦ったってはじまらない。そのうち何とかなるだろう。
※──5月5日に開催されたコミティア80
人酔いするほうだ。
2007年05月07日
コミティアへ行ってきた。毎度のことながら人混みは疲れる。帰りの電車には酔いまくるし、帰宅するころにはひどい頭痛でそのまま蒲団へ直行。そのため変な時間に目が覚めた。
それはともかく本は結構売れた。完売とまでは行かなかったものの、半分くらいは出た模様。参加メンバーが巧い方ばかりだからさもありなんといったところだが。
お立ち寄り下さった方、お買いあげ下さった方、ありがとうございました。
誰のため
2007年04月21日
書くといった手前書かねばならないとこないだやっと小説に取り掛かることができた。とはいえ二日で原稿用紙二枚くらい。それでも毎日原稿に向かっていればいつかは終わりがくる。そういうものだ。これまでもそんなふうに書いてきたのだし、これからもそんなふうに書いてゆくだろう。元より締め切りのある身ではなし、気が済むまで弄くり廻したっていいわけだ。とはいえ書き進めてゆくに従って書かれたものが自らを規定しはじめるから、好き勝手はできなくなるのだが。そして筋らしい筋がないせいか、全体を俯瞰的に捉えることが難しく、纏めるのには苦労する。そうして書きあげても、ほとんど誰も読まないだろうからやり切れないが、それでも書かずにはいられないのだから、どうしようもない。
最初っから筋のないものを書いていたわけではない。最初はそれがあった。いつからか、それがどうでもよくなった。端的に筋を考えるのが大変だということもあるだろうが、自分が何を書きたいのかということを突き詰めると、それは筋ではないということで、さらには書きたいものと筋との折り合いがあまり宜しくないということだ。
読まれるためには筋があったほうがいいだろう。それは分かっている。しかしそれでは書きたいことが書けない。そこで決断を迫られることになり、筋など要らないということになったわけだ。結果誰にも読まれないとしても、それはそれで仕方ない。
5月5日は何の日?
2007年04月18日
五月五日と言えば端午の節句なわけですが、元もと陰暦五月の午の日に祝われていたもので、いや、そういうことはどうでもよくて、その日にはコミティアというイベントがあるのです。自主制作漫画誌展示即売会です。去年も参加しましたが、今年も参加します。
オタクの祭典と言えばコミケですが、パロディが主のコミケと異なり、コミティアは創作系同人誌のイベントです。そして今回のCOMITIA80は拡大版で、参加サークルも2627サークルと通常の倍近くあり、会場も2ホールとなってます。
開催日 5月05日(土)
場所 東京ビッグサイト 東1・2ホール
スペース 【う15】
サークル名【鉄塔】
前回はマンガでしたが、今回はフルカラーイラストとなっております。2枚(4ページ分)描かせて頂きました。上図はその一部(主線のみ)。
お越しの際はお立ち寄りください。
とりあえず書くと言ってみる。
2007年03月25日
もうかなりの期間、半年以上だろうか、小説に手をつけていない。というのもいろいろ立て込んでいて書いている余裕がなかったからだ。とはいえ、書こうと思えば書けていただろうから、そんなのは言い訳にしかすぎない。前作をupしたのは去年の三月初めごろだから、それから丸一年が経ってしまっているわけで、そろそろ執筆を再開したいところだ。枚数的には80枚くらいになっているからもう一息で終わるはずなのだ。
筋らしい筋もなく、主人公の独白が延々と句点も改行もほとんどなくつづくというような小説で、およそ読み手など現れそうにないものだから、書こうが書くまいが、upしようがしまいが、益にも害にもなりはしないだろうが、それでも私には必要欠くべからざるもので、書いているうちは、書かねばという意志を保持しているあいだは、少なくとも生きていられるだろう、あるいは生きていてもいいのだというような、そうした思いがあるのだ。つまり書くことと生きることとが、不可分に結びついているということなのだ。だから私にとって書くことをやめることは即ち死ぬことを意味する、とそこまで言ったら言いすぎだろうが、強ち嘘でもない。というのも、今よりももっと死に憑かれていた一時期に死なずに済んだのは書いていたからだと言えなくもないからだ。
とにかく、つづきを書かなければなあと感じているわけで、四月には再開したいと考えている。というか、ここにそう記すことで自身を掻き立てようとしているわけだ。たとえ誰もそれを求めていないとしても、ネットが公共空間であるというかぎりにおいて、それは私を書くことへと向かわせるに違いない。そうした目算がはずれることがないとは言えないにしても。
綺麗になりたいの。
2007年01月23日
以前はそんなものかと思っていたが、この頃レシピに使用している画像が妙に汚く見えてきた。というのも、最近頓にネットの画像の質がよくなっているからで、それに比して自身のサイトの画像が汚く見えて仕方がないのだ。これはもう画像をクリンナップするよりほかにないと思った。とはいえ無闇に大容量にしたりしても却って閲覧の妨げになるだけだろうから、閲覧に不便のない程度に、適度に画質の向上を図るということになる。
適度といってもその適度がどの程度のものなのかということになるが、それがもひとつ分からない。通信速度は個々に於いて区々だろうし読み込み時間によるストレスの度合いもその感じ方は個々に於いて異なるだろうからだ。さしあたって自分自身を基準とするよりほかはないが、それが平均的環境か否かはやはり分からない。それでも光通信ではないから早いほうじゃないことはたしかだ。
これまでの画質(品質)設定は65%で、画像一枚当たりの容量は20〜30KB。それを80%まで上げることにした。その理由は端的にアプリケーションの設定の区切りになっていて作業しやすいからだ。設定自体はスライダの操作で1%単位で可能だが、スライダが小さいのでいまいち使いにくいのだ。スライダが小さいのはモニタの解像度が高いからなのだが、わざわざそのためだけに解像度を下げるのもバカらしい。
まあそんなわけで80%なのだが、それでも容量的には30〜40KBくらいなもので、画像へはリンクで別窓表示だからそれほど負担ではないだろう。問題はむしろ複数表示されるサムネイルだが、1〜2KBほどだったのを画質90%まで上げても3〜5KBにしかならなかったから、まず問題ないだろう。100%に設定しても7〜8KB程度だ。サーバの容量は充分あるし、一般的な通信速度も向上しているだろうからストレスにはならないと思う。
とはいえ、いざ修正するとなると大変な作業だ。まず元画像を探してこなければならない。デジカメの画像だからデータはハードディスクにあるし、ある程度分類もされているものの煩雑なことに変わりはない。しかも古いものはサムネイルがなく、いちいち開いて確認しなければならないからひどく手間が掛かる。さらにはピンボケだったり露出が変だったりするものも混じっているし、またレシピによっては撮り直したものを一部入れ替えたりもしているので、それやこれやをひとつひとつ確認してゆかねばならないと思うと気が遠くなる。
作業それ自体は単純なもので、縮小ののち色補正してシャープネスを施す程度。そのためにカスタムメニューを作ってあるからほとんどルーティン化されているようなもので、むしろその単純作業が徒となって退屈から作業効率の低下を招きそうだ。ただ、総レシピ数が恐らく150を越えているから、すべてを修正するにはかなりの時間を要すると思う。
途中で挫折しなければいいが。
五周年
2007年01月18日
早いもので、サイト開設から五年が経った。だからといってどうということはない。とはいえ長くやっているとモチベーションの低下は免れがたく、実際小説もイラストもほとんど更新できていない状況だから、目出度いのだか目出度くないのだか分からない。
そのなかでレシピだけが着実に増えていて、全くの更新停止状態ではないことがある意味救いと言えば救いだが、それはそれでまたべつの問題を孕んでいる。というのもレシピはメインコンテンツではないからだ。ここをレシピサイトか何かと思い做している向きには悪いが、いやむしろそちらのほうが多数派かもしれぬが、まあ多数と言っても実際の数は高が知れているだろうが、とにかくレシピは座興というか余興というか、何かそういった片手間の類いにすぎないのだ。それにも拘らずなぜこうもレシピばかりが増えてゆくのか、そんなことにいったいどれほどの意味があるというのか。いや、意味を問うこと自体にさしたる意味はないにしても、何か釈然とせぬ思いが、五年のあいだに蓄積か堆積かしたものが、あるような気がするのだ。
そういうときは初心に返るというのが定石なわけだが、初心とは何かといえばさしあたり開設当初の状態に立ち返るということを意味するだろう。必要なもののみを残して不要なものは廃棄するということか。まあ、それもひとつの手だ。何もないところからまたはじめるというのも一興だろう。ここのデータの一部が、いや全部と言ってもいいが、なくなったところで誰も困りはしないのだから。
そうは言っても元もと物が捨てられぬ質だから必要と不要とを弁別することはそれ自体困難を極めるに違いない。それに抑もここは「垂れ流し」ではないか。つまりは有象無象のごった煮の何でもありのゴミ捨て場に他ならない。そうとすればここには必要も不要もありはしないということで、抑ものはじめから弁別の対象たり得ぬものとしてあるとすれば、今さらそれをどうこうすることはできないだろう。
そういったわけで、依然釈然とせぬ思いは抱え込んだままそれをどうすることもできぬというジレンマに今後も苛まれつづけるだろうが、さしあたり初心を思いだしたということで諒とするよりほかない。