読みたいときに読む。
2006年12月29日
買った本が書棚に溜まっていて、手つかずのまま放置されているのもずいぶんある。
といってまったく手つかずというのでもなく、少しずつ読んではいて、ヘーゲル『精神現象学』を最近読みはじめたところでもある。これがしかし分かりにくい。何を言っているのかほとんど分からないので、何らか読解の手引きが必要だと痛感している。ただ私の場合、創作の役に立てばいいくらいの気持ちだし、何より読書を楽しみたいというだけだから、十全な理解に及ばなくてもさして困らない。もちろん理解できるに越したことはないが。
大西巨人『神聖喜劇』(四、五)『深淵』(上、下)『縮図・インコ道理教』
鹿島田真希『ナンバーワン・コンストラクション』
金井美恵子『快適生活研究』
川上弘美『ハヅキさんのこと』『真鶴』
笙野頼子『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
多和田葉子『アメリカ 非道の大陸』
古井由吉『山躁賦』『野川』『辻』
丸山健二『貝の帆』『落雷の旅路』
尾崎紅葉『多情多恨』
蓮實重彦『表象の奈落』
大澤真幸『思想のケミストリー』
ドン・デリーロ『コズモポリス』
サミュエル・ベケット『名づけえぬもの』
クロード・シモン『フランドルへの道』『ファルサロスの戦い』『路面電車』
ミシェル・ビュトール『心変わり』
ロベルト・ムージル『特性のない男』(1〜4)
ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(上、中、下)
ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『哲学とは何か』
ジャック・ラカン『無意識の形成物』(上、下)
エトムント・フッサール『イデーン』(1-1、1-2)
モーリス・メルロ−ポンティ『知覚の現象学』(1、2)
マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』
ミシェル・フーコー『性の歴史』(1〜3)『真理のディスクール』
ジャック・デリダ『滞留』『パッション』『フィシュ』『有限責任会社』『コーラ』『プラトンの場』『名を救う』『エコノミメーシス』『アデュ』『友愛のポリティックス』(1、2)
曲亭馬琴『椿説弓張月』(上、中、下)
『近松門左衛門集2』『井原西鶴集3』
『西遊記』(一、二、三)中野美代子訳
『法華経』(上、中、下)
因みに今年読んだなかで印象に残っているのはサミュエル・ベケットで、『ワット』『モロイ』『マロウンは死ぬ』と読んだが、こんな小説があるのかというくらい衝撃を受けた。ほかに古井由吉『仮往生伝試文』、笙野頼子『金比羅』、夢野久作『ドグラ・マグラ』などが面白かった。『ドグラ・マグラ』については9月の雑記で少し書いたが、『ワット』について書いたmixiの日記(3月17日記)があったので、ついでといっては何だが載せておく。
サミュエル・ベケット『ワット』読んでます。面白いです♪
何というか、小説が小説ではなくなる解体の場面を目の当たりにしている感じとでも言ったらいいのか。いや、むしろこれこそ真の小説なのではないかと感じもします。
精神を病んでいる主人公ワットの内面を緻密に、というか偏執的に描写していて、ごく一般的な小説的描写なりストーリーなりを好む向きには、些末な描写の連続というか、逸脱を通り越して悪ふざけとしか思えぬかもしれない、どうでもよいことが(その実どうでもよくはないわけですが)延々何十ページにも渡って綴られてます。
ではつまらないかと言えば、決してそんなことはなく、文章それ自体は面白いというか笑えます。ほとんどギャグですよ。
ただ、主人公ワットは、名称とその意味が時どき結びつかなくなるという、ある種意味論的な乖離状況にあって、一編においてそれが偏執的な語りや描写を呼び込みもするわけですが、一方でそれは、小説的な語りから逸脱しつづける『ワット』という小説それ自体とパラレルな関係にもあるようで、そう思うと途端に笑えなくなるんですね。
例えば溲瓶ないし鍋ないし壺、まあ溲瓶としておこう、ノット氏の溲瓶を見たとする、またはノット氏の溲瓶のことを思い浮かべるとする、しかしいくらワットが、溲瓶、溲瓶、と言ってみてもむだであった。まあ、まったくむだではないにしても、ほとんどむだであった。つまりそれは溲瓶ではないのである。見れば見るほど、考えれば考えるほど、彼には確かな気がした、それはまったく溲瓶ではない、と。それは溲瓶に似ていた、それはほとんど溲瓶であった、しかしそれは、溲瓶、溲瓶、と言って、それで心安らかになれるような溲瓶ではなかった。それが、比類のない適切さをもって、溲瓶のあらゆる目的に答え、そのあらゆる機能を果たしたとしても、むだであった、それは溲瓶ではなかった。そして真の溲瓶の本質からこのように髪の毛一本ほどだけ隔たっているということが、ワットを限りなく苦しめるのであった。(中略)溲瓶は、ワット以外のだれにとっても、溲瓶のままであることを、ワットは痛感していたのである。ワットにとってのみ、それはもはや溲瓶ではなかった。(白水社/新装復刊版/高橋康也訳 97〜98頁)
本来意味作用において、シニフィアン(能記 、意味するもの)とシニフィエ(所記、意味されるもの)とは分かちがたく結びついています。ところがワットにおいては、その結びつきが曖昧なものになっているんですね。少なくともワットにはそのように感じられてるということです。
ソシュール的に言ってもシニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的なものだってことですから、ワットの懐疑も、そういった言語の恣意性に対するものと見做すことができますね。
そして『ワット』という小説の語りの、小説的語りからの徹底した逸脱という側面は、ワットの懐疑に即したものとも言えるわけですが、ここにおいて、小説とは何かとか、語りとは何かとか、必然考えさせられてしまうわけです。小説からの逸脱それ自体が『ワット』を小説たらしめているという逆説!
ベケット恐るべし。
使用不能
2006年11月12日
最近めっきりペインターで絵を描いてない。ペインターは使うがせいぜい紙に描いたものをスキャンして加工するくらい。そんななか久しぶりにペインターで描いてみた。といってもラフは紙で、スキャンしたそれから下描きを起こすためにレイアウトを調整したり線の整理をしたり文字なども配したりした。ペイントソフトながらドローツールもそこそこ使えるペインターのそれが便利なとこなのだが、その文字をパスに沿って配置しようとした。ところがツールを選択してアンカーを動かしていたら不意にアプリが落ちた。幸い直前に保存していたので、データは無事だった。再度ファイルを開いて同様の作業を試みるが、アンカーを動かすと落ちてしまう。
アプリのバージョンは9.5.1だが、CPUが500MHz以上必要なところを350MHzのマシンで動かしてるから無理があるのかもしれない。ファイル自体も大きかったし。その後、何度やっても落ちてしまうので、再インストールするしかないと観念した。というのも以前にも似たようなことがあって、そのときはそれほど大したことはなかったのだが、それでも何かしら損傷はしていたのかもしれないし、だから同様の処理をしようとして落ちたとも考えられる。放置していたらいずれデータを壊してしまうかもしれず、そうなったら元も子もない。
というわけで、再インストールを行った。持ってるディスクはバージョン9だから、9をインストールののち、9.1にアップデートし、さらに9.5.1にアップデートということになり、非常に面倒な作業だ。押入れからパッケージを出してきてアプリをインストールした。ところが、ディスクエラーでインストールができない。どうなっているのかと、ディスクを取りだし見ると、ディスク面が汚れている。
ディスクは箱の台紙に固定されていたのだが、固定するためにフェルトっぽい丸い出っ張りがついていて、それが台紙に粘着テープで貼りつけてあった。その粘着テープが剥がれて、糊がディスク面に付着したのらしい。でもなぜそんなことになったのかというと、パッケージを横にしておくと、ちょうど台紙が逆さまになり、つまりディスクが裏蓋の上に貼りつく恰好になってしまうのだ。そのため粘着力が弱くなって剥がれ、その糊がディスク面に付着してしまったと推測される。
といって箱の裏面を上にしていたわけではなく、箱の表の面を上にした状態でおいていたのだが、その状態で蓋の裏側にディスクが貼りつく恰好になるので、ディスク自体の重みでテープが剥がれてしまったのだ。そしてディスクを固定するための台紙は、裏蓋に固定されている。それなら箱の裏面を上にしたらどうか。そうすると分厚いマニュアルが上に来る恰好になって不安定窮まりない。ただディスクとマニュアルとの間には敷居があるため、マニュアルが直接ディスクに伸し掛かることはない。それでも箱の裏面を上にしておくことの不安定感は拭いようもなく、これはもう構造的欠陥というよりほかない。箱を横ではなく縦置きにしたとしても、いずれ重みで糊が剥がれるだろうことは自明だろう。
とにかくディスクを傷つけないように慎重に糊を拭いとる。それ以外にも引っ掻き傷のようなものがついているから不安だったが、再度インストールを試みると、今度は無事にインストールできた。そして順次アップデートしてゆく。
で、一通りの作業は完了したのだが、カスタムに設定したデータは破棄せねばならないらしいと知った。パレット位置やらショートカットキーやらカスタムブラシやら、これまで作業効率化のために少しずつ蓄えてきたものを悉く初期状態に戻さねばならないというのだ。これは非常に痛い。しかしそうしなければ動作が不安定になるぞと脅すのだ。前のアップデートのときにはそれをしていなかったので、それもいくらかは原因しているのかもしれないと思い、泣く泣く破棄して起動する。が、アプリは起動せず。
まだ何か不具合があるのかとよくよく調べてみると、カスタム設定はアップデートする前に初期値に戻さねばならないらしい。加えて再インストールの仕方も拙かったらしい。どうもプリファレンス等のデータも破棄しないとダメらしいのだ。そのファイルがどこにあるかがしかし分からない。ペインターのサイトでようやく再インストールの仕方を見つけ、捨てるべきファイルを捨て、アプリも捨て、一切合切捨てて真っさらの状態にして、また一からインストールし直す。
今度こそうまくゆくだろうと思ったが、やはりアプリは起動しない。起動の妨げになるようなファイルは悉く処分してあるのにだ。あるいはディスクについた傷のせいで、インストールしたデータそれ自体が不完全なのかもしれない。2回に1回はインストールに失敗しているし。
念のため、今一度インストールを試みたが、1度目は失敗。2度目はインストールできたものの、起動することはできないのだった。やはりインストール自体が不完全ということか。つまりペインター9は、9.1、9.5.1もだが、完全に使用不能になってしまったということで、そうとすれば新たにインストールディスクを入手しないかぎり復旧の見込みはないと言っていい。どうしよう。
当面はペインター8で凌ぐしかないか。
胎児よ 胎児よ 何故踊る
2006年09月25日
「ブウウ──ンンン」という音に目醒めた主人公私は、「岩乗な鉄の寝台」があるだけの「青黒い混凝土(コンクリート)の壁で囲まれた二間四方」の一室にいた。そして私は一切の記憶をなくしていた。そこは精神病棟の一室で、つまり私は患者としてそこに収容されていたわけだ。壁の向こう側から、つまり隣の病室から「お兄さま」という少女の叫びが聞こえてくるが、その声の主は自身を主人公私の許嫁だと訴える。
主人公私はいつくかの殺人事件に深く関係していて、その記憶を取り戻すことが真相の解明に不可欠という、いわゆる探偵小説の手法で物語が展開してゆくのだが、構想十年執筆十年というだけに、この夢野久作の『ドグラ・マグラ』という小説は一筋縄では行かない。「胎児の夢」とか「脳髄は物を考える処に非ず」とかいう晦渋なモチーフに多くのページが割かれているせいだ。
主人公私は、九州帝国大学法医学教授医学部長の若林鏡太郎(わかばやしきょうたろう)の導きにより、正木敬之(まさきけいし)博士の書いた論文やら遺書やらを読むことになる。その中に、上に挙げたモチーフが出てくるわけだが、かかるモチーフは、世代を超えて記憶が遺伝するという心理遺伝なるものを根拠づけるために用意されたものだ。
胎児は生命の進化の歴史をすべて記憶していて胎内でそれを夢見ている、ということを正木博士は提唱している。これはエルンスト・ヘッケルの反復説(個体発生は系統発生をくり返す)から想を得ているようだが、つまりそれは歴史の反復ということか。
そして意識の座としての脳だけが物を考えているのではなく、ひとつひとつの細胞もまた物を考えているという「脳髄論」だが、「脳髄が物を考えるという」考え方を突き詰めると「脳髄は物を考える処に非ず」という考えが生まれ、「その『考える処に非ず』をもう一つタタキ上げて行くと」「又もや最初の『物を考えるところ』に逆戻りして来る」というように、ここでも反復が見られる。
さらに主人公私は心理遺伝の発作によって幾度も殺戮をくり返し、若林博士の実験というか治療によって、大正十五年十一月二十日の一日を延々とくり返している。「ブウウ──ンンン」ではじまり「ブウウ──ンンン」で終わる一編の構造自体も反復を示唆している。
ことほど左様に至るところ反復が顔を出す。そうした反復する時間のうちに狂気が孕まれるということなのだろうが、それによって人に於ける自我や意識といったものの優位性を覆そうとしたのでもあろか。
西原和海の解題(ちくま文庫版)によると、久作は若い頃に禁治産者として精神病院送りにされそうになったということで、作中それが「キチガイ地獄外道祭文」という形で結晶していて、ここにも執拗なまでの反復形式が見られるわけだが、怨念というか執念というか、並々ならぬ思いを感じないだろうか。幸い久作は精神病院送りにならずに済んだのだが、親族によって実際に精神病院送りにされてしまった作家といえば言わずと知れたサド侯爵で、思えばサドの小説も非理性や狂気によって理性の欺瞞を暴く体のものではなかったか。
『ドグラ・マグラ』という一編それ自体がアンポンタン・ポカンという狂人の手記ということになっている。ということは正木博士や若林博士の理性もそのうちに含まれているということで、つまり非理性のうちに捉えられることによって理性それ自体が非理性と化してしまうという構造になっている。かかる非理性内理性によって非理性の全体像を見渡すことができなくなるのは道理で、読者はだからポカン君と同じように、延々と同じところを廻りつづけるしかない。
反復が人を狂わせるというと、古井由吉『忿翁』の「八人目の老人」が思いだされる。そこには「霧と氷雨に閉ざされた巴里の陋巷で姿かたちのそっくりな老人につぎつぎ、七人まで出会う」というボードレールの詩について触れながら「露わな反復の恐怖に心臓の停まるのを惧れて背を向けた」とある。『ドグラ・マグラ』の至るところに現れる反復もまた、読む者を狂気へと誘う、そうした反復にほかならない。
RED GARDEN
2006年08月15日
同人誌【帝都畫報】でお世話になった綾村切人さんの新連載『RED GARDEN』が始まる。同名アニメが秋から始まるが、これはそのマンガ版で原作はゴンゾ。詳細は分からないがヴァンパイヤものらしい。
綾村さんは『親指さがし』のマンガ版も描かれていて、これを読めばその巧さが分かる。それほどでもない原作でも、綾村さんの手に掛かれば見違えるように面白くなる。
新連載と聞いて早速書店でコミックバーズを探したが、うちの近所には置いているところがないようだった。なので定期購読を申し込んだ。これなら買いに行かなくていいから楽ちんだ。
『月刊コミックバーズ10月号』8月30日発売。
『RED GARDEN』は表紙、及び巻頭カラーなので必見!
ショウジョノユメ。(綾村切人HP)
ローズ・イン・タイドランド
2006年07月25日
『ローズ・イン・タイドランド』
監督/共同脚本:テリー・ギリアム
共同脚本:トニー・グリゾーニ
原作:ミッチ・カリン
2005年/イギリス・カナダ合作/117分/原題『TIDLAND』
個人的評価─★★★★☆
元ロック歌手でジャンキーのパパ(ジェフ・ブリッジス)と、同様にジャンキーでチョコバー狂いのママ(ジェニファー・ティリー)。その二人のドラッグの世話まで焼くジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)は、『不思議の国のアリス』をバイブルとし、四体の首だけのバービー人形とおしゃべりする十歳の少女。
元ロック歌手でジャンキーのパパ(ジェフ・ブリッジス)と、同様にジャンキーでチョコバー狂いのママ(ジェニファー・ティリー)。その二人のドラッグの世話まで焼くジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)は、『不思議の国のアリス』をバイブルとし、四体の首だけのバービー人形とおしゃべりする十歳の少女。
ある日ママが急死してしまい、ローズはパパと二人でテキサスの祖母の家へゆくが、祖母はすでになく、家は廃屋と化していた。
家に着くとすぐにもパパはドラッグでバケーションに向かい、ひとり草原へ遊びにゆくローズは、そこで黒ずくめの幽霊女デル(ジャネット・マクティア)や、草原の海で巨大ザメを仕留めようとしている知能障害を持つディキンズ(ブレンダン・フレッチャー)といった隣人に出会い、自身の空想を逞しくしてゆく。
上記のごとく現実においてローズのおかれている状況は物凄く過酷で、ローズがそうした現実から逃避して空想に浸るのも頷ける。映画はかかるローズの空想世界と現実世界とをローズの視点に寄り添う形で描いているが、あまりに悪趣味且つグロテスクな現実に対しローズの空想が拮抗し得ているとは言いがたい。何しろ登場人物が悉く気狂い染みていて、ほんの端役を除いて真面な人物はただのひとりも出てこないのだ。それはそれでギリアム的で面白いのだが。
それに結末が非常にやり切れないというか、救いがないしカタルシスもない。いや、むしろカタルシスが訪れないということが、この物語の締め括りとして誠実なような気がしないでもない。もとより予定調和的に感動を強いるような結末は好まないし、ギリアム的にも相応しくないと思う。感傷を排し、少女の空想をありのまま再現しようとするその姿勢が良いのだし。あるいはそうした感傷性を排するための悪趣味且つグロテスクでもあろうか。
惜しむらくはもっと金を掛けてローズの世界を作り込んでほしかった。そうすればグロテスク且つ悲愴な現実とのバランスも取れたのではないかという気がする。
それでも観ている間はけっこう笑いもあって、といっても頗るギリアム的なシュールなもので大衆的なものでは決してないが、そうした笑いも相俟って楽しめる。しかし観終わってから、重い話だったんだということが痼りのような違和感として実感されてくる。ボディブローのようにあとから効いてくる。子供のある種の強靱さにいくらか救われるといった感はあるものの、現実を覆い尽くす悲愴感は拭いようもない。
アリスは最後に夢から目醒めたが、ローズが目醒めることはないに違いなく、いずれ欲望や妄執に狂った大人たちの仲間入りをすることになるだろう。
そんなことはしかしどうでもいいのだ。この映画はギリアム的世界を堪能できればそれでいいのではないか。現実を読み替えてゆくジェライザ=ローズの世界を楽しむというのが正しい見方ではないか。さらには主演のジョデルの魅力も欠かせない要素で、彼女を抜きにしてこの映画は成立しない。彼女がいなければ『ロスト・イン・タイドランド』になったとギリアムに言わしめたほどこの映画におけるジョデルの存在は大きい。
ただペドファイルなりネクロファイルなり、見る者の神経を逆撫でするような描写を狙ってやっていることもあり、万人受けしないだろうことは間違いない。それを言ったらギリアムの映画はほとんど万人向けではないのだが、アリス的なものを期待したら確実に裏切られる。
如上、グダグダと纏まりのないことを書き連ねたが、私的には面白かった。